少女は少年の憎しみに癒されたかった。
第11話
弱者が強者に勝つなどと言う、ドラマティックなシナリオは現実には無い。それは元々、弱者のように見えていた人物が強者としての実力を兼ね備えており、機会が巡って強者に見えるそれを倒しただけに過ぎない。彼は最初から強者なのだ。
そう言うと必ず、こう言う奴が居る。彼らは等しく、結果に見合うだけの努力をしてきたからその結果が生まれたのだと。それはその人の氷山の一角にすぎず、その下にはとてつもない苦労と時間の山が埋まっているのだと。
凡人から見れば、そもそもそんな所まで積み上げられることがもう才能だ。
才能を否定する人物もいる。僕はそれがおかしいとは言わない。だが才能を否定し、それが全て努力によって生み出された結果だとして、全く別の人が同じ努力をしたらその結果が享受されるかと思えば、そうでもない。
それが才能でないとしたら、もうそれはとてつもない豪運だ。人々が等しく努力し続ければ、おのずと平均値は上がり突出しにくくなるからだ。それで一個抜け出られるの物があるなら、それはまさしく運だろう。
弱者には、才能も努力も運も無い。
そんな弱者が強者に勝つ方法は一つだ。とにかく、みっともなくあることだ。
乞食のように振る舞いながら強者の威光に集り、潜り込むように足元に隠れ、当たられるようなことがあればそれとない響きのする言葉で抵抗し、周りに訴え情を誘う。そして金棒にも似た威力を持った虚弱さは、瞬く間に強者たちを飲み込んでいく。自分がどうなることはない、自分はもう負けているのだから。
真面目な程に馬鹿を見る。それが強ければ強いほど。
僕はそれを、人生で最も大事なものを失った日に思い知った。
豪華絢爛な装飾の台座の前には、つい先日まで疲れ切った様子で勤しんでいた父の亡骸が、豊かなヒノキの香りが鼻をくすぐる棺桶にしまわれている。やすらからかな微笑みは、まるで心地よい夢でも見ているかのようだった。
母も、親戚も、皆泣いていた。僕は一人泣かなかった。泣くことよりも、父の最期をこの目に焼き付けておくことの方が大事だと感じていた。辛さよりも、父のいない毎日を乗り越えなければならないという使命感に駆られていた。
だがそれがいけなかった。僕は見てしまったのだ。葬儀には父の会社の人たちも大勢来ていた。僕は一人残らずその目に焼き付けた。名前は言えないが、顔を見ればその日に来ていたかどうかは、今でもはっきりと言える自信がある。
そして見てしまったのだ。この世は酷く凄惨なものだった。
皆泣いていた。だがそれは、父が死んだことに対して、父がいなくなったことに対して悲しんでいるのではなかった。
皆、父のいない明日をどうすればいいかばかりで、自分を置いていかないでくれと言わんばかりで、誰一人、父が死んだことは悲しんでいなかった。
父がいない、縋る強者がいなくなってしまった事への不安と動揺、そればかりか父が死んだことに対して怒りをみせていた者もいた。どうして私を置いて死んだんだ、これでは自分が楽できないじゃないか、と。そんなものばかりだった。
父が死んだことを悲しんでいたのは、母と、父の会社の社長さんだけだった。
僕は絶望した。強者は、こうやって使い捨てられていくのだと。弱者の犠牲になりながら、偽善に嵌まり、捨てられていくのだと。
これではまるで、血を止めるために臓器を捨てるようなものではないか。その後で取り返しがつかなくなることなど、まるで考えもしない。失ったものは取り換えればいいと、そういうことじゃないか。
僕の考えを否定してくれる人などいるはずもなかった。皆、自分の事で精一杯なのだ。「私は頑張っている」人ばかりなのだ。人よりも頑張って、尚ももっと頑張る人が近くにいるというのに。
僕は噛み殺した感情と共に、それ以来、一切の努力を放棄した。ただ平均的でいた。ただ平凡でいた。弱者を演じた。
僕は弱くなった。弱くなって、醜い力を手に入れた。
醜い力は、安々と強者の努力も才能も踏みにじっていった。
僕は、最低の人間だ。
最低で、最悪の弱者だ。
…………………………………。
最初に感じたのは温もりだった。それが手の平から伝わってくるのに気付いたのは、自分が瞼を開いていることに気づいた時だった。
「……澄雄…………。」
声の主は、酷い顔色をしていて痩せていた。手の平に感じていた温もりは、すぐに冷たくなった。
「母さん…………。」
ずっとこうしていたのだろうか。果たして何日ここでこうしていたのだろうか。所々痛みのある個所はあるが、動けない程ではない。学校の屋上は、思ったよりも死ににくいらしい。
本当に、人生はそううまくはいかない。
「……澄雄?」
