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 元婚約者達の高貴なる血におけるやり取りの後、私達は厨房の机でチーズの風味たっぷりの平パンを思い思いに手に取って、他愛のない話をしながら食べた。


 サフィルス曰く。


「私の元婚約者がこんなにも健啖家であるとは思わなかった、実際に婚姻を結んだ後に食材で生活が立ち行かなくなるのではないか、ということを、今になって恐れている……何せ職やサヴォラ免許がなくなった身としては自信がない、そう思ってしまう時点で私は生きる覚悟もなく、シルワ嬢に相応しくなかったのだろう、でも、テーラのパンを美味しそうに頬張るのを見ていると、幸せな気持ちになる、妹が出来たみたいだ」


 シルワ曰く。


「わたくしの元婚約者について、いつも面会の茶の席で見ていたお姿からは想像出来ないような面を知ることが出来ました、幼馴染の女性に対してはこんなにも言葉遣いが違うだなんて……意外だったのですけれど、でも、そう思ってしまうということは、わたくしがそれだけ世間知らずなのです……お相手がテーラお姉様ならこうなるのも当然ですわね、それもまたサフィルス様の魅力の一つで、とてもお可愛らしいと思いますわ」


 出された結論は、要は二人とも可愛いということだ。


 さて、私の新作のパンが二つとも「彩浪亭」に出ることになるとは思わなかった。話しながら試食をしている時に、仕込みの為にと両親が厨房へ戻ってきたのだ。そこで母は私が焼いた平パンに手を出し、父はサフィルスに絡み、二人揃って食べかけのパンを片手に、口をもぐもぐさせているシルワにご挨拶をし、もう少し塩気が欲しいがこれは美味しい、明後日から出そうかと母が言い、父も頷き、甘露煮パンの存在に気付かれ。


「上品でいい香り付けするじゃない、最高よ、テーラ! 明日から早速サフィルス君も戦力になるから、二つぐらい新しく出しても大丈夫ね、やっちゃいましょう、イーグニス」


 母は甘露煮パンを嬉しそうに頬張りながら父に打診を投げ、父は一回頷いて、全てが決まった。


「あの、旦那様!」


 と、そこで父に向かって突然声を上げたのがシルワである。


「どうなさいましたかな、シルワ様?」


「わたくしのような年端もいかぬ娘に向かって、敬称などつけて戴かなくて構いませんのに……あの、至らぬ考えだということは存じておりますが、わたくし、ここで働かせて戴きたく思います」


「……ほう、またどうしてそうお考えになったのです、シルワ嬢?」


 言葉すら出ないサフィルスが一つしかない目を剥いた、その傍らで、話は進んでいく。


「テーラお姉様は、仕込みも勘定もなさっておいでです、その上、南街区の有名な酒場との取引にも応じているとお聞きしました」


「ああ、あの「竜の角」のことだね」


「ええ、従って、テーラお姉様が倒れてしまうこともあり得ます」


「……サフィルス君が明日から来てくれることになっているけれど、そこは加味してもいいのではないかな?」


「旦那様も奥様も、仕込みを専門にされていらっしゃるのですわよね」


「それはその通りだけれどね」


 父は腕を組んだ。シルワの言わんとしていることを早くも汲み取ったらしい。彼女はそこで、別の方向に矛先を向けた。


「時に、サフィルス様」


「……えっ、私?」


 それまで呆然と成り行きを見守っていた彼は、突然投げられた言葉に吃驚して何度も目を瞬く。


「あなた様は、勘定台の前に立つ予定はございますか?」


「……勘定台は、私には無理だろう、計算が出来ないわけではないけれど」


 サフィルスはやや厳しい表情になって、顎に右手を当てた。


「サフィルス様のお心を以てなさるのであれば必ずうまくいくと思うのですが」


「シルワ嬢の言葉は有り難いのだけれどね、私が慣れるだけでは意味がないよ、何せ、この顔だからね……それもあって、旦那様には仕込みだけという話も先程お通ししたところだ」


「だそうですわ、旦那様」


「……うん、間違いはない」


 父は思わせぶりな顔で右の口角を上げる。シルワが何かに気付いたように一度だけ瞬きをして、含みのある笑みをその可憐な口元に浮かべた。この流れは、二人ともが腹の底の真意に気付いて、その上で何かを企んでいるに違いない。


