第5章 麻と泥
第25話 鷺舞う川辺
既に陽は高く上っていた。
彼女は足を引きずっていたが、それも無理はない話だった。いくら裸足よりましとはいえ麻布で足をくるんでいただけでは、何里も歩かぬうちに足が傷つくのは道理で、麻には血がにじみ始めていた。肩に担いだ麻袋は空になっているのに、それすらも今は重く感じる。
問題は、足だけではない。むろん空腹にもなっていたが、それより渇きのほうがこたえているのだった。
だが幸いなことに、歩いていくと叢の向こうが低くなっているのが見えた。草々の間から、銀色の筋がとぎれとぎれに見える。水だった。
宝余は小川の淵まで、足を急がせながら降りていった。自分の目で水の流れを確認すると、ほっと息を漏らし、掬うのももどかしく口をそのまま水につけた。ごく、ごくと喉が鳴ると、命がそれだけ潤いを帯びていくような気がした。
ようやく人心地つくと、彼女は今度は顔を洗った。しかし――。
――ああ、駄目だわ。
彼女は思わず呻き声を上げた。水面に映った自分は、流れに崩れつつも、かろうじて像を結んでいる。その顔は、どう見ても女のものだったし、ゆったりした服を身にまとっていても、気をつけて見れば胸のふくらみはどうしても目立つ。
――女なのだから、当たり前だけれども。
この先どうなるにせよ、女が一人でいることはいかにも無謀で、危険なことのように思えた。彼女はあたりを見回すと、川の淵で水が溜まっているところを見つけた。そこで泥を掬い取ると、自分の顔にこすりつける。
――せっかく綺麗に洗ったばっかりだったのに、勿体ない。
とはいえ、泥に汚れた自分の顔を水に映し、女のようには見えなくなるのを確認すると、ほんの少しだけ安心した。これで髪さえ隠せば、遠目ではなんとか少年として押し通せるかもしれない。
髪を隠すための被りものになりそうなものはなかった。急ごしらえで靴の代わりをこしらえたように、自分の着ている服を利用することも考えたが、素服をこれ以上裂いたり剥いだりすると、半裸のような格好になってしまう。
あきらめて自分の髪を一旦ほどき、耳の辺りで輪を作る少年の髪形に結った。涼でも烏翠でも、少年によく見る髪形である。本来、女の髪では長すぎるのだが、宝余は三つ編みなどで短めの髷におさめ、何とか格好を付けることができた。
ここまで姿を変えてもなお、素服を着ているのはいかにもおかしいのだが、いまのところ誰とも行き会わないので、さしあたりこれで我慢することにした。
そして、川は水だけではなく、空腹も解決してくれた。川の近くに数本の杏の木があったのだ。
――酸っぱい。
手を伸ばして薄い橙色の果実をもぎとり、皮を剥いて口に入れると酸味が広がる。三つ目の杏に手をかけようとしたとき、ふと宝余は手をとめた。
――杏は接木で増えるのだから、近くには人家や集落があるのかもしれない。
よくよく見ると、杏は等間隔で植わっている。きっと、誰かがここに杏を植えたのだ。だが、周囲を見渡しても家一軒見当たらない。
――とにかく、歩かないことには。
どこの誰ともわからぬ木の持ち主に感謝し、宝余は再び歩き出した。
道は段々と幅が広くなり、ついに二股に分かれた。宝余は思わず痛む足も忘れて駆けだした。二股に分かれるということは、必ず標石が置かれている筈だった。果たして、大きな石が二股道の真ん中に座しており、表面に何か文字らしきものが刻まれている。字は風雪に晒されかなり摩耗していたが、宝余は石に両手をつき、懸命に読み取ろうとした。
――右四十里
宝余はほっと息をついた。臨州には、きっと州知事の州庁があるはずだった。そこに行って自分の身の上を訴え出れば、何とかなるのではないか。
――でも、州は私を捕らえて瑞慶府に送るかもしれない。そうなれば、あるいは命も危ういかもしれない。
それでもいい、と宝余は思った。
――彼等の鼻をあかしてやりたい気持ちもあるが、それより重要なのは、自分はただこのようなことになった理由を知りたいのだ。この馬鹿々々しい状態に陥った理由を。
あくる日の朝、宝余は泊まっていた無人の堂の軒下で目を覚まし、昨日のうちに洗って干しておいた衣に袖を通した。まだ服は湿っていたが、それでも丹念に洗ったおかげで、すこしは泥が落ちて見られるようにはなっていた。それから近くの川まで顔と口をすすぎに降りた。
川岸はいちめん乳色の霧が立ちこめ、目を凝らすと鷺が数羽、川の中ほどに群れていた。彼女は顔をすすぎ、髪をほどくとそれも洗い、手ぐしでていねいにすいた。だが整えた髪形は昨日までの少年のものではなく、髪の一部を髷にして、残りは首の後ろで結んできちんとたらした女の髪型であった。
――また、よろしくね。
彼女は水面に映るもう一人の自分につぶやき、立ち上がると西へ向かって歩き出した。川沿いの道をあと二十里ほど行くと、そこには州庁がある。
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