飛翔


 そこは暗くて寒くて、狭いところ。


 背中の上からは蛍にも似た儚い光が降り注いでいたけれど、ボク自身の背中に阻まれて、うつむいたボクの視界を照らすには至らなかった。


 ボクは日本にいたとき住んでいた家の、クローゼットの中を連想する。

 父が酔って帰ってきたと知ったとき、姉はいつもそこにボクを押し込めた。


 黙って匿われていないで、姉を守るために飛び出していくべきだ。なんなら父親を刺し殺したっていい。人殺しになろうがなるまいが、どうせボクの人生そう変わらない。法律や生命倫理なんか知ったことか。姉が助かるなら、父殺しはボクにとってプラスにしかならないものなのだから、それをやって何がおかしいの?


 ……と、今のボクならそう思っただろう。

 だけど当たり前のことだが、当時のボクは今よりずっと幼くて、愚かで、気弱で、非力だったのだ。

 荒々しいノックのように扉の向こうから叩きつけられる暴力の波音に、震えて息を殺すことしかできなかった。


 そうしてただ時が過ぎるのを待ち、扉を閉める前よりも傷の増えた姉に出迎えられて、ようやく息を吹き返す日々。


 明日は、次こそは、いつかは、自分が姉を救う側になりたいと思いながら。

 そんな日は一生来ないということも知らずに。


 それならそうで、一生うずくまっていれば一貫性があるというものなのに、よりによってボクは姉がいなくなってから我が身を守るために父殺しを為した。

 そんな自分を、ボクは一生軽蔑し、憎悪し、呪い続けるのだろう。



 ――と、見下ろす暗闇の中に小さな光点が灯った。

 今にもかき消えてしまいそうに揺らめくそれは、おそるおそるといった感じでわずかずつ近づいてくる。

 暗闇の中の光とは人間にとって快いものだろうに、ボクにはそれがひどく目障りなもののように見えた。


「王よ!」


 光のある方から声がした。


「偉大なる闇の王よ! 拙者はチャールズ・ブルフォードと申す者! イングランド王エドワードの命により、参上つかまつりました! どうかお姿をお見せくだされ!」


 光の正体は、1人の男が片手に握った松明の炎だった。

 しかし、男はなんて小さいのだろう。独自性に乏しいたとえですまないが、まるで豆粒だ。


 だというのにボクは、その豆粒のような人間の、恐怖と不安に引きつった頬の皺の1本、瞳に反射した光景までも見分けることができた。


「――やかましい」


 突然、自分ではない何かが自分の舌や喉を使って声を発する。

 否、その理解は違う――。

 ボクは今、返答した何かの視座で世界を見ているのだ。


 が身じろぎする。

 体動によって、ブルフォードと名乗った男の眼球が煌めいた。

 その虹彩に映ったのは、一匹の、途方もなく巨大なドラゴンの姿だった。


(ドラゴン――)


 ああ、思い出した。


 その瞬間、長い夢から覚めるように、ボクの意識は現実へと引き戻された。


 けれど夢はボクにしがみつく。

 どうやら今度は自分が目覚めたという夢を見ているようだ。

 目の前に広がる、戦場と化したロンドンはひどく現実味があったけれど、これが現実のわけがない。


 だってそうだろう。


 ボクが真珠色のドラゴンになっているだなんて、そんな馬鹿な話があるものか。


(憎い)


 唐突に、憎しみの感情が溢れ出してきた。


 父に対する憎しみ。

 母に対する怒り。

 姉さんの死を受け入れられるようになった時にようやくわき上がってきた、激しい憎悪。

 ボクを認めてくれなかった紫蒲さんへの怨み。

 傍迷惑なヴェレネお嬢様への嫌悪。

 あらゆるものを持っているラマイカさんへの嫉妬。

 

 そして――吸血人を憎むあまり、孤児院のみんなを生贄にし、シスターを殺害し、ボクに数少ない友人達を撃たせた、あの組織への殺意。


――そして、を利用しながら、裏切った吸血人への怨嗟。


 そうだ。

 あの暗い場所にいたドラゴンは人間達に己の血を分け与え、致死の疫病から救ってやったのに、彼等はを恐れ、世界から排除しようとした。


 首を断ち切られれば、頭と胴を別々に動かして暴れてやった。

 心の臓を突かれたならば、別の臓腑を代わりにして戦い抜いた。

 翼をもがれれば、足だけで空を駆けてみせた。


 けれど結局、ドラゴンは敗れた。

 彼女の復活を恐れる人々はその遺体を灰にし、小箱に分けて保管した。

 もし灰を地に撒こうものなら、そこから花が芽吹くように復活するのではないかと思っていたらしい。


 けれど私は自分が敗れることを見越して、ある情報をまことしやかに流していた。


『竜の血を飲んだ者は、不死身となる』


 はたして、それを真に受けた者が数名ほど現われた。

 その結果彼等がどうなったか?

