Int.69:降りしきる雨の色、やがて復讐の色へと変わりゆく雨の色

「ああもうっ、こんな時に降り出すなんてっ!」

「降っちまったもんはしょうがねえってえの! ――――エマ、濡れない内にっ!!」

 突然降り出した雨の中、空を覆う雨雲に影を落とした街の中。そんな雨の降り注ぐ街の中、一真はエマの手を引いて駆け出していた。

 どうするにもこうするにも、とりあえずは少しでも何処かで雨宿りと洒落込みたい。洒落込みたいのだが……生憎と、この辺りにそんな都合の良い場所なんて見受けられない。とても雨を凌げるような場所なんて見当たらず、エマの手を引く一真はただ、雨を凌げそうな場所を捜し闇雲に走っていた。

「カズマ、あそこっ!」

 そんな最中、何かを見つけたエマが何処かを指差す。彼女の華奢な指が指し示す方を横目に一真も見れば、そこには何やら神社らしきものが見えた。

「あそこなら、とりあえずは凌げるかもっ!」

「……よし、信じた!」

 どうせ、行くアテなんて何処にもない。一真はエマの勘を信じ、進路をそのチラリと見えた神社の方に変更。強く握り返すエマの手を握り締めたまま、雨に打たれながらそちらの方向へと走っていく。

 すると現れたのは、やはりというべきか神社のような一帯で。しかし境内はどこか閑散としていて、それでいて質素で。この観光名所の数多い京都の中に於いても……言い方は悪いが地味で、ありふれた場所なのだなという思いを一真に抱かせた。

「はぁっ、はぁっ……」

「と、とりあえずは此処で大丈夫そうだね……」

 そして、二人はその境内の中。どうやら本殿のような場所の軒下に飛び込み、降り注ぐ雨から漸く逃れることが出来ていた。

 互いに肩で息をしながら横目を向け合えば、何故だかおかしくなって。一真からでもエマからでもなく、どちらからでもなくクスッと小さく笑い出してしまう。二人とも肩も髪も濡らしてしまっているというのに、しかしどうしてか、互いに心だけは妙に暖かな気持ちだった。

「予報じゃ今日は降らねえって話だろ? ったく、ツイてねえってか、なんていうか……」

「あはは、こういうこともあるよ」

「勘弁して欲しいぜ、全くよ……」

 肩を落とし大袈裟な溜息をつく一真と、その横で微笑むエマ。そんな二人の見上げる空は未だどんよりとした雨雲が覆い尽くしていて、どうやら当分の間は晴れそうにない。

「……カズマはさ、雨って嫌い?」

 そうして一真が参った顔で雨模様の空を眺めていれば、隣でエマが小さくそんなことを呟き、問うてきた。その横顔は一真と同じく雨模様の空を見上げたまま、しかし雨よりも透き通ったアイオライトのような蒼い瞳だけは、そっと横目を一真の方へと流しながら。

「……そこまで、好きでもない。雨の日には、色々と嫌な思い出が多すぎるんだ」

 俯いた一真が低い声音で呟き返せば、エマは「そっか」と小さく眼を伏せ、

「僕もね、昔は雨が嫌いだった」

 と、今にも折れてしまいそうなほどに細い声でポツリ、と呟く。それに一真が「そうなのか?」と何気なしに訊き返せば、エマは「うん」と頷き返す。

「何て言うのかな……。どうにも、気分が沈んじゃうような気がして。外に遊びにも行けないし、子供の頃は雨って、実のところあんまり好きじゃなかったんだ」

「……ま、その気持ちもよく分かるぜ」

 同意する一真にも、幼少期はそうだったような覚えがある。子供の頃は、やっぱり一真も雨は今以上に好きではなかった。エマと同じように、雨は好きになれていなかった。

「それにね、僕も雨には良い思い出がないから。……パリが焼かれたあの日の夜明けにも、こんな雨だった覚えがあるから」

 眼を伏せ、何処かほんの少しだけ哀しげな横顔でエマが細い声音で紡ぎ出す。辛い過去を思い出している彼女の横顔は、何故だか雨の色とあまりにもよく似ているような……そんな風に、一真の眼には映っていた。

「…………」

 そんな彼女の気持ちは、無言のままで俯く一真にも理解出来るところがあった。彼にもエマと同じように、雨には辛い記憶が多すぎるのだから……。

「でもね、最近は雨って好きなんだ」

 そうしていると、エマはぱっと横顔の色を明るい色に切り替えて。言いながらそっと足を踏み出せば、隣り合う一真の方へと近づいてくる。互いの腕と腕が触れ合いそうな、それこそ微かに体温すら伝わってきそうなぐらいの距離まで。

