第16話
僕が立花菫花について認識を改めるようになった次の日の出来事。
テストまであと5日。バイト禁止まであと2日に迫ったその日、上杉はいつも通り遠慮する様子もなく泊まりこみの勉強に励んでいた。
だが、今日はそれだけじゃない。
「……あのさぁ、思ったんだけどさ、これって勉強会だよね。」
「ああ。」
「そうね。」
僕と上杉はほぼ同時に頷いた。
「勉強会ってさ、お互いにわからない所を教え合ったりするためのものだよね?」
「そうだな。」
「そうね。」
僕と上杉は同時に頷いた。
「そうだね。じゃないよ!?誰一人行き詰ってないよね!?これ勉強会する意味ないよね!?」
何が気に入らないのか、そう叫んだのは天真爛漫な八方美人こと立花菫花だった。上杉が僕の家に寝泊まりしていることを知った彼女が、自分も一緒にと乗り込んできたのだ。
それは彼女の本音なのだが、建て前は別にある。
「いいじゃないか。彼氏の家で勉強会なんて、実に青春らしいじゃないか。」
「…………。」
そう、僕は立花菫花の告白を、上杉への返答を保留にしたままOKした。事実上、僕と彼女は付き合っていることになっている。
もちろん彼女には彼女の思惑があり、僕にもそれがあるのだが、それは後々の話にしておこう。
そんなことより、彼女の意味不明な怒りを鎮める事の方が大事だ。
「私は青春しに来てるんじゃないんだよ!?テストで少しでもいい結果が出るように、こうして澄玲ちゃんに教わりながら頑張ってるんだよ!?」
「そういう君も大して教わってないじゃないか。あ、その漢字間違えてる。」
「あ、本当だ。ありがとう。……っじゃなくて!!」
「なんだ?勉強会なら今役にたっただろう?」
呆れて気だるげに問うと、立花の指が、それは強烈に僕の問題集を指し示してくる。
「前崎くんって入学テストの成績って真ん中ぐらいだよね!?なんでそんなに頭いいの!?」
僕の問題集のほとんどに赤い丸が付いている。どうやらそれが気に入らないらしい。ちなみに僕の勉強法は、まず問題集をそのまま解く、次に真っ白なノートに何も見ずに問題を丸写しする、そしてその問題を解く、という手法だ。何も見ないで問題を書き写そうとすると所々違う問題になって、暗記しているだけでは絶対に間違った答えになるので、これが意外と捗る。
それにしても、この二人は成績上位なので、それと同列にできている僕の順位が真ん中なのが不思議でならないのだろう。
手を抜いているから、当たり前なんだが。
「当然よ。前崎くんは最初から手を抜いているわ。」
「なんで君がそんなことを知ってるんだ上杉。」
「あら、テストでいい点を取る意味が無いのに、どうしてテストを頑張る必要があるのかしら?」
「……………。」
上杉の思考は僕とよく似ている。というか、彼女が僕の思考に合わせているようにも思える。だがそれは、僕にとっては思考を読まれている様で面白くない。とりあえず無言でガンを飛ばす。
「……そんなに見つめられると恥ずかしいのだけど。」
「耳を赤らめるな。集中しろ。」
「……酷い人。勉強も、恋も、最低ね。」
それが恨みや妬みっぽいものならば笑ってやり過ごすのだが、悲壮や寂しさを思い起こさせる表情をされてしまうと、良心が傷む。
「……なら帰ればいい。僕の隣に居るのは辛いだろう?」
「いいえ。お母様のご厚意に甘えさせて頂くわ。」
「お前……。」
上杉は決意の固まった表情で言い切った。これのメンタルは鋼か何かなのか。自分の告白に返事もしないまま、他人の、それも自分と一番関係が深い立花からの告白をOKした僕を相手に、さも自分が本命のように振る舞うその余裕はなんなんだ。
「……こ、こほん。とりあえず、こんな状態なら別に、澄玲ちゃんも私もいなくていいよね?澄玲ちゃん、流石に毎日は前崎くんも迷惑だろうから、今日は私の家に泊まりに来ない?」
唖然とする僕など見向きもせず指を動かす上杉と、その間に流れる物々しい空気を、わざとらしい咳払いで払った立花はそう上杉に提案した。
すると、上杉の手がぴたりと止まる。
