第15話

 その日の体調は、控えめに言って最悪だった。


 周りの人間は誰一人僕に話しかけようとはしない。当然だ、朝顔を洗って鏡の向こうにいた顔の持ち主が自分ならば、絶対に関わりたくないと思うような人相をしていた。


 瞼が垂れ下がっているのがわかるほど重い。だが奴は、そんな僕とは至って対照的だった。


「あれ?澄玲ちゃん、なんだか顔色よくない?」


「え……そう、かしら?」


 立花が指を添わせた自分の頬に手を当てる上杉は、いつにも増して朝日の輝きが似合っていた。


「うん。髪もつやつやだし……シャンプー変えたの?」


「いえ、シャンプーはちゃんと持参したわ。」


 立花が、今度は上杉の髪に指をなぞらせると、それがしなやかに揺れて指の間を流水のように解けていく。その手が慣れているあたりが、あの二人の仲の良さを思わせる。


 昨晩、上杉は僕のベッドの中で、僕は結局リビングのソファでブランケットを被りながら眠った。上杉は再三、一緒に寝ようと僕をベッドに誘ってきたが、流石に公序良俗に背くと思って上杉をベッドに


「ただ……少し腕が痛いわ。寝違えたかも。」


「澄玲ちゃんが寝返りするほど熟睡なんて珍しいね。何かいいことでもあった?」


「ええ。とても、貴重な体験だったわ。」


 微笑む彼女の意味ありげな視線に、僕は軽く殺意を覚えた。


「ふーん……そっか。何か楽しい事があったんだね。それはそうと、腕は大丈夫?辛いならノート取っておくよー?」


「いえ、大丈夫よ。それにノートは自分で取らなければ意味がないもの。」


「そっか。でも頼りたい時はちゃんと言ってね?澄玲ちゃんはすぐ無理するんだから。」


「ええ。頼りにしてるわ、菫花。」


 ……なんとなく、離れて見ていて気づいたことがある。


 まず上杉は、立花意外とあまり積極的に会話をしようとしない。話しかけられたら答えるタイプだ。常に自分が何をするべきかを考えているのだろうが、あれでは周りの空気が固すぎて近寄りがたい。


 そんな上杉を中和しているのが立花だ。あれは一見、上杉の腰巾着をしているだけに見えて、実は上杉が立花のコミュニケーション能力に頼りっぱなしだ。僕は上杉が、自分の気持ちを伝えるのがド下手くそなのを知っているからそれがよくわかる。


 上杉に用事があれば、必ず仲介役に立花が入る。立花は上杉の予定を常に把握していて、変更や追加があれば上杉の耳に入れている。もしその中でトラブルが起きれば、立花が上手く仲裁案を提示してその場をくくる。


 これを上杉一人がやれば、「できる」「できない」の一本調子で話が進まなくなってしまう。上杉はそれをわかっているのだ。だからああして、立花とのコミュニケーションだけは毎日欠かさない。立花も、それにやりがいを感じている。