「雨音を聴いていると、何だか最近は落ち着くんだ。……それにね、君に僕の気持ちを打ち明けたあの日も、こんな雨だったから」

「エマ……」

「だからね、僕は雨が好きになれたんだ。君と僕とを結びつけてくれた、こんな雨がさ」

 エマはことり、と首を傾げ。その頭を一真の左肩へと預けてくる。ただ俯き、立ち尽くす一真の肩へと。

「……俺も」

 そうしてエマに寄り添われている中、一真は俯いていた視線をほんの少しだけ上げれば、震える唇を開き返す言葉を紡ぎ出した。唇が震えるのは雨に打たれた寒さのせいか、それとも無意識の内に何かを恐れているのか……。どちらかなのかは、分からないけれど。

「俺も、好きになれるかな?」

「……なれるさ、きっと」

 肩に頭を預けたまま、エマはそっと指と指とを絡ませ合う。離すまいと、何処へも行かせまいと、儚く脆い彼を此処に繋ぎ止める鎖のように。

「…………カズマの剣からは、何だか凄い哀しさを感じるんだ」

 そうしながら、エマは次の言葉を紡ぎ出す。言おうとして言いそびれていた、そんな言葉を。

「……哀しさ?」

「うん」微かに頷くエマ。「この間の稼働試験で、君と戦った時にね。何でかは分からないけれど、そんなものを感じたんだ」

「…………」

 一真は、それに答えなかった。いや、答えられなかった。何処までを彼女に告げるべきか、告げて良いものか分からずに、ただ無言を貫く以外の術を彼は知らなかった。

「きっと、その理由わけは。君がさっき言ってた、嫌な思い出のせいなんだと思う。雨の日にあったっていう、哀しい思い出」

「……なんで、君はそう思う?」

 恐る恐るといった風に一真が訊けば、エマは「うーん」と悩み、

「根拠はない。……けれど、そう思ったんだ」

 悩んだ後で、僅かな微笑みとともにそんな回答を示してきた。

「…………」

 そして、一真はそれにまた答えられず、無言のまま。エマの根拠のない言葉が、しかし何故だか的を射ていたから。きっとそのことへの驚きと戸惑いがあったからだろうと、我ながらにそう思う。

「話したくないのなら、それでも良いんだ」

 すると、エマはそんな一真の気持ちを汲み取ってか。言葉に詰まり、返す言葉に思い悩み無言を貫く一真へとそんな言葉を投げ掛ける。

「でもね、これだけは覚えていて。君の隣にはいつも僕が居るってこと。僕だけは何があっても、君を独りきりになんてさせないってこと。

 …………いつでも、頼ってくれて良いんだよ? 独りで抱え込むより、二人で一緒に背負った方が、きっと良いに決まってるから」

 その言葉が、おかしなまでに胸に染み渡る。彼女の言葉が、優しさが。訳も分からないままに、彼の心に深々と浸透していく。

「……今は、まだ話せない」

 だからかもしれない。一真が貫いていた沈黙を解き、次の言葉を紡ぎ出せたのは。

「でも、近いうちには話すよ。……君には、エマには、知っていて欲しい。自分でもよく分からないけど、そう思う」

「……うん、分かった」

 絡み合う指と指は、次第に掌と掌に変わり。隣り合う彼女の華奢な指にきゅっと握られれば、一真は自然とそれを握り返していた。強く、強く。震える手と指で、彼女のひんやりとした、しかし何処か暖かな掌を。

「その時まで、僕は待ってる」

「……済まない、こんなことしか言えなくて」

「謝ることなんて、ないよ? だって……君は、僕にとってたった一人の君なんだから」

 横顔に刺さるエマの淡い微笑みが、一真の心を強く縛り付けていた鉄の鎖を、徐々にだが引き剥がしていた。そのことに、二人互いに気付かぬままで。

(……俺は)

 そんな中、一真が感じるのは己の心持ちの変わりようだった。あの日の戦い以来、まどかの散った戦い以来。マスター・エイジと剣を交わし、圧倒的な実力の差を思い知らされたあの夜以来。自分の心が、何処か隣り合う彼女に――エマ・アジャーニに強く惹かれ始めていることだった。

 勿論、瀬那を今でも愛していないワケではない。ワケではないのだが……。

(どうして、こんな遠くに来ちまったんだろうな)

