15-2
不思議なことがもう一つ起きた。レシュアの周囲からアンチアイテルが消えたのである。メイルの心臓がそうさせたのか、レシュアが弱っていただけなのかは未だにはっきりしていない。いち早く気づいたシンクはレシュアにアイテル止血を施してみた。すると効果はすぐに現れた。
彼女の胸に傷を作らせまいとする彼の意思が働いたのだと思った。その後レシュアの身体はみるみるうちに回復し今も穏やかな寝息を立てている。彼の思い描いた未来が見事に結実したのだ。
キャジュはメイルの施術が終わってからもずっと取り乱していた。彼の身体は超人的な回復力で大きく開かれたものをあっという間に塞ぎ、一見すると成功したかのように見えた。ところがキャジュにはそう感じなかった。傷がなくなったことで痛みを感じなくなったであろうメイルの様子がおかしいと言い出したのだ。
口、目、耳を封じていた布を取り除いて彼に直接身体の状態を尋ねたが、一向に反応を示さなかった。目は開いているし呼吸もしている。顔色も悪くない。それなのに、彼はキャジュの問いかけを無視して虚空を眺めるばかりだった。
私が声をかけても反応を示す様子はない。再度全身をくまなく調べて異常のないことが分かると、まるで抜け殻のように静止した彼を見つめていたキャジュがとうとう正気を失ってしまった。
顔を近づけて何度も彼の名を叫び、塞がったばかりの胸を揺らし、頬を叩き、首元に顔をうずめて泣き叫んだ。命を捨てる覚悟でその身を犠牲にした男を守れなかった彼女の悔しさが痛いほど伝わってきた。
彼がいなくなる。
そんな未来を想像すると、寂しい気持ちが波のような勢いで押し寄せてきて、仮面の中がしゃくり上げた。
医療室内に悲しみの声が響いてから数分後、キャジュはなにかに気づいたような顔をして急に泣き止んだ。彼の口元に耳を近づけてなにかを聞こうとしているみたいだった。
私にも聞こえた。彼はなにかを言っているようだった。
キャジュは激しい口調でもっと大きな声を出すように要求した。
そして、彼は言葉を口にした。
「……お……の…………か……」
「なんだ! もう一度言ってくれ!」
「……おれ……ん……せ……」
「ほら、もう少しだ! 頑張れ!!」
「……おれの、」
「俺の、なんなんだ!!」
「……おれの、しんぞうを、かえせ……」
「え?」
「おれのおおおおお!! しんぞうおおおおお!! かえせえええええ!!」
「……メ、メイ、ル?」
「おれのしんぞう。かえせ。しんぞうおれのだそれはおれのだはやくかえせすぐにかえせよおまえがもってるのかだったらすぐにかえせよそれはおれのしんぞうだはやくしろそれはおれのものだいいからはやくしんぞうをよこせはやくしろおおおおおおおおおお!!」
突然暴れ出したメイルからキャジュを強引に引き剥がした。対応が早かったので彼女に怪我はなかった。
そこにいる誰もが彼の言葉に混乱した。なにが起きているのか、どんな事実を飲み込めばいいのか、この私でも理解することはできなかった。
冗談ではないようだった。彼の行動が本心からのものであることを認めれば認めるほど、嘘であって欲しいと願わずにはいられなかった。
キャジュは悲しみを通り越したなにかを全身の震えで訴えていた。人間の理性が崩壊した目で睨みつけるメイルを見ていられなくなったのか、私の胸に顔うずめてまた泣いた。
この状況を収拾するための方法が思い浮かばなかったのでシンクに相談してみると、おそらく拒絶反応の一種だろうからしばらく様子を観察してみようという答えが返ってきた。さらにシンクは、レシュアと場所を離しておいたほうが健全だろうという提案を出した。私もそれに賛成した。
まず彼にもう一度口と目と耳を封じる処理を施した。そして身体に異常がないことをあらためて確認し、彼の住居に移してひとまず経過を見守ることになった。
私とキャジュで倉庫へ寝台を移動している途中で、キャジュがいきなり彼の身の回りの世話をすると言い出した。あの精神状態の彼をしっかり管理できるか分からなかったので一度断ったが、どうやら彼女の意志は固いらしく、彼の胸の機械を点検できるのは自分だけだからとあれこれ言われて押し通されてしまった。
それとスクネの件についてもキャジュのほうでうまく対応するということなので、彼女以外の人間を立ち入らせないようにしてくれとも頼まれた。さすがにそれは受け入れられなかったので、私だけはいつでも入室できるようにと渋々了承させた。
……そして私は今、冷めた黒い液体の横でさめざめと泣いていたのであった。
「レインさん。あなたらしくないですよ」
「ほっといてよ。いいじゃない、泣いたって」
「気持ちは分かります。ですが、そろそろ来る時間だと思いますので、一応、その報告です」
「この期に及んで気丈に接しろというのね。ほんと、鬼だわ」
「まさかメシアス君のこと話すつもりなんですか?」
「話してしまったら都合が悪いことでもあるの? 私は全くないけれど」
「駄目ですよ。レシュアさんの耳に入るようなことだけはなんとしてでも避けないといけません」
「第三要塞、叩くのだったわね。いろいろありすぎて忘れちゃってたわ。そうね、あれにはレシュアを連れて行けなくなったのよね。……そうだ! シンク、あなたが参加しなさいよ」
「どさくさ紛れになに言い出すんですか。やめてくださいよ。僕には荷が重すぎますって」
「あら、だって最近新しい武器作ったじゃない。それ持っていけばなんとかなるわよ。いいわ、私からも推薦しておくから。じゃ、そういうことでよろしく」
「簡単に決めないでくださいよ。僕がここを抜けたら誰が彼らのことを見るんですか。今が一番慎重な時期なんですよ」
「だったら襲撃の予定を変えればいいじゃない。私だっておいそれとあちこち振り回されたくはないわ。ああ、そうね、少しお休みをいただきたいわ。どうかしら?」
「ほんと、あなたには勝てませんよ。分かりました。行きますよ。頑張らせてもらいますよ。でもですね、お休みは無理ですから。これだけははっきり言わせてもらいます」
「ふーん。つまんないの」
「あなたは駄々っ子ですか。もう、お願いしますよ」
「だって、シンクが私のこと、らしくないなんて言うんだもん」
「甘えたってお休みはありませんからね」
「はいはい。分かりましたよーだ」
「……やっとあなたらしくなりましたね。少しは元気になりましたか?」
「ああ、あー。このやろう私を騙したなー。酷いやつだー」
「あなたのためを思ってのことです。それと、お客様はすぐそこまで来ていますので、お願いですからその口調だけは直しておいてくださいね」
「はーい」
シンクの気配りがなかったら今も泣いていたと思う。それほどに自分は弱い人間だった。
この『時代』人達は本当に強い。
今日はそんなことを実感させられる日になりそうだった。
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