 そういう事の出来る人間が身近に一人いるのは、正直羨ましいと思う。


 ただ僕は、その立花にどうも腹黒さを感じて捨てきれない。


「……何か失礼な事考えてない?前崎くん。」


「………………。」


 視界は真っ暗で何も見えないが、目の前に脅威がいると首の筋が跳ねて警告する。


「狸寝入りを決め込んでもダメだからね?」


「…………何か用か?」


 まだ変ないたずらを考えて来ないだけ上杉よりはマシだと言えるが、それでも気を緩めてはいけないと感じさせる何かが、彼女にはある。


 そんな彼女の瞳に、僕の死神のような顔が映し出される。


「大丈夫?今にも屋上から飛び降りそうな顔してるよ?」


「僕を心配するのか消したいのかどっちなんだ君は。」


「んー……両方かな?」


 ナチュラルな調子でえぐい返答を平気でするこの女を、僕は絶対に信用しないと心に決めた。


「大したことじゃないんだけどね、気になったから。」


「……何が?」


 問いかけると、立花は心の奥がまったく笑っていない微笑みを僕に向ける。


「澄玲ちゃんがね、今日はすっごく調子よさげなの。」


「……それで?」


「なにかなーって思ったんだけど、最近の澄玲ちゃん、変なんだよね。お昼ごはんは一緒に食べてくれないし、放課後にクラスの子たちとカラオケ行ったりするんだけど、それも最近来ないし、でも家に帰る時間が、最近は遅くなってるんだよねー。」


「……そうか。」


 この女、第三者がそれを聞いたらドン引きするほどストーカーっぽいって事が理解できないのか?


「理由を聞いても答えてくれないし、つまり私が知らない澄玲ちゃんの時間があるんだけど、誰に聞いても知ってる人がいないんだよねー。」


「…………つまり何が言いたい?」


 立花の表情が、急激に温度を下げていく。


「前崎くん、澄玲ちゃんに変な事してないよね?」


 返答を間違えば、殺されでもされかねない空気だった。


 立花は間違いなく、怒らせてはいけない類いの人間だ。これは上杉が関わると手段を選ばない。


 だがそれは、僕にとっては本当にいい迷惑だ。


「そうだな……胸を触ったり、抱き着いたり、ベッドに誘ったりか?」


 真っ直ぐに伸びてきた腕に胸ぐらを掴まれ、膝に押し除けられた椅子がギギィと音を立てる。


 クラスメイト達の視線が、怖いほどに突き刺さる。


「……言っておくが、これはだぞ?」


「澄玲ちゃんはそんな破廉恥な事しないよ。」


「するさ。あれは手段を選ばない。なんとか僕の懐に入り込もうと必死だ。気に入らないなら首輪でもつけたらどうだ?」


「私、そっちの趣味は無いから。」


「似合いそうだが?」


「よく言われる。」


 ガタッと、僕の足元で椅子が揺れる音がした。宙に浮いた足の間隔を確かめながら、身体を背もたれに預ける。


「気に入らない……何もかも忘れてるあなたが、澄玲ちゃんの何を知ってるの?」


「プライドの高さ、振る舞い、自分に対する他人のイメージ。それが全て、だという事。」


 立花の眉間が、ピクリと小刻みに震えた。


 だが実際そうだ。上杉は僕と二人きりの時は、まるで飼い主に甘える猫のように無邪気にはしゃぐ。しかし立花含め、学校、バイト先、僕の母の前でさえも、彼女は「上杉澄玲」という仮面を外さない。


 上杉が何を考えているかはわからない。だが、これだけは間違いなく言える。


 上杉澄玲は、


「的外れでは、ないはずだが?」


「…………………………・くふっ、」


 内心ではビクビクしていた。立花はよくわからない。何が地雷なのかがさっぱり見当つかないからだ。そんな僕にとってこの発言は、大きな賭けだった。


 一瞬を重い空気が支配する、次の瞬間。


「あっはははははははははははははははっ!!」


 立花のバカ笑いが教室中に響くと、今度はそう重くはないクラスメイト達の視線が刺さった。


「……そんな大きな声を出すと上杉に気づかれるぞ?」


「大丈夫だよ、澄玲ちゃんトイレだから。くふふっ。」


 相当深くツボに入ったのか、吹き出した口を押えながら笑いを堪える立花。


「あーあ!おっかしー……。ねぇ、前崎くん?本当に昔の事憶えてないの?」


「小学校に一緒だった記憶は少しある。立花が一緒だったかは記憶にないが。」


「あー、それはそうだよ。澄玲ちゃんと前崎くんのクラスが分かれたのは5年生の時で、その時に私と澄玲ちゃんは知り合ったんだもん。」


 ……やはりこいつ、ストーカー気質なんじゃないのか?