 そう思うほどに、今は瀬那との距離を感じていた。彼女の方から遠ざかっているのか、はたまた自分が知らず知らずの内に離れていってしまっているのか。どちらなのかは分からないけれど、しかし彼女との間で妙な距離と溝を感じ始めていた。

 きっかけは、戦友の死。友の愛していた彼女の、橘まどかの死に他ならない。何がどう転び、二人の心持ちを変えてしまったのかは、分からないが……。だがあの一件をきっかけとし、一真の周囲に於ける関係性が徐々に変わり始めていることだけは、確かだった。

 思えば、霧香たちとも久しく顔を合わせた覚えがない。白井や、そしてステラでさえも。すれ違うこともなく、最後に彼女らの顔を見たのはいつのことだったか、それすらが思い出せないほどの長い時間ときが経ってしまっていた。

 ――――孤独。

 知らず知らずの内に、一真が感じていたのは孤独なのかもしれない。恐ろしいほどの、孤独。一真がひどく恐れていたモノがまた、音も無くすぐ傍まで忍び寄っていたことに気付き、一真は自分でも分からないままに怯えていたのかもしれない。少なくとも、今はそう感じる。

 だからこそ、握り返すこの手だけは離したくなかった。彼女だけは、エマだけは失いたくないと。いつしか一真は、この降りしきる雨の中――――確かな己自身の意志として、それを感じ始めていた。

(なあ舞依、教えてくれよ)

 俺はさ、分からなくなっちまったんだ。自分が何をしたいのか、何をすべきなのか。誰の手を握って、誰を離さないようにすべきかも。もう、何も分からなくなっちまったんだ――――。

(結局、俺は求めた強さの先に、何が欲しかったんだ?)

 その答えを持つ者は、まだこの世界の何処にも居やしない。それを分かっているからこそ、一真は手の震えを抑えられないでいた。

「カズマ」

 深い深い思考の渦に囚われてかけていた、そんな一真を正気に引き戻したのは。耳元から囁きかけてくる、隣り合う彼女の呼び声だった。

「今は、今だけは何も考えなくたって良い」

 そんな彼女の言葉は、まるで一真の内心すらをも見透かしているようで。そして向けられる瞳の色は、震えていた一真の心に落ち着きを取り戻させるほどに、穏やかな色をしていた。

「……ねっ?」

 悪戯っぽく首を傾げるエマの、無邪気にも見える柔らかな微笑みを目の当たりにして。その頃になって一真は、いつの間にか自分の手の震えが止まっていることに気付く。あれだけ震えていた手の震えが、今はおかしなぐらいに収まってしまっている。

「さあ、行こっか。実は折り畳み傘持ってきてるんだ。……生憎と、小さいのが一本しか無いけれど」

 エマは傍らのハンドバッグから小さな折り畳み傘を取り出すと、それをバサッと開く。そして一真の手を強く引くと「一緒に入ろっ♪」と、その小さな傘の中にいざなってきた。

「分かったよ、分かったって。そう慌てるなよ」

 肩を竦めながら、手を引かれるまま。一真はエマの差した小さな折り畳み傘の中に入ると、二人並んで歩き出した。隣を歩く彼女の肩を目いっぱいに抱き寄せて、彼女の肩が雨に濡れないようにしながら。

 折り畳み傘を叩く、ポツポツとした雨音が絶え間なく響く中。雨に濡れた街の中へと、二人はその足で再び歩き出す。哀しみの色も、背負った罪の重さも。せめて今だけは、雨の中で掻き消えて欲しいと。そんなささやかな淡い祈りとともに、二人は雨の街へと歩き出す。

「……カズマ」

「ん?」

「どんな罪だって、どんな辛さだって。僕は君の全てを受け止めるし、一緒に背負っていく。……もう、覚悟は出来てるから」

「きっと、エマが思ってるよりも。君が思っているよりも、俺の犯してきた罪はずっと重い。……それでも、来てくれるのか?」

「当たり前じゃないか。僕は、僕の全部を君と……カズマと一緒に使っていくって、もう決めてるから」

「……そうか」

 ――――例え、それが仮初めの約束でも。例えそれが、儚いものでも。

 それでも、彼がまた立ち上がるには十分すぎるほどの支えだった。まだ、もう少しだけ戦えると。彼にそう思わせるには、十分すぎるほどの心の支えで、そして救済でもあった。

 孤独な狼の背中は、雨の中へと消えていく。彼に待ち受ける運命を暗示するような雨の中へと。降り注ぐしめやかな雨の中に、やがて復讐へと変わりゆくだろう、そんな雨の中に…………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る