7


 ひとつ焼くは屋根、

 二つ焼くは壁、

 三つ焼くは器、

 四つ焼くは糧。


 私達は敬語を取り払って歌いながら厨房をくるくる行き来した。


「テーラお姉様、火魔石の準備が整いましたわ」


「ありがとう、そこはそのまま置いておいていいから、甘露煮を流し込むの、やってみる?」


「いいのですか? 是非、わたくしも!」


 五つ焼くは敵、

 六つ焼くは骸、

 七つ焼くは魂、

 八つ焼くは大精霊の思し召し。


 シルワの歌声は想像以上に美しかった。私の声に合わせてぴったり寄り添うように別の旋律を歌いあげるその喉は、見事な声量を途切れることなく披露してくれている。それでいて作業が一切滞らないのが素晴らしい。


「うう、生地の後ろからはみ出てしまいます」


「私みたいに後ろを先に潰してしまうといい具合になるからね、シルワ嬢」


「はい、頑張ります……先に、こう、ぎゅっと」


 君と共に歩む道、

 君を守り歩む道、

 君を喪い歩む道、

 また先で出会う道。


 共にパンを作るにあたって敬称を取って欲しい、という彼女の主張が、そもそもの発端だった。聞けば、サフィルスが彼女を「シルワ嬢」と呼んでいたらしいので、私も倣ってみることにした。そうしたら自分がお姉様と呼ばれることになった。妹ってこんな感じなのだろうかと考えながら、厨房に充満し始める麦の焼ける香りを胸いっぱいに吸い込む。幸せだ。


「出来ましたわ!」


「シルワ嬢、とても綺麗な出来ね、素晴らしいわ、じゃあ焼きましょう」


「うふふ、テーラお姉様に褒められるなんて、嬉しいです……」


 共に焼くは命、

 友を焼くは命、

 糧を焼くは命、

 竈焼くは我が道。


 時刻板を見れば、先程から丁度四半刻が経っていた。先程竈に入れたパンはどうなっただろう?


「そうだ、先程私が竈に入れたパンが焼き上がっている筈だから、まずはそれを出しましょうか」


「ああ、楽しみです!」


「さあて、どんな風になっているかしら、と」


 竈の脇に引っ掛けられた取っ手付きのシヴォライト鋼板を手に持ち、外開きの竈の蓋を開ける。熱気が顔に押し寄せてきてうっかりむせ込みそうになったが、その直後、チーズの焼ける香りが、腸詰や加工牛肉の香ばしさ、珊瑚樹の実や鐘胡椒の実の新鮮さと一緒に鼻腔を直撃してきた。


 ぐつぐつと音を立てて沸騰するチーズが、何より暴力的な程に、ああ、香ばしい。


 これはたまらない。腹が鳴った。


 華奢な筈のシルワが私の肩を力強く揺さぶってきた。


「お姉様、お姉様!」


「……わかっているわ、シルワ嬢、落ち着きましょう」


「なんとまあ、罪深いものをお作りになりましたわね、よくも、お姉様はよくも……ああ」


「シルワ嬢、甘露煮パンもあるのよ」


「そうでしたわ、あああああ……」


 彼女、先程林檎のパイとグラン・フィークスのパンを食べておいて、何たる様であろうか。そのまま厨房の床に座り込んでしまった華奢な体を支えようと手を伸ばした瞬間、裏口に通ずる扉が音を立てた。


「テーラ、いるよね? 旦那様と色々――」


 そこをゆっくり開けて入ってきたのは、サフィルス。その声が言いかけていた父と色々の後は気になるけれど、彼は完全に扉の所で固まってしまっていた。


「シ、シルワ嬢……?」


「……帰っていなかったのね、サフィ?」


「……え、あ、休憩場所に、君のご両親といたのだけれど、ねえ、何でシルワ嬢がここに?」


「ああ、じゃあ、歌も聞こえていたかな……」


「そりゃあ聞いていたけど二人分聞こえておかしいなとは思っていた、君の友人かなとは思っていたけれど、って、今はそうではなくて……ねえ、何故かな、テーラ?」


 彼の声色が、近衛兵の仕事に浸りすぎて抜けきらない時に喧嘩した瞬間のような詰問口調になってきている。納得がいっていない証拠だ。


「え、何で、って、一緒にパンを作っていたから」


「いや、どういう流れでそうなったというのかな……?」


「あ、あの!」


 正気に戻ったシルワが勢い良く立ち上がった。彼女を支える必要がなくなった私も、取り敢えずちゃんと立つことにした。そして、竈の中をこのままにしておいてはいけないことに気付いた、じきに焦げてしまう。