「ところで旦那様、血や家は存在すれど、貴族という立場は、シルディアナにはもうございません」


「皆人全て平等に国民であるという新しい法のことだな、噂には聞き及んでいるけれど」


「ええ、そういうわけで、シレンティウムの家は、財となる筈の杖貴族の地位をシルディアナに返還してしまったのです、婚約者様から戴いた素敵な結婚支度の品の数々も、これから始まる新たな国の為ということで、お父様が国庫に入れてしまわれて、わたくしもその選択が国の未来にとって間違っているかと問われれば何も言えず、申し訳も立たず、わたくしどもシレンティウムから婚約破棄を……」


 彼女の表情は翳りを帯び、サフィルスがそうだったのか、と沈痛な面持ちで囁いた。家には家の事情がある、そこに気付けなかった自身を責めている表情だが、彼は一人でその悩みも完結させた。


「矜持故、か」


「ええ、サフィルス様……シレンティウムの者は精霊を呼ぶ力を持ちません、出来ることは己の腕と頭を使うことのみです」


「剣も免許も手放した私と状況は同じということか」


「テーラ様がいらっしゃるサフィルス様はとても幸運なお方ですわ、わたくしどもの友人は皆杖貴族ばかりで、相談出来る者が誰も居りませんでしたから」


 私は、恥じ入るような表情となった彼の頭を取り敢えず撫でておいた。シルワの家の者が言いたがらなかったのならば、このようなシレンティウム家の状況を直接知らなくても仕方ない。おそらくサフィルスのことだから薄々察するか、或いは人の噂から推測したのか、そういうものもあるのかもしれない。そして、納得のいかない想いを抱えながら、私に会いに来たのかもしれない。そこは彼の心しか知らない彼の気持ちなので、推し量るだけ私が野暮なのかもしれない。


 その前に、元からただの市民でパン屋の娘であった私には、貴族のことなどあまりわからないのだ。わかることといえば、近所に住んでいる幼馴染が宮殿の近衛兵になって、度々店先で会っていた、一家が水使いで、姉の家出先が反乱軍だった、程度である。彼の口から聞いたのは、彼自身の立場と状況と想いだけだったのではなかったか。ランケイアの家がどうなるのかなんて、そういえば、彼は一切何も言わなかった。


 突然、彼らの心が遠くなったような気がした、私のいる場所から。


 何だか悔しくなって太陽の色をした彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜると、何、という柔らかな抗議の声が苦笑と共に隣から聞こえてきて、腕をそっと捕らえられ、ぎゅっと握られ、手の甲を撫でられた。何だ、その優しい手つきは。


 シルワは私達の方を向いて少し微笑んでから、話を続ける。


「屋敷はそのままですが、お父様とお母様も自ら新たな職に就き、わたくし自身も働いて、財を成していかねばならぬ状況となってまいりました、蓄えが尽きる前に何とかせねばと考えておりましたが、お父様が過保護でなかなか許してくれず……それならば「彩浪亭」の素敵な方々となら、と、本日テーラ様とお話をして感じ、わたくしの状況についても全てをお話しして、納得のいく理由を出さねばならない、と、思った次第ですわ……サフィルス様に関しても、わたくしの今の事情をお伝えし、知って戴くことによって――家同士の面子がございますから婚約や婚姻が出来るとはもう考えておりませんが、新たな善き関係を築くつもりで、ここに参りましたのですし」


「よし」


 と、黙って聴いていた父が頷いた。


「そこのランケイアのせがれよりも論理的でしっかりしているな、採用!」


「旦那様!?」


 サフィルスが私の手を放り出して悲鳴を上げた。酷いと言いたいのだろう、だがまあ、そこは場を明るくしたいお茶目な父の犠牲となって欲しいと思う、後で彼の顔を胸にいざなってやろうとひそかに決意した。


「おそらく明日、お父様――シレンティウムの当主が参りますが、構いませんか? 勿論、わたくしの方から必ず説得は致しますから」


「色々準備しておきましょう」


「ありがとうございます、サルヴァティオの旦那様……イーグニス様」


 シルワは花咲く笑顔を父に向け、私のすぐ隣に立ち、美しい所作で礼を述べた。顔を下げた時に小声でそっと呟かれた彼女の言葉に関しては、聞かなかった振りをしておこうと思う。


「ええ、決してテーラお姉様の試作品のおこぼれに与りたいというわけではございません」


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