窓越しの友達

ササ クラ

窓越しの友達

 四歳まで、高速道路脇の公団住宅に住んでいた。五階にある部屋は1DKの狭さではあったが、母とふたりきりの生活に不自由はなく、なによりもわたしは常に母の姿が見えることに安心しきっていた。

 今でもわたしはあの部屋の構造や家具の配置、お気に入りの玩具の色や種類まで鮮明に思い出せる。

 あの部屋に来てくれたわたしの友達のことも、よく覚えている。


 母とふたりきりの生活であったので、母がわたしから目を離すこともあった。掃除の間、料理の間、ちょっとしたうたた寝。ほんのわずかな時間、けれど確かにわたしには完全な自由があった。

 遊び盛り、いたずら盛りの年頃だ。叱られることがわかっているのに、いろいろな物事を試してみたくて仕方がないのだ。なかでも落書きが好きだった。テーブルの上はもちろん天版の裏まで、分厚いブラウン管テレビの側面や母が大切にしていたタンスの扉の裏、いろいろなところにマジックでへたくそな線や歪な渦巻きを描いた。

 そんなことだから当然、つるりとしたガラス窓は魅力的なキャンバスだった。

 四歳の幼い子供の身長だ。高速道路の防音壁を望む窓はわたしの肩の高さから始まっており、手をどれだけ伸ばしてもせいぜい窓の半分までペン先が届くかどうかだった。

 それでもわたしは楽しかった。ピンクのペンをかたかたと振って、窓をきゅるきゅると鳴かせながら意味のない丸やのたくった線を描く。母に見つかり、叱られては消す。

 そんな日常に、いつからか落書き友達ができた。


 落書きをしていたある日の午後、ふと気が付くと目の前にわたしより少し年上と思われる子供がしゃがんでいた。

 窓の向こう、車の騒音と熱気が蒸せる外側だ。ちょうど子供がひとりしゃがめる幅のコンクリートがせり出しており、その子はそこで膝を抱えるようにしてわたしと向き合っていた。わたしたちの間に割り込む転落防止の鉄柵が、お互いがお互いを観察し合う動物園のように感じたのを覚えている。

 当時、幼稚園の友達はみんな別のマンションや一軒家に住んでいたため、わたしは新たな友達の登場にとても喜んだ。

 わたしはいつもにも増して大きく、ピンクのペンで窓を汚す。その子も、黒いペンでぐるぐると渦を描く。

 窓を挟んでいるために会話はない。それでもわたしと競うように黒いペンを握る子供は確かに、わたしの友達だった。


 もちろん、怒られた。ピンクのペンは除光液や雑巾で拭えたが、わたしの友達が描いた黒は消えなかった。当然だろう。母は室内側の窓ばかりを拭いていたのだから。けれど母はそれに気づかず、「油性はダメって言ったでしょう」と疲れたため息をこぼしただけだった。

 友達が描いたのだ、と言っても母は取り合ってくれなかった。心理学や精神疾患をかじっていた母のことだから、幼い子供にありがちな『妄想の友達』だと判断したのかもしれない。

 そんなわけで黒い落書きは消えず、わたしはピンクのペンを取り上げられた。

 とはいっても母は生来がさつなところがある人だったので、ピンクのペンはよくわたしの手の届くところに出しっぱなしにされていた。

 わたしがピンクのペンを握って窓の前に立つと、友達も黒いペンを持って現れる。大きな落書きは、さすがに控えるようになった。小さな点や丸を描いては、自分の服の裾で拭って隠蔽をはかる。もちろん母にばれて叱られる。それでも友達は律儀に、わたしがペンを持って窓の前に立つたびに、遊びに来てくれた。


 そうして二月ほどが経ったころだろうか、わたしたち親子は引っ越すことになった。

 慌ただしい片付け作業に遠慮したのか、わたしの友達が訪ねてくることもなくなった。わたしもわたしで、あの友達に引っ越しの報告をしなければ、とは考えもしなかったように記憶している。

 来週には部屋を引き払うという日になって、母が窓の外へ身を乗り出した。

 排気ガスでくすんだ窓をきれいに掃除してみる気になったらしい。立つ鳥跡を濁さず、という諺を、わたしはこのときはじめて教えられた。

「あれ?」雑巾を握った母が、頓狂な声をあげた。「あんた、外出たん?」

 なんのことかわからなかった。母は、ぽかんとするわたしに、窓の黒い落書きを拭って見せる。

 あっけなく、わたしの友達が描いた黒い渦が消えていった。

「あんた」母は窓から乗り出していた体を引き戻す。「ベランダ出た? 外から描いたん?」

 わたしは首を振る。そもそも、わたしの背丈では窓の鍵にすら手が届かない。もし鍵が開いていたとしても、窓はわたしの肩の高さから始まっている。窓によじ登っても、ベランダ――と呼ぶには貧相なでっぱり――に出るには腰ほどある転落防止柵を乗り越えなければならない。そんな冒険ができるほどには、母はわたしを放っておかなかった。

 母は口を半開きにしてなにかを言いかけ、やめた。引き結んだ唇の端を下げて、母は「うん」と頷く。そう、となにかに納得した様子で再び頷いた母は、今度は転落防止柵の間から腕だけを伸ばして窓の外側を拭いはじめた。

 黒い落書きは跡形もなく消え去り、排気ガスに煙る空がよく見えるようになった。

 結局、落書き友達が再び現れることはなかった。


 引っ越す日、荷物を載せたトラックを見送ったついでに何気なく自分たちが暮らしていた部屋を仰いで気が付いた。

 各部屋のベランダは二メートル以上離れており、子供はおろか大人ですら隣の部屋からベランダ伝いに訪ねてくることは不可能な造りだったのだ。

 そして、わたしはその友達の顔を覚えていなかった。いや、覚えている。友達の、あやふやな輪郭をよく覚えている。友達は真っ黒で、目も口ものっぺりと塗り潰された、影そのものだった。

 ひとつ確かなことは、あの友達はわたしを決して窓の外には誘わなかった、ということだ。

 今でもわたしは、ときおり彼に会いたくなる。

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