僕は誰だ?
【第6区 『Calme』】
「アーニーってば、何も注文しないんならせめて店を手伝ってくれない?」
「んー、やだ」
夕方頃、窓側の席に座ったアーネストの顔が赤く染まっている。
あれからアーネストはずっと『Calme』に来て、こうして座って窓の外を眺めるだけだった。いつもよりも早くに閉店準備を始めた茶房に手伝って欲しいと言われるが、アーネストは軽く手を振って断った。アーネストには何か考え事があるのだろうと、茶房は強くは言えなかったが……アーネストがこうも考え込むのは珍しかった。いつもなら、途中で飽きたとか何とか言って他の興味の引くものを探しに行くだろう。そんな飽き性だからこそ、アーネストはこれまで様々な趣味を持ったわけだ。最近の趣味は「どれだけ部屋を散らかして生活できるかを試す」だったか。まあそれ以前から部屋は片付けることができない人ではあったが。何せここ数年で彼の趣味はおかしなものが増えた。そろそろネタが尽きてきたのだろう。だから、こうやってずっと考え込むアーネストを見ると新鮮な気持ちになれた。10年以上一緒にいて、アーネストがこうなるのを見るのは2度目だ。
「もう…別に良いんだけどね。アーネスト、準備できるまで大人しくしていてよ?」
「キミは僕のことをなんだと思っているんだい?」
「手の掛かる人」
「はいはい」
いつの間にかアーネストの口には煙草が咥えられている。それを見て、今日の試食会に招待した人達の中には何人か喫煙者もいるだろうから、芳香剤なんかを用意したほうがいいと頭の隅に置くことにした。さて、サリョはどうしようか。あの子は未成年でもあるし、いつものように2階で待機してもらうのが1番ではあるが、いつも参加したそうにこちらを見るサリョを見ると、どうしても参加させてあげたい気にもなる。今回は喫煙者達には遠慮と言うものを覚えてもらおうか?と、テーブルを丁寧に拭いているサリョを見て考える。
そうこうしている内に、店の中を照らすのは店の電気だけになっていた。まだ秋が始まって少ししか入っていないが、夏に比べるとだいぶ日が落ちるのが早くなった。
「茶房、来たぞ!」
「お、ヤギ。もう来たのか? ラトは?」
「局長に早く終わらせてもらったよ。ラトは
「なるほど来れない訳だ」
ラトウィッジの仕事については深く聞かない。彼が郵便局員を辞めてから、一切仕事の内容については聞くことはしなかった。それが自分の身を守る手段であり、ラトウィッジにとってもそうすることが1番安心することができる。昔は誰よりも近しい存在であった幼馴染が、今では遠くの存在のようだ。今日、ラトウィッジが来れなくなってしまったことを残念に思いながら、茶房は厨房で試作品の準備に取り掛かる。しかし、はて。アーネストはいつも間に寝てしまったのだろう?気が付いたらアーネストは机に突っ伏していた。
────────────
中学2年生の頃、唯一の肉親であった祖母が死んだ。厳しい人ではあったが、それでも自分のことを大切に思ってくれる優しい人だった。
祖母が言うには、父と母は自分が5つの頃に亡くなったらしい。らしい、というのは自分にその頃の記憶が一切ないためである。だからずっと祖母と暮らしてきた。祖母はいつでも母親代わりだ。それを嫌だとは思ったことはない。ただ、1度だけ祖母に我儘を言ったことがある。祖母にはどうしたってできないこと、その
「僕は…」
どうするべきなのだろうか?アンリはただ、ぼうっと第6区をさ迷う。
自分がエドゥアールであることは、実を言うともう随分前から気が付いていた。それを知らないふりをして、「僕はそんな人間ではない」「僕は誰かのために何かをする人間だ」「僕の中に悪は無い」とそう思い込んで生きてきた。
