Int.19:藍の少女、迎えし白狼の背中に抱かれ
「じゃあね、カズマ。おやすみ」
「ああ。それじゃあなエマ、君もいい夜を」
結局、その後の二人はそのまま真っ直ぐ訓練生寮に戻り。最後にそう言葉を交わしてエマと別れると、一真もまた自分の203号室へと戻っていく。
「瀬那、流石にそろそろ帰ってるだろ」
そう思いながら扉の施錠を解除し、ドアノブを捻って玄関扉を開けた一真だったが、しかし入った部屋にはまるで人の気配は無く。何もかもが、エマとここを出て行く前のままの状態で残っていた。
「ん? …………まだ、戻ってないのか?」
怪訝に思いながら、後ろ手に戸を閉めた一真は靴を脱ぎ、部屋に上がりながら「おーい、瀬那ー? 帰ってるのかー?」と声を掛けるが、しかし彼女の返答が帰ってくることはなかった。
「おかしいな、幾ら何でも遅すぎる」
もう一度玄関を見てみるが、やはり瀬那の靴は無い。不審に思いつつ一真が頭を捻らせていると、さっき言われた西條の言葉がふと、彼の頭を過ぎった。
"……早めに、部屋に帰るんだぞ。出来るだけ、早めにな"。
「まさか――――!」
その言葉が脳裏を過ぎった途端、さあっと顔を蒼くした一真はホルスターごとテーブルの上に置きっ放しだったグロック19を掴み取り、顔面蒼白で玄関から飛び出しかける。
しかし――――玄関扉のドアノブに手を掛けた所で、一真は動きを止めた。
(……西條教官がああ言うってことは、つまり教官も何らかのことはキャッチしてる…………?)
であるのならば、あの意味深な言葉の意味もなんとなく理解できる。その上で、分かった上で西條が戻れというのだから、自分が飛び出しても何の意味も無いのではないか……?
(というか、そもそも瀬那の居場所も分かんないんだよな……)
冷静になって考えてみれば、飛び出したところでその後、自分はどうするつもりなのか。瀬那の確たる居場所も分からないし、そもそもどんな事態が起こっているのかも把握していないのだ。そんな状態で飛び出したところで、意味は無い。それどころか完全に徒労で、場合によっては却って悪い結果を引き起こしかねないだろう。
「ったく、俺って奴はどうしてこう……」
自嘲めいたことをひとりごちながら、ドアノブから手を離した一真は部屋に戻っていく。
そうだ、西條が全てを分かった上でそう言うのなら、自分はそれに従うべきだろう。それにエマの話なら、霧香も傍に付いている。どうやら本物の忍者らしい彼女が瀬那の傍に付いているのなら百人力だ。例えどんなことになっていようとも、少なくとも自分の何百倍も役に立つはずだ……。
そう思いながら、しかし一真はグロックの収まるホルスターを離そうとはしなかった。いや――――離そうとしても、心がそれを拒否した。
「…………風呂、入るか」
このまま一人で悶々と無為な時間を過ごしていても、仕方ない。そう思った一真は己に言い聞かすようにひとりごちると、風呂場の方に向かっていった。
そして風呂場に入ると、瀬那が居て「きゃー」なんてお約束の展開――――は勿論あるはずもなく。がらんとしてもぬけの殻な浴室があるだけだった。
風呂が沸くのを待つこと数十分。湯沸かし器が湯を張れたことを知らせてくると、一真は今度こそ汗を洗い流すべく浴室に入った。
使用前のタオルが積み重なる籠の中にグロックを隠し、服を脱ぎ捨てた一真は浴室に足を踏み入れる。温水降り注ぐシャワーを頭から浴びれば、今日の疲れも、身体に張り付いた汗も。そして蓄積した穢れすらも、その何もかもが肌を撫でる湯で洗い流されていくような気がする。
一通りシャワーを浴びてから、それから一真は浴槽に足を踏み入れた。湯の温かさが身体に染み渡り、思わず「あぁ」なんて気の抜けた声が出てしまう。