「……菫花、別に帰りたいのなら帰っていいのよ?」
上杉を取り巻く空気が緊張感を張りつめたものに変わる。僕はまだ見たことが無い、上杉の気に障った瞬間だ。
だが立花は、そんなことは物ともせずに切り込んでいく。
「そうじゃなくて澄玲ちゃん、まさかテストが全部終わるまでずっとここにいるわけじゃないよね?流石にご迷惑だよ。それに突然来てるんだし、長期の宿泊はいくら親しい中であっても我が儘が過ぎるよ?節度を持とうよ。」
立花のいう事は正論だ。現に母も、「あの子はいつまで家にいるつもりなの?」とぼやいていて、恐らくテストが終わるまでだと伝えたら、「もしかして家出とか?親御さんにご連絡しておいた方が良いんじゃない?」と言う始末だ。
改めて言うが、上杉の今回の行動は異常だ。僕も最初は、僕との距離を無理に縮めようとしているだけだと思っていたが、立花の登場でそうでないことを確信した。
上杉は決して馬鹿じゃない。なら、なぜこんな無謀な行動を起こしたのか。それが今僕が一番悩んでいる事だ。正直勉強どころじゃない。
その上杉は、唇を噛み締めて黙っている。
「……澄玲ちゃんがそうなる時は、絶対に言いたくない何かがある時だって私は知ってる。だから私は協力するよ。でもね、それに前崎くんや前崎くんのお母様を巻き込んでしまうのは、ちょっと図々しいんじゃない?」
これ以上ない説得文句が決まった。僕も、立花も、流石に諦めるだろうと確信していた。
だが上杉は、怯むどころか顔色一つ変えない。
「その時は追い出してくれればいいわ。ともかく、私はここ以外に行くつもりはない。くだらない話をしている暇があるのなら勉強するべきよ。」
とんだ図々しさだった。それも、迷惑ならば追い出してくれればいいときた。
立花にとっては最悪の誤算だろう。恐らく自分の家で事情を聴く流れに持っていきたかったはずだ。立花が何を考えているのかはわからないが、今のところ上杉への敵意は感じられない。探りを入れていきたいはずだった。
これは明確な拒絶だ。長年連れ添ったはずの立花に対しての、火を見るより明確な拒絶。追い出すにも、立花にはその権限がない。
こうして立花の手札は完全に塞がれた。もはやぐぅの音も出ない。
だがこれこそが、立花が僕に「彼氏になれ」と言ってきた理由だった。
「……上杉、僕達の邪魔をするなら帰ってもらうぞ。」
「邪魔はしていないわ。真剣に取り組んで」
「そこにいるだけで邪魔だと言っているんだ。」
「……ッ!!?。」
僕のこの返答は予想外だったようだ。頑なに守ってきた表情に焦りの色が出始める。
「……なら、リビングを借りるわ。」
「意味がわかってないようだな。」
戸惑う上杉を前に、僕は口調を強くして立ち上がると、上杉の腕を無造作に掴んで無理やり引っ張り上げる。そしてそのまま、部屋の外へと連れ出した。
「ッ!?前崎くん!?」
「ま、待って前崎君……もし何か気に障るようなことをしたのなら謝るから……。」
「最初からしてるじゃないか。何を今さら弱気になっている?」
「ど、どうしてそんなに怒っているの?腕が……ッ!!……ぐあっ!?」
語尾に嗚咽のような悲鳴が上がったのは、僕が目一杯に上杉の腕を握り締めたからだ。痛みに耐えかねた上杉の足がもつれて引っ張りやすくなった所で玄関にたどり着き、僕はドアを開くとそのまま上杉を投げ捨てた。
正面から放り出された上杉は、膝から転げ落ちるように玄関の前で崩れ落ちた。
「前崎くん!!何してるの!!」
「ま……前崎……君?」
動揺しきった上杉の表情は新鮮で、何故だか気持ちが昂ってくる。今自分が何をしたかなんてどうでもいい。ただこの状態の上杉を、更に追いつめたくなる。
「なに人の家に上がり込んで傲慢な事を言ってるんだよこのクソガキ。いつも言ってるだろ、僕に関わるなって。なのになんでここまでする?今まで大目に見ていたのがわからないのか?」
腹の奥に溜め込んだ不満を爆発させる。上杉は、先程強く握り締めた腕をさすったまま、目を合わせようともしない。
