Int.30:飛鳥双月、誓いの爪痕①

 そして、それから一時間半ばかしが過ぎると。203号室を出た一真は独り、私服の格好で一階ロビーの壁に背中を寄りかからせながら立ち、腕組みをしながら霧香を待っていた。

「…………」

 腕組みをした格好のまま、無言で一真は左手首に巻いた腕時計へチラリと視線を落とす。すると、そんな腕時計の中でときを刻む三本の針が示す時刻は、まだ午前十時の少し前ぐらいだった。

「幾ら何でも、早く来すぎたか……」

 視線を上げ、軽く上に向けながら訓練生寮の天井を仰ぎつつ、一真は小さく息をつく。食堂から戻ってきた後、暇を持て余すのがどうにもアレに思って、あまりにも早く出過ぎてしまった。既にもう十分近くここでボーッと立ち尽くしている辺り、やはり気が早すぎたのだろうか。

 ただまあ、ここで待ち合わせというのも存外悪くない。確かに駅で待ち合わせた方がエマやステラが言う通り、雰囲気は出るのだろうが……。一真としては、この本気で殺しに来てるんじゃないかってぐらいなクソ暑い日差しの中を歩き、その後で合流するよりか、最初から一緒に行った方が何かと気分的にも良い気がする。

 とはいえ、それはそれぞれの感じ方の問題だ。一真もエマたちも、そのどちらもが正解じゃなく、そして間違いでもない。折角なら気分的にもそういう気分でいきたいという彼女らの言うことだって、一真にも分からないじゃない。だからまあ、最終的に一真の出した結論はどちらでも良い、向こうに合わせようといった具合になっていた。

「…………早い、ね」

 あまりに暇を持て余しすぎて、ボーッと天井を眺めながら一真がそんなことを思っていると。いつも通り平坦ながら、しかし何処かに驚いたような感情の色を少しだけ織り交ぜたような、そんな聞き慣れた声が聞こえてきたものだから。「ん?」とそちらの方へ振り返れば、相変わらずの無表情の中で、ほんの少しだけ目を丸くしたような顔の霧香が、そこには立っていた。

「意外か?」

 首だけで彼女の方を向く一真が冗談めかしながらそう言い返せば、「……うん、意外」と霧香は頷く。

「五分ぐらい、遅れてくるタイプだと、思ってたから……」

「……君の中の俺って、どんなイメージなんだ…………?」

 続けてそんなことを言った霧香に、一真は軽くズッ転けそうになりつつ。苦笑いのようなまた別のような、複雑な色の顔をして半分独り言のように呟く。

 すると、霧香は「ふふ……」といつもの妙な、明らかにロクでもないようなことしか考えていないみたいな薄い笑みを浮かべれば、

「ダメ男……」

 ニヤニヤとしながらそんなことを口走るものだから、一真も「おいおい……」と肩を竦める。

「そりゃあねえぜ、霧香。流石に酷くないか?」

「ふっ。冗談、冗談……」

 参ったように一真が言えば、霧香は眼を細めながら続きそんなことを言う。それに一真が「ほんとかよ?」と疑心暗鬼な顔で訊き返せば、

「ほんと、ほんと。ニンジャだからね、嘘は、つかないよ……?」

 耳に出来たタコが刺身の格好になってお出しされるぐらいには聞き飽きた台詞を、霧香は妙なキメ顔で一真に向かって告げてくる。

 相変わらず、本気なのか冗談なのかが大真面目に読めない相手だ。真面目な話だろうがそうでなかろうが、本人の口振りも顔色も一切変わらないからなのだろうが、それ以上にあの薄い無表情のせいで内心が本気で読めないことが大きいのかもしれない。何にせよ、霧香が相手にしづらいことだけは確かだ。

 とはいえ、一真も一真で何となくだが、そんな霧香の気分というか、そんなものを読み取るコツのようなものはやっとこさ掴めてきた所だ。とりあえず、他の連中よりは霧香の平坦すぎる感情の起伏を察せられるようになっている……と、願いたい。

「ふふふ……」

 大袈裟に肩を竦めながらそんなことを考える一真の横で、また妙な顔をしているそんな霧香の格好は、やはり当然だが一真と同じように、制服でなく私服を身に纏う格好だった。よく考えてみれば、霧香の私服なんて初めて見た気がする。

(いや、前の一件があったか)

 なんてことを思った直後、しかし瀬那と市街を回った時に楽園エデン派の連中に襲われた際、割り込んできた彼女がそういえば私服だったことを思い出し、即座に一真は内心で訂正した。尤もあの時はそれどころじゃなかったから、霧香がどんな格好をしていたなんてまるで覚えていない。

 とまあ余計な話は横に置いておいて、肝心の霧香の出で立ちはといえば、こんな具合だ。

 ――――ワイン・レッドぐらいな色合いの濃い赤の、しかし生地は割と薄手なワイシャツめいた格好のブラウスを上に纏い。袖を肘ぐらいまで捲ったそれの上には、ちょっとしたベストのような感じの、こちらも薄手な感じの奴をふわっと羽織っている。襟首を大きく開いたブラウスの首元には、黒っぽいネクタイを緩くぶら下げていた。

 加えて下は膝より少しばかり上かなといったぐらいな、腰にちょっとした半分飾りのベルトが付いた丈の黒いスカートで、そこから見える細い両脚にぴったりと張り付くのは、オーヴァーの丈とまではいかないまでも、しかし膝ぐらいまではあるニーソックスだ。

「……どうか、した?」

 そんな霧香の格好をボーッと眺めていたものだから、霧香がいつもの調子で首を傾げながらそれを聞いてくる。それに一真が慌てて視線をそらしながら「何でもない」と言えば、「……?」と霧香は頭の上に疑問符を浮かべる。

「まあ、いいや……」

 少しして、霧香は何をどう納得したのか、軽く瞼を伏せながらうんうんと頷いてひとりごちる。

 そんな霧香の様子を遠巻きに、苦笑いで一真が眺めていると、瞼を開いた霧香は再びぽやーっとした双眸で一真を見ながら「……じゃあ、行こうか」と告げ、先に訓練生寮の玄関に向かい歩き出してしまう。

「あ、ああ」

 一真は半分戸惑いながら、しかししっかりとした足取りでそんな霧香に続いていく。

(ある意味平常運転、か)

 変わらないな、いつでも君は――――。

 一歩先を行く霧香の小さな背中を上から見下ろし眺めつつ、そんなことを思った一真は思わずフッと頬を綻ばせてしまう。

 そうすると、視線に気付いたのか霧香は一瞬立ち止まり、ふっと後ろを振り向きながら「……やっぱり、どうか、した?」なんてことを、ぽやーっとした顔で訊いてくるものだから、一真は「なんでもない」と言い返す。そう言う一真の顔に浮かぶのは、苦笑いにも似た小さな笑みだった。

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