「ふぅ……」
湯気の沸き立つ浴室の中、一真は小さく息をついた。吐き出す息と共に、疲労も身体の内側から出ていくような気がして。これこそ正に極楽、という奴だろう。
いやはや浴槽というものは実に良き文化だと、こうしていると身に染みて思う。浴槽に浸かれずシャワーだけの生活なんて、一週間も続けばきっと自分は気が狂ってしまうだろう、なんてことすらも考えてしまうくらいに、心地よかった。
「こんなんなら俺、海外じゃ暮らせねえかもな」
誰に向けるでもなく、強いて言うなら天井に向けてひとりごちると、一真は思わず頬を緩めてしまう。ステラやエマみたいに、外から来た人間が凄く身近に要るだけに、余計に一真はそう思えてしまうのだ。
「……ん?」
そうしていると、玄関扉が開いて閉まる気配が遠巻きにここまで聞こえてきて。微かに感じる慣れ親しんだ足音と気配は、それが瀬那の帰宅だと暗黙の内に一真へと伝えていた。
「やっとお帰りか、瀬那は」
まあ、無事で何よりだ――――。
いや、実際目にしたわけではないから分からないのだが、しかしあの足音から考えるに、別に怪我をしたとかそういうワケではないらしい。とりあえずはホッとしながら、一真は深く浴槽に身体を沈めた。
「まずは一安心、か……」
杞憂に終わってくれたようで、本当に何よりだ。先程の一真の一連の行動は完全に無用な心配だったが、しかしそれならそれで構わない。彼女が、瀬那がこうして無事に戻ってきてくれたのなら、それが一番だ――――。
一真がそんなことをぼんやりと考えていると、何故か脱衣所の戸が開く気配がした。
「おい、まさか」
ともすれば、閉じた浴室の磨りガラスめいたプラスチックの窓からは、誰かの輪郭がうっすらと見え始め。それは割と長身で、身体の起伏が大きい誰かの姿だった。しかも、僅かに窺える髪の色は、どう見たってアレは完全に藍色――――。
「冗談だろ……?」
間違いない、アレは瀬那だ――――。
一真が今浸かっていると気付いていないのか、完璧に瀬那は風呂に入ろうとしているようにしか見えない。僅かな
「ど、どうすりゃいいんだよこれ」
ここは浴室で、出口は脱衣所以外にアリはしない。つまり一真は既に逃げ場など与えられておらず、完全に袋小路に追い詰められているワケで。しかし今ここで脱衣所に飛び出してしまっていけば、あの向こうにある彼女のあられもない姿を――――というかこっちも似たようなもんだから、お互いに見てしまうことになり。ともすれば、一真は成敗コースを免れないことになる。
――――行くも地獄、戻るも地獄。
今、彼の置かれた状況を形容するならば、正にその言葉が適切であろう。どちらに転んでも、ロクでもない結果が待ち受けているのは目に見えている。
「勘弁してくれよ……! 真剣白刃取りなんて、二回も出来る芸当じゃねえってのに……!」
なんて具合に一真が焦っていると、磨りガラス越しに見える瀬那の影は既に浴室に手を掛けていて。顔面蒼白になりながら一真が死を覚悟すると、しかしその扉はあまりにも無慈悲に向こう側から開かれてしまった。
「す、すまん瀬那っ! だが不可抗力! 不可抗力!」
途端に一真は全力で謝罪コースに入るが、しかし瀬那の反応は何処か薄く。いつもの具合で峰打ちもスッ飛んで来ないので、不思議に思った一真が恐る恐るといった風に彼女の方を見上げると、
「ん……? ――――ああ、一真か」
そう言う瀬那の顔が、何処か憔悴しているようにも見えてしまい。一真はお互いにとんでもない姿であることも忘れ、そんな彼女の尋常ならざる顔をただじっと、見上げていた。
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