初めて自分の中に誰かがいることに気が付いたのは、中学1年生の時。声が聞こえた。聞き覚えのあるようで無い声だ。当たり前だ、それは自分の声なのだから。そいつの声は気が付いたら耳に届いた。初めは「ああしろ、こうしろ」といった命令だ。その通りにしていれば、大体のことは上手くいっていた。たまに相談にものっていてくれた彼に対して、自分中にまるで兄弟がいるかのようだと思い、アンリにとってはとても心強かった。その様子が変わってきたのはその後すぐのことだった。
まず初めに、学校で飼っていたうさぎが撲殺された。犯人は結局わからず終いだったが、その前日にアンリの着ていた制服に、身に覚えのない血が数滴付いていた。その次からは他の事件がアンリの身近な所で次々と起こった。そして、それが自分の中の誰かの仕業であることに気が付いてしまった。彼のたった一言、事件のことを記した新聞を見ている時「もっとやりたかった」と頭の中で響いたことで、アンリは全てわかった。だからこそ、忘れた。彼のことを忘れるために、彼とは決別するために、"良い人"として振舞ってきた。
「………」
アーネストはどうしてそのことを知っていたのだろう。足を止めたアンリは、俯いていた顔を上げる。彼は恐らく最初から
こんな時、どうすればいいのだろう。結局答えは見つからないままだ。それでもどうにかしないと、アンリの心の平穏は保たれない。自分に悪の側面があることを知り、現実逃避した自分のことだ、きっとまたろくなことをしかねない。それを知っていたから、アーネストは今まで黙っていたのでは?アンリは足を止める。いや、だったらそもそもあんなにヒントを出すようなことはしないか。アーネストが教えた「ジキル博士とハイド氏」は、アンリがエドゥアールのこと思い出すための決定打となっている。
──しっかりとしなければ、さっきだって自分の不注意で人にぶつかってしまったではないか。
──別にいいじゃないか。そんなもの俺がどうにかしてやるさ。
──僕はもっと頑張らないといけないんだ。
──そんなことはない。だからそう気を張るな。
──僕は誰だ?
──ただの傷付くのが怖いヘタレ野郎だよ!
──違うそんな答えが欲しいわけではない!
僕は誰だ?
僕は誰だ?
僕は誰だ?
僕は誰だ?
僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は誰だ?僕は───!?
アンリに見えたのはアーネストの後ろ姿だった。もちろん、そこにアーネストがいたわけではない。でもこんな時、きっと助けてくれるのはアーネストだと、アンリは確信していた……いや、確信してしまった。アーネストに1度頼れば、きっと次もアーネストに頼ってしまうはずだ。彼はそんな人間を甘やかすような人ではないし、もっとアンリが思い悩むことも増えるだろう。それでも自分はもう、"アーネスト"という選択肢しか見えなくなっていた。
確かに自分はヘタレだ。自分で選択することも、選択肢を増やすこともできない、そんな人間だ。だから僕は僕という存在のために、あの人の元へ行こう。僕は、歩いてたいのだから。知りたいのだから。
そんなアンリを月が照らす。もうすっかり夜だ。
「ふむ、これならば連絡する必要もないか」
その上の窓からアンリを観察していたのは、何もかもがアンバランスな少年であった。大人用のスーツを着て、しかし靴とズボンは彼のサイズにピッタリだ。少年……いや、少年と判断するには材料が足りない。まだ、子供…それも小学生、少なくても低学年であるであろう子供は、顔がまだ男と女がはっきりしない。だが、子供はきっと男だ。ひと目でそう判断させる何かを子供は持っていた。
「アーネストの奴を精々楽しませてくれればいいさ。全く、魔女めこれ以上俺の仕事を増やすんじゃあないぞ……俺は身体を動かすのは嫌いなんだ」
ぶつくさと文句を垂れる彼の名はリエゾン。魔女や、その身の回りの人々の連絡係である。リエゾンは窓から身を引くと、建物の中から姿を消した。
──次は…第1区の方か。
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