Int.68:孤独の白銀は動かず、ただ雨音の中に揺蕩うのみ

「……雨、降ってきちゃったね」

 京都士官学校の徴用校舎、その屋上出入り口近くにある階段の踊り場。手すりに肘と背中を預けながらぼうっとクレアが窓の外を眺めていると、コツコツという小さな足音とともに近づいてきたそんな声は、他でもない愛美のものだった。

「今日は降らないって予報だったのになー。傘、忘れてきちゃった」

 肩甲骨辺りまで伸びたアイスブルーの髪を左右に揺らしながら、愛美はとことことクレアの真横へと近づいてくる。そうすれば彼女もまた両肘を階段の手すりに突き、重ねた腕へ枕のようにほっそりとした顎を預け、一見するとだらしのないような格好で窓の外を一緒になって眺め始めた。

 窓の外には、つい先刻まで燦々と降り注いでいた晩夏の刺々しい日差しも、真っ青な蒼穹そらのキャンバスも既に無く。景色はただどんよりとしていて、空を覆い尽くす雨雲を背景に、降り注ぐ雨が静かな雨音を立てているだけ。日々の雑多なノイズも、それ以外の何もかもを掻き消してしまうような、そんな細い雨音が奏でられているだけだった。

「夏の天気は、変わりやすいものだわ」

 隣で同じように窓の外を眺める愛美の方を見ずして、視線は窓の外の景色を眺めたままでクレアがぽつり、と小さく愛美へ言葉を返す。

「ヒトの心と同じよ。変わりやすくて、とてもアテになんかならない」

「……相変わらずだね、クレアちゃんは」

 そんなクレアのクールな横顔をチラリと横目で眺め、愛美はクスッと微かに微笑んだ。何処かおかしそうに、しかし嘲笑の類の気持ちは一切織り交ぜないまま、クレアを眺めて愛美は、ただただ純粋に微笑む。

「……愛美、貴女どうして此処に?」

「うーん、暇だったし、懐かしくてお散歩してたんだ。そうしたらクレアちゃん見つけたってこと」

「そういえば、貴女も雅人も、此処の出身だったわね」

 ニコニコと無邪気に微笑む顔を向けてくる愛美を、今度はチラリと一瞬だけ横目で見て。するとクレアはそんな風に言い、フッとほんの僅かに表情を綻ばせた。

「ついでに言えば、省吾もだよ?」

 そうすれば、愛美はえへへ、と更に笑顔の色を強めながらで言う。フレームレスの眼鏡越しに見える愛美の双眸と、クレアが横目に向ける真っ赤な瞳との視線が、互いに互いの瞳の中ですれ違った。

「そういう関係、正直……羨ましいわ。少しだけね」

 愛美の、何処か昔を懐かしむような表情を横目に見て。クレアはボソリと呟けば、羽織るフライト・ジャケットのポケットから煙草を一本取り出し、潤んだ唇にそっと咥えさせる。

「……善し悪しだけれどね、こういうのも。でも、クレアちゃんも一緒だから」

 クレアが懐から取り出し、シュッとマッチを擦る傍らで愛美が言い返せば、咥えた煙草に火を付けつつクレアは「……そうね」と、またほんの少しだけ表情を崩しながらで頷いた。

 チリチリと煙草の先端が焦げ、クレアの愛飲するアーク・ロイヤル銘柄特有の、何処か甘ったるいような紫煙の香り。それが徐々に踊り場に漂い始めれば、ほんの一瞬だけの沈黙を破り、愛美は「……あのね」とクレアにまた話しかける。

「皆のこと、どう思う?」

「……皆?」

「A-311小隊のこと。クレアちゃんも、少しずつだけれど関わってはいるんだよね?」

「……とりあえずは、ね」

 煙草を咥えたまま、クレアはとりあえず愛美の言葉を肯定する。

「で、どう思うの?」

「……率直に言えば、まだ引きずっている感じに思えるわ」

「それって、この間の……」

「ええ」愛美が言い切る前に、クレアが遮るように頷いた。「私たちが合流した、あの晩の一件よ」

「まあ、そうだよね……」

 愛美も納得して、コクリとほんの少しだけ独り首を縦に振る。愛美もまた、彼女と同じことを感じていたが故の同意だった。

 ――――橘まどかの死を、大小こそ違えど、まだ皆引きずっている。

 それぞれ、影響は大きかったり少なかったり。しかし小隊の誰も彼もが大なり小なりそのことを未だに引きずっているのは、クレアや愛美の眼からだけじゃない。誰の眼から見ても、それは明らかなことだった。