異変に気付いたのか、がばっと勢いよく母の体が起き上がる。
そしてしばらく、僕の目を見つめて、顔全体にしわが寄って、目元が引きつって、
咄嗟に、僕の顔面に衝撃が走った。
「バカ!!あんたは!!本当に何をしてるの!!」
母は泣きだして、思いっきりビンタをかましてくれた。少し脳天が揺れたらしく、視界が揺れる。
「何するのさいきなり……」
「なにするんだじゃないわよ!!こっちの台詞よ!!どれだけ心配したと思ってるの!!あんたは!!私が……どれだけ……どんな気持ちでここにいたか……。」
気持ちの整理がつかないのだろう。母は取り乱した自分の体を、僕の胸に預けてきた。
パジャマの胸の部分が、あっという間にびしょびしょになった。
「澄雄……お願いよ……もうこんなことはやめて……お母さんを一人にしないで……。」
母はまるで、子供のようだった。親がいなくなってしまう環境に耐えられなくなった子供のようだった。
僕はいつから、この感覚を失ってしまっていたのだろうか。
「……わかった。もうしないよ……これで最後にする。」
僕はこれ以上、母親を抱きしめたくはなかった。
母の体は、父がいなくなったあの日から、ずっと冷たいままだ。
………………………………………。
数日が経って、僕は退院した。
学校はがらりと変わった。僕が飛び降りた時に持っていた遺書が効いた。遺書の内容は、要約すれば「いじめに耐えきれなくなった」という内容だった。これに関しては目撃者も居るし、何より一度は職員室が動いた事案だ。言い逃れはできない。
もちろん大嘘だが、事実としていじめはあった。動画が公開された。学校側はすぐに対応したが、直後に被害者の生徒が自殺未遂をした。
社会全体に、この事実は周知されている。学校は対応を余儀なくされた。
まず屋上の閉鎖、続いていじめ撲滅についての再発防止案、校長、教頭の減給、教育委員会役員の解任、その他諸々。まぁ、少なくとも、僕らにわかる変化は教職員の移動だけだった。
もし跡目を感じることがあるとすれば、僕らの担任が引責辞任をしてしまったことだろうか。責任感の強い彼女には刺激が強すぎたかもしれないが、微塵もあなたのせいではないので頑張って乗り越えて欲しい。
それと、いじめに関わった生徒は全員退学になった。動画では顔が見えるようにされていたので、早々に足はついた。支倉には何もなかった。一応、いじめの被害者として謝罪はあったとの噂を聞いた。
そして、早々に学校生活に復帰した僕は、クラスで完全に孤立した。
この一件で、僕は「絶対に起こらせてはいけないやつ」の部類に入り、同時に「関わらない方が良いやつ」の烙印を押された。
そもそもこれだけの事件を起こして平然と学校に来ている方がおかしい。自分でもどうかしていると思う。だが転校する資金もないし、奇跡的にバイトもクビになってないので転校する理由もない。
休み時間には読書をして、放課後にはそれとなく寄り道をしてバイトに行く。
そんな日々を過ごしていた時だった。
「前崎君、放課後、話があるのだけれど。」
麗人は、僕にそう言った。
「上杉澄玲……何の用だ?」
「放課後に言うわ。」
現在は昼休み、誰もが待ったランチタイムの教室だ。
「今じゃダメなのか?」
上杉は振り返りもせずに、
「……待ち合わせ場所ぐらい決めて欲しいんだが。」
気まぐれな桜の花びらは、僕に陰鬱な気持ちを抱かせながらも、陽の光に当てられて輝かしかった。
……………………………。
放課後、僕は校門のすぐ横にある桜並木に来ていた。だがここは通学路で、しかも帰り道で、ただ約束を反故にして帰る奴にしか思えない。
だが、彼女はやはりここで待っていた。
「……あら、来たのね。もう帰ってしまったかと思ったわ。」
「もう帰ってやろうかと思っていたよ。あまりにも通り慣れた道だから。」
気が付けば入学から1か月が経とうとしていた。あの日、彼女と出会ったあの光景が、今ではもう懐かしくも感じる。
桜は、まだ少しだけ残っている。
「それで、用件は?君も忙しいだろうし、早めに済ませてしまおう。」
「そうね。そういう気づかいができる人は、嫌いじゃないわ。」
どちらかというとバイトの時間に遅れるのが嫌なので、早く帰りたいのは僕の方なんだが……言わないでおこう。
「はぐらかされても嫌だし、はっきり言うわ。」
少し、怒っている様にも聞こえるその声の後に、春風が僕と彼女の間をすり抜けて、桜の花びらを散らせていく。
「前崎君、私と、付き合って欲しいの。」
桜の花びらが彼女の長い髪をたなびかせながら春の香りを誘う。
僕の心は、ざわついていた。
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