綺麗な手だね

「綺麗な手だね」

 老婆は、きわめて自然に笹紅の手を取った。あんまり唐突だったもので、笹紅は驚き損ねて瞬きをした。いつの間に、隣に他人が座っていたのだろう。老婆は笹紅の手を、スーパーで野菜を吟味するかのように矯めつ眇めつして見る。笹紅は、見ず知らずの他人にいきなり触れられたのにたいして、不快感は覚えなかった。

「綺麗な手だね」

 老婆が、さっきと同じ台詞を、繰り返した。笹紅は手を振り払うことも出来ず、ぼんやりと、老婆の言葉を聞く。

「苦労を知らない手だ、これは」

 老婆は言った。

「あんた、苦労してないだろう」

 笹紅は苦笑を返す。

 確かに、笹紅は弱輩者であった。労働の経験はない。両親も健在である。大変な目に遭ったことなんかない。笹紅は苦労を知らない。老婆の言う通り。

「綺麗な手だね」

 老婆は呟き、笹紅に手を返した。ソファからすっと立ち上がり、何事もなかったかのように去っていく。スリッパが床を滑る音を、笹紅は黙って聞いていた。

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