 竜の血というウイルスに冒され、人類がまだ知り得ない、魂のDNAとでもいうべき物質を置換され、肉体はそのままに精神を乗っ取られた。


 こうして複数名の吸血人に分散するという不完全なかたちながら復活を果たしたは、人類社会に潜伏しながら完全な復活を目指した。


 いや、目指すのは完全以上である。

 前のものより強力な肉体を。人間などにはもはや負けぬ、凶刃のごとき強靭な恐神になるのだ。


 血換炉は、私の撒き餌の1つ。

 正直、人類の科学というものは理解できない。だけど理解する必要はなかった。

 私が科学者達にそれとなくアイデアを吹き込んでやるだけで、エネルギー問題解決に躍起になっていた人類は吸血鬼の心臓部分を機械によって拡大再現してくれたのだ。


 それを巡って人間達は陰日向に争い始めたが、それは私にとってはどうでもいいこと。

 私のやったことといえば、ロスアラモスやチェルノブイリで原子力発電技術を妨害し、人類が血換炉にだけ希望を託すよう誘導するくらいで、後はただ待つだけでよかった。


 待つ。そう、完成度を高めた血換炉がドラゴンの細胞――人間達が使い魔と呼ぶもの――を規定量生産・進化させるのを。


 そしてついに時は来た。ハンプと『蒼穹の頂』が物理的に融合することで、私の新たな依代となるべき、鋼鉄のドラゴンが完成したのだ!


 私は新しい身体から伸びる真珠色の翼を大きく広げ、打ち下ろした。

 飛翔するためのたった1動作が嵐を起こし、人間なりに歴史を積み重ねてきた街並みを倒壊させ、砂塵となさしめた。


 肌にチリチリする感覚。洋上からこちらに敵意が向けられている。

 あれは――ああそうだ、VKを征服しようとしていた国連軍艦隊だ。


 柏崎刈羽――今、私の脳髄を構成する一器官となっている少年の人生をねじ曲げた組織の狗。

 承諾もなく、勝手に身体をいただいたのだ。復讐を肩代わりするくらいのことはしてやってもいい。


 私は皮膚表面を構成する細胞をパージ、幾億匹もの蝙蝠の群れへと変化させる。

 黒い霧のような蝙蝠の群れはミサイルのような速度で飛翔し、艦隊を包み込んだ。


 そして霧が晴れたとき、船の中に人間の影はなかった。

 脱ぎ捨てられた衣服があちこちに散らばっているだけだ。

 その中には人の成れの果てとは到底思えぬほど小さく萎んだ木乃伊ミイラが転がっていたが、服の重みでぐしゃりと潰れるか、風に吹かれて塵となった。


 血換炉は吸血人の血で動く仕組みだったが、竜の心臓として完全稼働したそれは吸血人も雑食人も差別しない。全て等しく、ただの捕食対象だ。


 新たな敵意を感知。

 我が新たな肉体の構成物質の1つとなった機械――確か『蒼穹の頂』とかいったか――それに搭載されていたレーダーなる機械とは便利なもので、次から次に敵を見つけてくれる。昔の肉体にはなかった器官だ。


 人間達がグレート・ブリテン島と呼ぶこの島の遥か沖、海の深いところに息をひそめる紡錘型の鉄の船が敵意の発信源だった。


――潜水艦。長距離弾道ミサイル搭載。


 刈羽の知識の中から情報を拾い上げる。といってもたいしたことは知っていないようだ。

 なんにせよ、黙って撃たれるのは癪である。


 私は大きく口を開く。

 昔は火球を吐いたものだが、新しい身体が吐きだしたのは一条の光だった。

 刈羽にいわせるとレーザービームとかいうらしい。空気分子のバリアも海水の盾も貫いて、光は潜水艦へと到達する。


 その瞬間、潜水艦は淹れたての紅茶に溶ける角砂糖のように、した。


 こうして、人類の科学より生まれながら人類の科学を超越したマシーン・ドラゴンにより吸血人を家畜にしようとする雑食人達の野望は――少なくともその第1陣は――打ち砕かれたことになる。


 だから、次は――吸血鬼を道具にした吸血人を、滅ぼしてやらねばならないだろう。


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