Int.66:揺れる藍の巫女、その剣は迷いの色に②
突然現れた声と気配に戸惑いながら瀬那が振り返れば、いつの間にか武道場の壁に寄りかかるようにして立つ霧香の姿が彼女の背後にあった。
後ろで両手を組みながら壁に寄りかかり、薄目でじっと瀬那の方を眺める霧香がいつ、どんなタイミングで此処に現れたのかも分からない。瀬那でさえその気配を彼女が声を掛けてくるまで察せなかった辺り、やはり霧香も歴とした忍びの者ということだ。普段の言動があんなのでも、やはり忍としての実力だけは超一級らしい。
「迷っておる、だと?」
そんな霧香の方に振り返った瀬那が、腰の鞘に刀を収めながらで言った。カチン、と鍔が鳴る中、少しばかり苛立ったような瀬那の声音が武道場に反響する。
「瀬那の太刀筋を見ていれば、何となく分かるよ……」
「そんなはずは……」
ない、とは言い切れなかった。自分が迷っているのは、確かな事実なのだから。そのことが太刀筋に現れていたとしても、何ら不思議ではないのだ。剣は口ほどに物を言う。一真の振るう剣の内に秘めた何かを見出した瀬那が、それを分からぬはずがなかった。
「……でも、珍しいね」
「珍しい、だと?」
うん、と霧香はコクリと微かに頷く。
「瀬那がそこまで深刻に悩むところ、久し振りに見た気がする」
「……深刻に、であるか」
そして霧香にそう言われれば、瀬那はフッと微かに表情を綻ばせた。まるで自らを嘲け笑うかのような、そんな自嘲に満ちた笑みを浮かべる。
「……一真の、こと?」
首を傾げる霧香の問いに瀬那は答えなかったが、しかしその沈黙こそが答えのようなものだった。
「まあ、今の瀬那が悩むことっていったら、それぐらいだものね……」
とすれば、霧香はうんうん、と納得したように何度も勝手に頷く。その表情は相変わらずの薄い無表情で、口振りもマイペースそのもの。あまりに調子の変わらぬそんな霧香を眺めていれば、瀬那は自然と「……変わらぬな、其方は」なんて言葉を漏らしていた。
「ふふふ……褒めても、何も出ないよ……?」
「褒めたつもりではないのだが、まあよいか」
「……迷ってる? 一真と、この先どうするか」
うむ、と瀬那は苦い顔で頷いた。霧香を相手にどうこうしても、仕方ないような気がしたからだ。幼少の折より付き合いのある彼女ならば、ひょっとしたら良い相談相手になってくれるやもしれない……。実のところ、そんな淡い期待もあった。
「迷う原因も、まあ何となくは分かるかな……」
「そういう其方はどうなのだ、霧香。其方とて一真を好いておるのであろう」
「まあね……」薄い無表情を変えないまま、霧香は素直に肯定する。
「気持ち自体に、嘘はないよ……? でも、そこまでのものは無いんだ」
「……! では其方、
「その方が、瀬那を護りやすいと思ったからね……。半分は利用するみたいな形になっちゃったから、一真には悪いと思ってるけど……」
霧香の意外な回答に、瀬那は思わず目を丸くした。割と自分の欲望に忠実な
「私の仕事は、あくまで瀬那を護ること。……その為なら、何だって利用するよ? なんてたって、それがニンジャだからね……」
ふふっ、と薄い無表情の上で微かに笑う霧香に、瀬那は何と声を掛けて良いか分からなくなっていた。
「霧香、其方は……」
あまりにも、忠実。己が役目の為に、己が気持ちですら、己が抱いた淡い恋心ですらをも利用するというのか。
そんな霧香が、しかもあまりに当然のような顔をして振る舞うせいで。瀬那は霧香に対しての申し訳なさや様々な気持ちが入り乱れて、二の言葉をどう紡いで良いものかが分からなくなってしまっていた。ただその場に立ち尽くすだけで、薄く笑う彼女に何と言って良いのか、言葉を紡ぎ出そうにも紡ぎ出せないままでいる。
「私は、どんなことであれ。それが瀬那が決めたことなら、何処までも従うよ……」
「……それは、忍としての忠義が故か?」
眼を細めた瀬那の問いに、霧香は「それも、ある」と言い、
「でも、どっちかって言えば……単純に、瀬那の友達として、かな……?」
彼女は薄く笑いながら、寄りかからせていた背中をそっと武道場の壁から離した。
「私の、友として……」
「……瀬那がもし、一真から離れるって決めても。それはそれで瀬那の考えたことだから、私はそれに従うよ……」
霧香の放った最後の一言は、まるで瀬那の内心を全て見透かしているような言葉だった。
「霧香、其方は……!」
一瞬だけ眼を伏せていた瀬那が呼び止めようと再び視線を上げた頃、既にそこに霧香の姿は無く。彼女の気配は、完全に武道場の中から掻き消えてしまっていた。まるで、最初から霧香なんてこの場に居なかったかのように。それこそ、今まで話していたのが単なる幻覚の類ではないかと、そんな錯覚を一瞬だけ瀬那に抱かせてしまうほどに。
「私は、どうすべきなのだ……?」
その問いに答える者は、今此処には誰一人として存在しない。きっと霧香がまだ居ても、それに答えてくれることは無かっただろう。彼女は瀬那の内心を全て見透かした上で、敢えて何も言わずに去って行ったのだから……。
「……確かに、私は未だ一真を好いておる。好いておるはずなのだ…………」
――――なのに、違う気がする。自分が彼の隣に居ては、いけない気がする。
瀬那はただ、悩んでいた。武道場の外をしとしとと打ち始めた雨音にも気付かぬまま、ただその場に立ち尽くしたまま。瀬那はただ、悩み続けていた。
「……やはり、私では。私では、其方に相応しくなど」
降りしきる雨の中、少女の苦悩は注ぐ雨音の中に消えていく。答えを持つ者も、答えを待つ者も持たずして。曇り無き剣を携えた少女の想いは、曇り空のようにどんよりとした胸の内に沈んでいく。
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