第59話 塀の上の王妃
彼女は決心して、自分の背丈の二倍はあろう塀を指差した。
「あの塀の上に上がるのを手伝ってくださいますか」
忠賢はみなまで聞かず首を振った。
「こんな正門から近い場所で、塀を越えようとしたら、内部の兵が…」
「ここではなく、裏門のほうに回るわ。この邸にいる兵の数は、私邸の警備にしては多いけれども、瑞慶府の兵よりは絶対的に少ない。だから曹はそれを表門に集中させているはず。王の御性格をよく知り、軍が裏門を破って入らぬことを読んでいるから。だから、私達もここから大庁を突っ切って裏側の壁に上がるの。曹の兵はそこにはいないから大丈夫。そこで外の守りに邸の守備の様子を話し、無関係な者の救出を訴える。……」
「裏からは王の兵も入らぬ?なぜそんなことがわかる」
宝余はふっと笑った。
「聞いたでしょう?大旗の臨御だと。王はとても誇り高い方。むろん表裏のどちら側にも王兵は展開させているでしょうけれども、裏から入るなんてことはしないはず、攻めてくるときはきっと正々堂々と表門からよ。賭けてもいい。大班主、お願いです。彼等を説得してみせます」
忠賢は何か問いたそうな顔をしたが、それは一瞬のことで、
「お前の言うことも当っているかもしれん。だが王が表門にいるとして、裏門に配した人間のことだ。そいつが話のわからぬ奴なら、どうしようもないではないか。だいいち、雑班のごとき者のいうことなど、府官がとりあうとはとうてい思えん。矢の的にされるのが落ちだ。それなのにそなたに命を預けろと?果たして勝算はあるのか?」
宝余はそのようなときにも正直だった。
「ですが、このまま座して死ぬよりもましです。祈りましょう、裏門の守り手が話のわかる人物であることを」
とは言ったものの、実は彼女は確信していた。裏門へ遣わされているのが、おそらくはあの人物だということを。
彼女の説得の視線に、忠賢も動いた。二人は兵に見つからぬよう用心して、速足で、しかし音を立てぬよう大庁の脇を通り、後房を抜けて邸の裏手を目指す。
「あれが、裏の北門だな」
忠賢の声が上ずった。二人は物陰からそっと北門を窺う。宝余の推測どおりそこは既に見捨てられていたようで閂は打ち付けられており、見張りは数人しかいなかった。だが、塀の外では金属の触れ合う音、馬の蹄の音や嘶きが聞こえてくる。外には兵達が詰めているのがわかった。
二人は見張りの死角に入って、北西の壁に手をつき、上がった息を静めにかかった。頃あいを見て忠賢がすばやく膝をつく。宝余はその両肩に足をのせる。
「行くぞ」
勢いをつけて忠賢も立ち上がる。屈していた宝余の膝がぴんと伸び、両腕も目いっぱい上に差し出される。十本の指が、かろうじて壁上部の瓦にかかる。自分の身体を引き上げるのは宝余にとって大変な苦行だったが、足の裏を忠賢に支えられ、指のさきまで力を込めた。
ようやく這い上がり、宝余は瓦の上に膝をつく。息を静めて内側を見下ろすと、忠賢が下でじっと自分を見返している。
「短刀を貸して」
「何に使うつもりだ」
宝余は無言で首を振った。忠賢はあきらめの表情で腰に手をやり、赤い房の短刀を放り上げた。それは難なく宝余の手中に収まる。
「賢く使え」
宝余は頷いた。膝ががくがくしてすぐには立ち上がれない。しかし、眼下に映る人馬の数を見て、思わず腰を浮かせた。ざっと見積もっても百騎はつめている。
ひゅっと左腕をかすめて飛んでいったのは、おそらく矢だろう。だが宝余は怖いと思う余裕すらなかった。腕を反対側の手で触るといやな感触がする。腕を押さえ、よろめきながら立ち上がり、足を踏ん張る。眼前には、兵士と騎馬、そして遠くには近隣の住民だろう、難を避けようと荷物を担ぎ出し、右往左往している人間達が見えた。
「――ここを王命によって守るは誰か!」
連打される銅鑼の音に負けぬよう、できる限りの大声で呼ばわると、また矢が飛んできた。ようやく宝余に恐怖の感覚が戻ってきた。だが、もう後にひくことはできない。
「誰がこの持ち場を守っている!」
畳み掛けて問うても返答は騎馬のいななきのみ、人は誰も答えない。宝余は緊張と焦りで吐き気を感じた。そこでふと思いつき、懐から海星が贈ってくれた銀の笛を引き出し、高く吹き鳴らした。熱と暴力の予感に満ちた空間を裂いて、澄んだ音色が響き渡る。
そのとき、
「――ここを守るのは、私だ」
誰かが乗馬のままで進み出てきた。狙いを定めている弓手達を制止してから、顔も判別できるほど近くにやってくる。その者は塀の上を見上げ、頼りなげに立つ少女を認めた。宝余も相手を確かめようと目を凝らし、息をとめた。
「――弦朗君さま」
名を呼ばれた相手は、おやという表情をした。
「私の名を知っているとは――」
相手が少なからず愉快そうな顔に見えたのは、宝余の見間違いとも思わなかった。すでに相手の正体を察しているはずなのに、慎重な彼は宝余の名を呼ばない。宝余は心中で彼の機転に感謝するとともに、邸の裏側の守り手が自分の読みどおり、彼であったことにほっとした。だが、まだ事は終わりではない。
「『彼』もここにおいででしょう?」
「南門のほうに」
とだけ答え、彼は馬首をめぐらせた。
もう弓矢は飛んでこない。あとは、彼が来るのを待つだけだった。
早く、早く――。
宝余がいらいらしながら待っていると、やがて、数騎の足音が聞こえてきた。
「王のお成りであるぞ」
顕錬もさきほどの弦朗君とほぼ同じ位置に馬を進め、塀上の宝余を見上げる。その表情は仮面のようで、心情をうかがい知ることは全くできない。その後ろには弦朗君が控えている。
「私を呼んでいるのは、そなたか」
馬上の人と塀上の人、二人はじっと互いの顔を見つめていた。
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