「暫く振りにございます、サフィルス様……今日はわたくし、あなたにお会いしたくて」


「……私に、何故?」


 耳だけを、成される会話に向けながら、手に持ったシヴォライト板をパンの下に敷いた油紙の更に下に上手く滑らせ、一気に取り出す。それを片手で掲げ、片付いた厨房の机の上に大きめの皿を出し、その上に焼き上がったパンを置いた。平パンと呼ぼう、ぐつぐつといい音がする。一方のサフィルスは固い声音を出している。


「謝罪を申し上げたくて……わたくしは、あなた様を酷く傷付けてしまいました」


「……どうしてあの時ではなかったのか、訊いても構わないということで宜しいか?」


 私は鈍い切れ味のなまくらナイフを手に取った。円形を半分、また半分にして更に半分、皿の上から八等分。ところで、今の彼は気に入らないものを十等分ぐらいにしてしまいたいのではないか。いや、乱切りか。


 声を上げたシルワが宥めてくれるのではないかと思って竈に意識をやっていたのだが、そうやってさりげなく頼ったのは間違いだったかもしれない――まずいと感じてちらりと見れば、彼女が今にも泣きそうな表情になっている。


 私は今しがた切ったパンの一切れを手に取った。指先が熱いが致し方ない、最終手段だ。


「君が言う傷付いた私がここに居ると知って、ここに来て、テーラと仲良くなって、楽しそうな姿を傷付いているであろう私に見せることになるとはよもや考えていなかったと?」


 彼の声がどんどん、冷たく哀しい怒りを帯びていく。


「そんな、そんなつもりは――」


「つもりがなくても実際にそうなった場合については考えていなかっ――あっ、あっつ!」


 これ以上言わせてはいけない、私はサフィルスの口に焼きたて平パンを突っ込んだ。


「熱い、ちょっと、テーラ!」


 彼は熱さの衝撃で平パンを齧り損ね、口からこぼし、それを手で受け止めた。


「落ち着きなさい、サフィルス」


「これが落ち着いて、あっつ、いられるわけがない、あっつ! 手も火傷したじゃないか!」


「はい、お皿」


「流石に酷くないか、テーラ? 君と僕の仲じゃないの?」


 幾ら沸騰したチーズのように口内で荒れるが如く激昂しようとも、元の育ちが良いので、彼はつとめて上品に、私が差し出した皿の上に受け止めた平パンを置いた。その手が所々赤くなっている、しまった、火傷を増やしてしまった。


「あんたと私の仲だから、よ……これ以上余計なこと言って、もっと傷付いてどうするの、馬鹿じゃないの、サフィ」


 私が捲し立てれば、サフィルスが何かに気付いたようにはっとした表情になった。すぐそこに置いてある水気を吸った清潔な布巾を引っ掴み、彼の両手をとって、そっとくるむ。


「でもごめんね、火傷増やしちゃった」


「……いや、いいよ、これくらいなら兄上や姉上がいなくても」


 言うが早いか、彼の手から蒼の燐光が迸り、はずみで水の精霊が二つ三つ生まれてから布巾の下へと吸い込まれて消える。思わず瞬きをして濡れた布巾を取れば、赤い痕は綺麗さっぱり消えてなくなっていた。