「出て行け。もう僕に関わるな。これ以上は君が傷つくだけだぞ。」
それは僕の本心だった。最初に上杉を見た時からずっと、僕の中にあったものだ。
それで終わると思っていた。この不思議な関係も、この奇妙なつながりも。
だが途端に、上杉の様子が正反対の物に変わった。
「私が傷つく?……ずっと傷ついてきたのはあなたの方じゃない。」
「……はぁ?」
何をぼそぼそと言っているのかと思えば、身体が吹き飛ぶかのような眼圧が、上杉の大きく開かれた瞳から放たれた。
「私じゃない!ずっと傷ついてきたのはあなたの方よ!今にも壊れてしまいそうな心で、今にもいなくなってしまいそうな居場所で、誰かの為に傷を負ってきたのはあなたの方!その左手首の切り跡は、誰も傷付けないことを選んだあなたの優しさそのもの!なぜそれを醜いように見せるの!?」
「ッ!!?なんで……なんでこれの事を知っている!?」
不意を突かれて心臓が跳ねた。僕の体には様々な傷がある。それは昔にあったいろいろな出来事が原因だが、特にこの左手首の切り跡は深く、痕になってしまっていて消えることはない。
いずれ説明する時がくるだろうが、今はそれどころじゃない。
勢いを得た上杉が僕の手を逃がすまいと掴んでくる。
「知ってるに決まってる!その傷が生まれる瞬間を私は見てた!怯える子の教科書を自分の血で真っ赤に染めながら、けたけた笑いながら壊れていくあなたのことを!私はあの日、何もしてあげられなかった!もうあんな思いはしたくない!!」
握られている手の力が強さを増していく。僕のような暴力的な強さじゃない、固く、確かな思いが詰まった力強い感覚が、僕の手を包み込む。
「お願いよ前崎君……私の事は嫌いでもいい。無視でも構わない。それでいいから……傍に居させて。私は怖いの……あなたが、あなたが変わってしまうことが……。」
上杉は、全身で僕の左腕を包み込むようにしながら、その瞳から大粒の涙を流しながら訴えてくる。
何故、どうして、なんで上杉は僕にそこまで固執する?僕が変わってしまう事に、彼女が涙する理由はどこにある?
僕と彼女の間に、一体何があった?
錯綜する思考が加速していく最中、頭の中に亀裂のような痛みが走った。
「ぐうっ!!……。」
右腕で咄嗟に額を押さえてしまう。
その時、涙でえづく上杉の表情が強張った。
「前崎君……それは……。」
その言葉が耳の奥に届いた瞬間、世界が蘇った。
封じ込めていた記憶、閉ざそうとした過去、清算しようとした足跡。
目に映った右手の掌が、どろどろと真っ赤に染まっていく。
「額の……縫い跡……。」
上杉がそう言った刹那、僕は全力で上杉の腕を振りほどいて投げ捨てていた。
「澄玲ちゃん!!」
放り出された体を立花が受け止めた直後、気づけば僕は扉に鍵をしてしまっていた。
「待って前崎君!!お願い、扉を開けて!!」
僕は上杉の声に両耳を塞いでいた。扉を叩く音も、聞こえないように首を振った。
もはやそれどころではない。僕の目の前に映るのは、僕が上杉に出会うまでの自分。屋上から飛び降りて償おうとした罪の意識。
「ちょっと澄雄どうしたの!?まさか上杉さんを追い出したの!?」
「うるさい!!僕は寝る!絶対に部屋に入るな!」
「寝るって……ちょっとお風呂は!?」
「いらない!!いいから近づくな!!」
僕は震える口を無理やり動かして部屋のベッドへと駆けこんだ。乱暴に掛布団を被り、真っ暗な世界に閉じこもる。
繰り返し目に映る、止まらない凄惨な映像。あの日から始まった地獄、止まれなくなった衝動が、体中から湧き上がってくる。
それを押し殺すために、僕は左腕を自分の口へ押し当てる。
「があっ……ぐおおっ……あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ”!!!」
腹の奥から込み上げてくる嗚咽、我を忘れそうになるような衝動を噛み殺すように、僕は獣のような叫び声を上げ続けた。
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