祝砲
類を見ない晴れやかな陽光が差し、境川の河岸は多くの市民で賑わっている。立秋を過ぎたとは言え気温は摂氏三十度を超える真夏日で、安物の混紡の礼服は不必要に黒に染められているせいか茹だるように暑い。薄く広がる青空の彼方には入道雲が生き物のようにうねり、通り過ぎる自動車や路面電車の煤煙もさして気にはならなかった。
河岸の来賓たちは祝紙――色とりどりの薄紙を小さく刻んだもの――を思い思いに蒔く。赤、緑、白などの鮮やかで暖かい色彩が灰色の川面を飾った。
何となく、煙草が吸いたくなった。
「国家基準三級」と大きく書かれた煙草の箱から細くて短い小さな一本を取り出し、掌に収まらないほど大きな
友人の結婚式とは言え、改まった雰囲気は本当に苦手で出来れば遠慮したかった。だが、人間仕事をしていれば、あまつさえ役人などという因果な稼業であればなおさら、こういった会合を避けることは出来ない。それに、本音を言えば祝いたくない訳では全くなく、むしろ祝福すべきだとも思う。だからといって結婚式に行きたいわけではないのだが。
結婚するという報せを聞いて、つくづく運のいい男だ、と率直に思った。浦安で生まれ、浦安で育ち、地元の國立大学を優秀な成績で卒業し、地元の市役所で働き、そのまま結婚。とても運がいい。なろうと思ってなれる人生ではないと思った。もちろん本人は、なりたくてなったわけではないとは思うだろうけれど、それは羨ましがられるようなたぐいであることはもう間違いがない。偶然を必然にする力を持つ男なのだろう。きっと出世するに違いない。なんとなくそう思う。
腰に制式拳銃をぶら下げながら、俺は周囲を警戒した。自ら手を挙げた警備の仕事を疎かにしたいわけもなかったが(これでも自分の稼業には一応の誇りがある)、もっとも一役人の結婚式に殴り込みなどあり得るはずもなく、この調子ならば、新郎新婦は木製のべか舟に乗ってまもなく境川を下るだろう。その時式典は佳境を迎え、夫婦を号砲が迎え撃つ流れになっている。市役所の職員が地元で開く結婚式は、これまでに例がないくらい盛大なものであった。不具合が起きないことを祈りながら、俺は徐々に境川を上っていく。
視界の先には、高架化された国道三五七線が境川を跨ぎ、さらにその向こうには高層十二階建ての巨大な市役所庁舎が聳えている。屈強で剛健な佇まいは、彼らにとっては浦安の新しい未来への象徴を思わせるのだそうだ。
境川中央歩道橋の袂、号砲用の赤い砲台と白い砲身を磨いているのは、同期の本堂だ。
「お前、ここの配属なのか」
話しかけると、彼は心底驚いたようで、目を丸くした。
「開田、お前もここにいるのか」
「いちゃまずいのか」
「いや、来ないものだと思っていたよ」
わからなくもない。好きで参加するような人間ではないことくらいは知られている。
「一応警備なんだ」
腰の拳銃を見せる。浦安市職員制式拳銃、松原銃器製「雷電」二二型。
「お前が許可申請書を書くのか」
「俺だって書くときは書くさ」
携行許可申請書は活字を打つことを禁じられているので、握った万年筆が少し震えたことを覚えている。思えば入職してから殆ど、打電と電話で仕事をしてしまっているから、手書きで文字を記入することが減った。合理化を進めた文明の中でこうして俺たちは徐々に能力を失っていくが、その代わりにより高度の仕事を求められるのだ。正しく、それこそが公僕に求められている真なる合理化であるだろうと上司が酒の席で声高に叫んでいたのを思い出す。
「しかし、彼を見たか」
「ああ、奥さんも綺麗なひとだったな」
俺は彼の妻となる人の顔を見ていないが、本堂は見たのだろう。白いタキシードを着た新郎は――元より堅牢な面もちをしてはいるものの――一家の長となるべき男の表情をしていて、思わず彼の覚悟とその仕事ぶりを想像したのだった。
奇跡をその手に掴むには、少なくとも、虚空に向かって手を伸ばさなくてはならない。だが、それを知ることが出来る人は、さして多くないのだ。
「ほら、出発したぞ」
本堂は早速空砲を装填し始めた。遠くからべか舟が徐々にこちらに近づいている。手漕ぎだから速度こそ緩やかだが、舟の上の夫婦はそれとわかるほど晴れやかな表情をしていて、河岸の参列者たちに盛大に手を振っている。蒔かれる祝紙の量と色がひときわ増えて、灰色の川面を彩っていく。すぐ横の路面を通る市電は速度を落としている。鐘の音も平生より厳かに響いているような気がした。
境川が、浦安という街が、彼らの婚姻を祝福していた。この時、彼らはすべての市民に、職員に、そして人ならざる存在にすら祝福されていた。それは誰の、こと俺の目から見ても明らかで、茹だるような暑さであったはずの河岸には清涼なそよ風が吹き、市電は鐘を鳴らし、見物人は拍手で彼らを迎えた。
「そら、もうすぐだ」
号砲用意の号令が無線越しに聞こえる。本堂を含め、十名近い砲手は、あらかじめ示し合わせたとおりに準備を始める。
「開田、お前上流から見てみろ」
本堂はしたり顔で俺に言った。祝砲用の砲台との構図が画になる顔だった。少し悔しくなって、俺は河岸を上った。真っ白な礼服を着た新郎と、ふわふわとしたヴェールに覆われた新婦が、こちらに下ってくる。彼らは出迎えの参列者にひたすら手を振っていた。俺は密かに敬礼を返す。
どん。
最初の祝砲が鳴った。
参列者たちから歓声があがり、祝紙はひときわ多く空を舞う。
どん。どん。どん。
祝砲は次々と、一定の拍を保ちながら規則正しく、己の役割を爆発させていく。
境川は無数の祝紙と硝煙と熱気に包まれていく。
俺はただ、言葉をも発することが出来ず、その場に立ち尽くしていた。
これ以上の晴の場を、日常の一部分として享受できることの幸福を、市民たちはどれほど感じているだろうか。幸福とは、恒久的に続いていく日常の集合体に過ぎない。過ぎないからこそ、散逸していく日常を収束させていくことが、公務員、役人、あるいは官吏と呼ばれる俺たちの仕事なのだろう。
右手の先で銃把を撫でる。番号と俺の名前が指先から伝わってきた。
この街で生きていく。
俺はゆっくりと息を吐いて、流れていくべか舟を眺めていた。
祝砲は鳴りやみ、夫婦は参列人の歓声に包まれて、川を下って行った。
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