「――私にだって無詠唱で治療出来るからね」


「流石ね、サフィ」


 しかし、サフィルスは俯いたまま笑みもせず。


「……私ではなく水の力をひいた血の為せる技だし、血の恩恵を受けていても、私は弱い」


「でも近衛騎士にまでなったでしょう」


「もう剣や槍は握れない」


「でも私に何か報告しようとして戻ってきたのだから、父さん直伝のうちの仕込みは取り敢えず終えることが出来たのでしょう?」


 私が訊くと、彼は幼子のように頷いた。


「……うん」


「そういえば、さっき入ってきた時、何を言おうとしたの?」


「そうだ、旦那様と色々話した結果、明日の昼の一刻からここに来て欲しいと言われたからね、来ることになった、と伝えたかった」


「えっ、凄いわね、サフィ」


「……どうして?」


 それは「彩浪亭」が今現在、家族だけで運営されている理由にある。


「今まで「彩浪亭」で修業したい、厨房で働きたいって言って来る人、結構いたのよ、でも、父さんが厨房に連れ込んでからもう一回ここに来た人、いないもの……大抵、私に向かって働きたいっていう話を持ってくるから、その都度新しい人が来ると思って顔を覚えようとしていたのだけれど、二回同じ顔を見たことないから……ねえ、念のために訊くけど、父さん、サフィに対して何か酷いことした?」


「いいや、粉と水の分量、生地の捏ね方、火魔石の個数と竈の熱し具合、厨房の備品の使い方、床にものを置かない、夜の一刻に一旦終わって休憩、仕込み時間は夜の三の刻までには終わる、そこから夜十刻までは休息、朝は昼一刻に来る、開店時間は昼二刻、昼休憩は昼五から昼六まで、四日に一日は休み、最後に給料の話ぐらいしかしていないよ」


「……うん、働きたいって言う人が来る度に毎回父さんから聞く話と完全に一緒だわ、多すぎるから削らないと新しい人が来てくれないよ、とは言うけれどね、いつも」


 多すぎるという言葉を聞いた瞬間、サフィルスの右目が瞬いた。


「えっ、これで多かったのかい?」


「だから、それを出来るあんたが凄いっていう話……しかもちゃんと全部覚えているしね」


「……近衛騎士の時はもっと凄かったよ?」


「いや、それと比べちゃ駄目でしょ? 兎に角、あんたはそこらのパン職人見習いと比べたら遥かに優秀だったっていうわけよ」


 彼はまだ納得のいった表情ではなかったが、取り敢えず頷いた。


「……そう、なのかな」


「そうなの、さあ、落ち着いたところで、何か言うことがあると思うのだけれど、サフィ?」


 私はそこでシルワを振り向いた。先程の泣きそうな表情から一転して、呆気にとられた表情をしている。


「シルワ嬢」


 サフィルスが向き合えば、彼女の焦点の合っていない目に光が宿ると同時に、身体がぶるっと震えた。正気に戻ったらしい。


「……はい」


「……私から、先程の失礼をお詫びする、婚約というあなたとの縁が切れた今、あなたが誰とどう過ごそうと、私がそれを恨むのは筋違い、おかしな話だった、私の未熟さが成せる業だ」


「頂戴致しました、わたくしからも……サフィルス様のお気持ちなど考えず、わたくし自身があなた様に謝罪をして楽になりたかっただけなのです、そのような愛なき見せかけの優しさなど、同情などよりも強く心を蝕む毒となりましょう」


「頂戴した……それでは、私は、シルワ・シレンティウムに愛ある優しさと真の想いを」


「それでは、わたくしは、サフィルス・ランケイアに理の道と真の想いを」


「ここにて結ぶ」


「ここにて結びます」


 同時に両手で三角を作って視線を交わしながら謝罪の印を結ぶ高貴なる者同士の姿は、世の画家全てが描きたいと願う光景に違いない……サフィルスの顔の左半分が荒れていようとも、私は夜の帳に並び立つ二つの影を美しいと感じた。茜の消えた空に星が瞬き、すぐ近くの火魔石の街灯は火精霊を纏って煌々と輝いている。外の街灯や竈から漏れる光だけでは心もとないので、私は厨房の灯りをそっとつけた。机の上に乗っている焼けたばかりの平パンとこれから焼く甘露煮パンが照らし出される。竈をもう一度稼働させねばならないことを思い出した。


 さあ、平パンが冷める前に。私は、紙の上で焼く準備を整えた甘露煮パンをシヴォライト板に手早く乗せ、竈の蓋を開け放つ。板ごと中に押し込んで蓋を閉め、また四半刻ほど待てばそれでよい。


「二人とも、食べましょうか、私の新作」


 私が呼び掛けると、サフィルスもシルワも、髪が跳ねるほど勢い良くこちらを振り返った。


「食べる!」


「是非!」


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