Int.65:揺れる藍の巫女、その剣は迷いの色に①
――――その日の昼頃、士官学校敷地内の武道場。
いつもならば立ち入る者も無く、
「ふっ……!」
そんながらんとした武道場の中に居たのは、瀬那だった。白地の道着に紺の袴という出で立ちで、左腰には長い鞘が。そして両手で柄を握る抜き身の真剣で、彼女は独り虚空と何度も何度も斬り結んでいた。
袈裟掛け、縦一文字に横一文字。一歩引いてからの刺突。刀を振るい、踏み込む度に白くほっそりとした素足が板の間を滑る度にキュッキュッと鳴り、滲む汗が小さく床に落ちていく。ひゅうっと重い玉鋼の刀身が音を立てて空を切るごとに、瀬那は何処か心が研ぎ澄まされていく思いだった。
(……私は)
そうして一心不乱に刀を振るいながら、しかし瀬那は心ここに在らずといった風に思いを巡らせている。
(私は、其方の傍に
愛刀に空を切らせて斬り結ぶのは、己自身だ。迷い続ける己自身の幻影と剣を交えるように、瀬那は思いを巡らせながらで一閃、また一閃と刀を振るっていく。
(……私では、其方の孤独を埋めることも。まして、其方の想いを汲んでやることも出来ぬ)
だが、空を切る刀身が己の幻影を捉えることはない。鋭い一閃を振るう度に、しかし斬り捨てるのはただただ虚空のみ。遠ざかっていく己が幻影には一向に届かず、踏み込んでも踏み込んでも、その刃が揺らめく幻影を捉えることはなかった。
(私は、どうすべきなのだ?)
そんな瀬那が思い悩むのは、ただひとつ。己が気持ちと、そして一真とこれからどう向き合うべきなのかということだった。
……瀬那自身が未だに一真を好いていること自体に変わりは無いし、その気持ちには一切の嘘偽りもない。それは確かなのだが、しかしこのまま一真とこのままの関係を維持していくことに、瀬那自身に迷いが生じていることもまた、事実だった。
――――橘まどかの死。
それは、周りが想像しているよりもずっとずっと、瀬那に対して強い影響と動揺を与えていた。それこそ、彼女独りで背負うには重すぎるほどに。
瀬那は今まで綾崎の巨大な庇護の元で生きてきて、その中で人の死というものを経験したことが無かった。まして比較的近しい間柄の死に直面する機会など、綾崎財閥の護られていた頃の瀬那が巡り逢うことなんて、あるわけがなかったのだ。そういった唯一の例といえば母だが、しかし瀬那がまだ物心も着かない頃にこの世を去ってしまっている。
だからかもしれない、と瀬那は薄々だが自覚のようなものも感じていた。自分が初めて直面する近しい者の死、それが自分の心に凄まじい揺らぎを与えているのではないかと、彼女自身もほんの少しだけ思うところがあった。
(……いや、それだけではない)
勿論、理由はそれだけではない。確かにまどかの死は根本的な切っ掛けであったが、それだけが問題ではないのだ。
――――結局、自分はあの時、一真に対して何もしてやれなかった。
動揺する彼を支えてやることも、ただ傍に居てやることすらも。自分は出来ないまま、ただただ見ていることしか出来なかった。全て、エマに任せたままで……。
そのことを、瀬那は強く悔いていた。
勿論、エマに嫉妬しているだとかそういう気持ちは一切無い。寧ろ、不甲斐ない自分の代わりによくやってくれたと感謝すら覚えているぐらいだ。瀬那はただ、何も出来ないままだった自分自身に酷く悔いているのだ。愛していたはずの男、その心の揺らぎを受け止めるどころか、分かち合うことすら出来ずに、ただのうのうと独り己の動揺すら御せない自分自身を。
エマと自分が違うのは当然だ。この世の地獄と揶揄されるほどの激戦区である欧州戦線で戦い続けてきた熾烈な経験と、エースとまで言わしめた確かな実力を兼ね備えた彼女と自分とでは、違うのも当然だし仕方のないことだ。まして、仲間の死に際してのことなど、自分が彼女に敵うはずがない。今までに飽きるほど人の死を見てきたであろうエマに敵うはずもないし、寧ろそんな彼女が彼の傍に寄り添ってくれたことに、瀬那は感謝しているぐらいだ。
――――そう、エマと己との違いはよく分かっている。
分かっているからこそ、自覚しているからこそ。瀬那はここにきて、自分の立ち位置と一真との接し方を、改めて見直す必要があると感じていたのだ。それは、どちらかといえば強迫観念に近いぐらいに。
(一真は、何かを抱えておる。とてつもなく重い何かを……)
そして瀬那は同時に、一真に対しても並々ならぬ何かを感じていた。あの晩の戦いで、あの蒼い≪飛焔≫――確か、マスター・エイジといったか。あの男との剣戟の中で、瀬那は彼の振るう剣に酷く重い色を見出していた。
(……喩えるなら、あの時の剣の色はまるで)
――――哀しい、色。
煮え滾る憤怒の裏に覆い隠した、深すぎる哀しみの色。あの時の瀬那は遠目に眺めていることしか出来なかったが、しかしマスター・エイジと斬り結ぶ彼の振るう剣の中に、瀬那はそんなものを感じていたのだ。
……いや、あの時というと少しだけ嘘になる。前々から、薄々と感じていたことでもあった。
(なのに、私は)
薄々ながらも感じていたのに、それを誤魔化していた。自分の中で、気のせいだと自分自身すらをも誤魔化していたのだ。彼に対する己が想いを募らせる中で、心の何処かでそれを気のせいだと片付けてしまっていた。あの時からじゃない、少しだけだけど、前から感じていたことなのに。
(……私は、やはり其方には似つかわしくないのやもしれぬ)
一心不乱に刀を振るいながら、また瀬那はそんなことを考えてしまっていた。
(其方の背負う怒りも、哀しみも。私には理解することも、まして受け止めることも出来そうにない)
出来るわけが、ないのだ。結局のところ、どれだけ高潔に振る舞おうとも。自分は所詮、綾崎財閥の中で安穏と過ごしてきた、単なる温室育ちに過ぎないのだから。綾崎の紋を背負う為の、単なる籠の鳥に過ぎないのだから……。
(……決着を、付けるべき時なのやもしれぬ。精算をすべき時なのやもしれぬ。曖昧なままに、
刀を振るいながら、瀬那がそう思っていた時だった。
「…………迷ってるね」
誰も居ないはずの背後から、唐突に抑揚の少ない彼女の声が届いてきたのは。
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