第31話 鴛鴦の衾、死人の魂魄

 遠いところで、さっきからしきりにぼそぼそと人の声がする。彼女は眠りの底から浮かび上がった。閉じた目の裏がまぶしいばかりか、複数の人間達がしきりに耳元で何か言っているのだ。彼女は目を瞑ったまま、一声うめいて寝返りをうった。


 ――誰なの?私はもう少し寝ていたいのに。

「――しい、目をさましちまう」

「で、どうする?」

「ばらして人肉屋の張八に売っちまうか、それとも人買いの李七に売っちまうか。いずれにしろ、売っちまうことには変わりはあるめえ」


 そのただならぬ物言いに、ようやく宝余ははっと目をさました。夢うつつのなかで、自分はまだあの宿にいるものと錯覚していたのだ。

 がばりと起き上がると、松明に照らされて人影がいくたりも彼女の周りを取り囲んでいる。いずれも容貌魁偉の、ひとめで常人ではないとわかる男達である。彼等はみな鎧や手甲に身を固め、薄ら笑いを浮かべて彼女を見ている。


「きたねえなりをした餓鬼だな。だが見ろ、顔はなかなかいいぞ。ちょっととうが立ちすぎているかもしれんが、仕込めば間に合わせの相公だんしょうくらいにはなるかもしれん」

 松明を近づけ、顔をひきつらせた宝余を弄るように眺め回し、男の一人が腕をつかむ。


「さわるな!」

 悲鳴を上げるかわりに、男のような声で怒鳴りざま、宝余は自由になっているほうの手を懐に入れた。

「ぎゃっ」

 簪で手の甲を突き刺され、男はあわてて手をひっこめる。宝余は懐から引き出した簪を逆手にかまえて身を翻し、いつでも立ち上がれる体勢になった。


「こいつ…女だぞ!」


 血がしたたる手を押さえながら男がわめき、笑いながら成り行きを見ていた他の男達の顔が凍りついた。そして、宝余の顔も。

「何だと?」

 掴んだ手首の細さからして、男は見当がついたらしかった。

「へええ…そうなのかい?」

「そいつはいいや、久しく女というものを見ていないからな」

 宝余は相手を睨みつけ、簪を胸に引きつけて構えていたが、惨劇の足音を間近に聞いていた。簪をつかむ指が白くなったことにも気がつかない。


 ――ああ、とうとう恐れていたことになってしまった。

 男装も、あらゆる用心も、いともたやすく破られてしまった。禽獣のような彼等の面つきを見るだけで、宝余はこれから先に自分を待ち受けるであろう運命を正確に予測できた。

 ――死よりもおぞましい辱めを受けるくらいならば、いっそ。

 この簪で、喉を突くぐらいの余裕はあるだろう。まさか、あの優しい職人からの贈り物で、また自分も死ぬことになるとは思わなかった。もしこのことを彼が知れば、どんなに悲しむだろうか。


 太い男の腕がこちらに伸びてくる。油断しているせいか、その動きは宝余の目にはひどくのろのろしてみえた。彼女はとっさに簪の先を自分の胸に向ける。


 ――二人の父上さま、先立つ不孝をお許しください……!

 天を仰ぎ、その尖ったものをつきたてようとしたそのとき。


「……何とまあ、逢引の夜だというのに、いまいましくも野暮な雲が十六夜の月を隠してしまっているではありませんか」

 だしぬけに高い声が堂内に響き渡った。その場に全く不似合いな、芝居がかった声音である。


「『――私のいとしい貴方さま、私と盃も交わさずにお帰りになるおつもりで?私の房にいらせられませ。暖かな鴛鴦のふすまがございます。お帰りの灯りならば貸して参じますほどに。恐れ多くも烏神さまより賜りました死人の魂魄で、あなたと夜道を明るく明るく照らしましょう…』」


 そのすさまじい音量に、夜盗達も宝余も、肝をつぶして声もでない。思わず、宝余は自分の腕をつかんでいる男と顔を見合わせてしまった。声の主を探すと、祭壇の脇からすっと影が差した。


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