「まぁそれは置いといて……前崎くん、ちょっと時間ある?、なんて思うんだけど?」


「……ホームルームまであまり時間が無いぞ?」


「大丈夫大丈夫。すぐ終わるからっ。」


 天真爛漫な笑顔で、僕は立花に手を引かれるがまま教室の外へ連れ出された。


「あら、菫花……と、前崎くん?」


 二人が教室から出て行くところに入れ違った澄玲は、それになぜか妙な胸騒ぎを覚えた。



………………………。



「……ここまでくればいいだろう。」


 中庭に来た僕たちは、中央を丸の花壇で区切られた十字路の真ん中に立っていた。ここはちょっとしたイベントスポットで、やらかしの懺悔であったり、もちろん異性への告白場所としても名が通っている。


 余談だが、両端の校舎の物陰が、この学校の絶好のいじめスポットで、僕が先日隠しカメラを忍ばせた場所でもある。


「それで、用件とは?」


 立花は両手を腰に当てて組んでおり、そのポーズはくびれが美しく現れていて仄かに扇情的だった。などと考えるのは思春期の性だろうか。


「うーん……前崎くんってさ、ぶっちゃけ澄玲ちゃんの事どう思う?」


 立花は、振り返らずにそう言った。


「何だ突然に。……まぁ、鬱陶しくはある。できるならやめさせたいな。」


 正直、今の上杉は性格的には苦手なタイプだ。迫ってくるタイプの女性は、あまり趣味じゃない。


 だが、その答えに立花は首を振った。


「ううん、そうじゃなくて。前崎くんは、「上杉澄玲」の事をどう思ってるのかな?って。」


「……どういう意味だ?」


 僕が問いかけても、立花は首を傾げてにこりとしている。


「……まぁ、綺麗だとは思う。頭もいいし、あれに憧れる奴は多いだろう。良くも悪くも嫉妬されたり尊敬されたり……男なら、一度は彼女にしてみたいとは思うだろう。」


「ふーん……前崎くんはそう思ってるんだ。」


「……じゃあ、君はどうなんだ?君は「上杉澄玲」の事をどう思ってる?」


 含みのある言い方をされて、何故だか少し嫌な気分にさせられた。仕返しのつもりで問いかけると、立花がこちらに向かって歩んでくる。


「私?うーん私はねー……。」


 だんだんと近づく距離。どこか陰のある顔が触れそうなほど近寄って、耳元を掠める。


「すっごく、って思ってる。」


 その言葉が耳を撫でた瞬間に、僕の思考が、今の立花の表情は見てはならないと警告する。重たく、芯にずしりとのしかかる冷たさ。怒りだけではない、恨み、妬み、憎しみ、そういった負の感情が、今にも溢れそうなほどに凍えている。


「……喰えない女だ。一人に対して、ここまで危機感を覚えたのは初めてだぞ。」


 無駄口を叩いた。だが立花は気にする様子もなく、ただにこりとして小首をかしげた。


 この女……上杉以上に、何を考えているのかがわからない。


「ねぇ前崎くん、二人でさ、澄玲ちゃんをぶっ壊そうよ。」


「……僕に何の得がある?」


「ないよ。一つもない。でも見たくない?あんなに頑張ってる澄玲ちゃんが、自分の今までの努力が全部無駄だったんだって気づいて崩れ落ちる所。私、いつか澄玲ちゃんに一泡吹かせたいって思ってたんだよねー。」


 そう言って、立花はスキップをしながら楽しげに、花壇の周りを軽やかに舞う。僕はその姿を目で追いながら、奥歯に力を込めて噛み締めていた。


「だからさー……前崎くん、私と付き合おうよ?」


 僕の顔を覗き込むようにして上目遣いに尋ねられ、彼女の黒い部分が温度となって僕の背筋をなぞり続ける。


 僕はこの日、人生で一番の女性に対する恐怖を経験した。

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