第5話

 冷たい感触で目を覚ました。ぱっと目を開くと先輩の顔があって、思わず驚いた。

「おはよう。びっくりした?」

 先輩の息がかかる。ミントの涼しい香りがした。呼吸の音が耳に聞こえる。そういう距離だった。過去の習慣に根差して今や形だけとはいえ、その息の穏やかな調子は、動揺した心に少しずつ平静をもたらしてくれる。顎にかかる先輩の髪がくすぐったい。

 先輩はベッドの端に腰かけた状態から身体を俺の顔の方へと向け、さながら熱の具合を測るようにして俺の顔を覗き込んでいるらしかった。別段苦しい姿勢では無さそうで、横向きに寝転がった状態から上半身を起こした格好にも似ている。ベッドに収まらない両足はその身体の向きに従い左足を下に、膝頭を合わせるようにして折り曲げられていた。人魚像を思い出しもしたが、主観を大いに交えて言うなら、先輩の方がずっと可憐だった。先輩の右手は俺の頬に添えられているため、ベッドに突かれた左手がその身体を支えているのだが、俺はその左腕と先輩の胴との間に挟まれ、どうにも身体の動かしようがなかった。

「……おはようございます」

 ぼそぼそした声が出た。朝一番の発声だからか、この近さだからかは定かではない。視線を先輩の瞳に注ぎながら、左頬の感触へ手を重ねる。俺を眠りの世界から抱き寄せたその手は、相も変わらず儚く小さい。

 しばしこの目でその目を見つめる。どうして先輩は俺の顔をなおも覗き込んでいるのか。挨拶は当に済んだ。今日は平日。講義がある。起床せねばならない。ならばこの時間はなんなのか。分からなかった。しかしなんだか時が凍っているような気がした。二人してこの姿のまま、時の琥珀に閉ざされたかのような感覚があった。樹液の中で永遠になった琥珀の蟻。時計の針の音がする。先輩の呼吸みたいに。

 突然ぷふと先輩が吹き出した。これまた急なことで理解が追いつかない。現実へと放り出され、空間が一斉に意識を取り戻す。

「あなた、にらめっこ強いのね」

 にらめっこ。

 そう言って先輩は顔を離した。ベッドから立ち上がり、四角のローテーブルを挟んで反対側の戸を開け、キッチンへと向かっていった。戸は開け放されたままだが、それは先輩が朝食を手に再びこの部屋へ戻ってくるためである。

 俺はなんだか呆然としてしまって、それでも身体を動かさなければ床に就いているのと変わらないような気がして、ひとまず窓外へ向け首を転がした。空は朦朧とした雲を一面に敷き詰めている。曇り。曖昧模糊な空の表情。そのくすんだキャンバスに先輩の顔を思い描いてみる。にらめっこする先輩。頬を膨らませてみたり、目を指でつり上げてみたりする先輩。笑って負けて勝って笑う先輩。俺は一人小さく笑った。先輩は俺がにらめっこに強いと言ったものの、本当は勝負にならないぐらい弱いはずだ。違うな、これは先輩だからであって、つまるところ俺は先輩に弱いのだ。

 がばと上半身を起こした。あまり寝ぼけたことも言っていられない。さながら砂糖漬けにされたかのような思考回路だ。これでも未だ幸福に溺れることへの危機感はある。

 そこでふと気がつく。琥珀とはこのことだろうか。俺は琥珀の蟻なのか。先輩は現世うつしよに溢れた蜜で、俺はそれを舐める蟻。――そんな砂糖にまみれた突飛な妄想が浮かぶこと、その妄想があながち間違いでもないように感ぜられること、それは間違いなく幸福者の厄介なところだった。

 そうしている内に先輩が朝食を運んできてくれた。先輩手製のフレンチトースト、それとサラダ、コンソメスープ。先輩には人の心が読めたものだろうか。蜂蜜がかったトーストへ問うたが、無論答えは返ってこない。

「今度は何とにらめっこ?」

 今朝は先輩がよく笑う。

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愛と遺骸と うなかん @unakan

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