「……正直、見てらんないわ」

 咥えるアーク・ロイヤルの先端から立ち上る白く濁った紫煙に、白銀の前髪を撫でられながら。クレアはまた愛美から逸らした視線を窓の外へと向け、またポツリと小さく呟く。

「毎回毎回、あんな風になってたら身が持たない。……分かっていることでしょうに」

「でも、仕方ないよ」

 愛美もまた隣のクレアを見ず、窓の外に広がる雨の景色を眺めながらで小さな言葉を呟き返した。

「クレアちゃんだって、経験あるでしょ?」

 その問いに、クレアは答えないまま無言を貫いた。しかしその無言が肯定となり、そうすれば愛美はクスッと微かに笑う。

「……特に、アキラくんは事情が事情だから」

「アキラ……?」

 愛美の口から飛び出してきた、聞き覚えの無い名。それにクレアが小さく首を傾げると、愛美は「彼だよ、初日にクレアちゃんが拳銃突き付けた」と、何処か冗談めかした風な口調で端的に説明する。

「……ああ、あの馴れ馴れしい」

 とすれば、クレアは途端に不機嫌な顔になり。忌々しげな風に呟いた後で短くなったアーク・ロイヤルの煙草を口から離せば、その吸い殻を携帯灰皿の中へと雑に突っ込む。その隣で愛美は「あはは」と笑い、

「赦してあげてよ、あのことはさ。……彼も、あれでちょっと無理してたみたいだから」

「……下で呼んで欲しくはないのよ」

 言いながら、クレアは新しく取り出した煙草を口に咥え、それにマッチで火を付けた。焦げ始めた新しい煙草からまた甘ったるいアーク・ロイヤル特有の香りが紫煙に乗って漂い始めると、愛美は「でもね」と更なる言葉を続けようとする。

「アキラくんも、決して悪い子じゃあないから。クレアちゃんを下の名前で呼んだのも、知らなかったからだし。クレアちゃん、それだけは分かってあげて?」

「……善処するわ」

 ここで素直にそうすると言わない辺りが、何ともまあクレアらしいというか何というか。そう思えば、愛美は浮かべる無邪気な笑顔の色をまた濃くしてしまう。

「……それより、私はあの二人の方が気掛かりだけれどね」

「あの、二人?」

 きょとんとした愛美がクレアの方に振り向き、訊き返す。するとクレアの方もまた横目の視線を向けながら「ええ」と頷き、

「一人は、雅人が目を掛けている彼」

「……カズマくんか」

 悟った愛美に、クレアはほんの少しだけ首を縦に振る仕草だけでそれを肯定した。

「雅人にも前に言ったけれど、彼の剣からは……そうね、深い哀しみみたいなものを感じるの」

「あー……分かる気がする」

 納得し、クレアの言うことが完全に腑に落ちた愛美は視線を逸らしながら唸った後で「でも」と続け、

「カズマくんの場合は、多分大丈夫だと思うよ?」

「……アジャーニ少尉が居るから、かしら?」

 先読みしてクレアが核心を突いてやると、「よ、よく分かったね……」と愛美が困惑する。それにクレアが微かな笑みを織り交ぜながら「前に、雅人から同じことを聞いてる」と続けてやれば、愛美は「そういうことか」とまた納得した仕草を見せた。

「……そう、あっちの彼の場合は、アジャーニ少尉が着いてる。雅人もそう言っていたし、私もそこまで気に掛ける必要は無いと感じたわ。ある程度の影響はあるでしょうけれど、それは彼自身が解決すべき問題よ」

「じゃあ、もう一人は……」

 誰のことか分からないままに、愛美は恐る恐るといった風に訊く。するとクレアは少しの間言い淀み、一瞬の間を置いた後で意を決すれば、その煙草を咥える潤んだ唇を小さく開いた。

「――――綾崎の巫女。名前は覚えていないけれど、あのは見るからに危うい感じだわ」

「瀬那ちゃん、か……」

 クレアがその名を出すと、どうやら愛美にも思うところがあったらしく。驚くこともないまま、ただ小さく彼女の名を呟くだけだった。

「あのは事情が事情だけに、私や貴女でも深くは立ち入れないわ。一応、雅人も気に留めてはいるらしいけれど……」

「それも、結局は本人が解決するしかないってことだよね」

 コクリ、とクレアは小さく頷き肯定する。それを横目に見て愛美は「そうだよねー……」と肩を落としながらひとりごちた。

「…………このまま放っておいて、悪い結果に転がらなければ良いけれど」

 小さく呟いたクレアの独り言は、そのまま甘ったるい紫煙と一緒に雨音の中に掻き消えていく。小さな予感を二人の肩に抱かせながら、しかしその確たる姿は未だ見えないままで。自分からどうこうする意志のないクレアにも、出来ることならば何かしてやりたいと思う、何処かお節介焼きめいた愛美にも。二人のどちらにも、今の現状で出来ることなんて何も無いままだった。

 そんな二人の傍で、雨は止むこと無く降り続ける。小さな雨音を奏でながら、ただ静かに……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る