銃声


 結論から言うと、ボクは敗北した。


 熱いコーヒーの上に落ちた一欠片の氷を想像してほしい。ハンプがコーヒーで、『蒼穹の頂』が氷だ。圧倒的物量の中に、ヴルフォードはあっけなく呑み込まれてしまった。


 今のボクは虜囚である。まだ生き長らえられているのは、伊久那里奈というハンプを統べる心臓部ハートの女王の慈悲に他ならない。


 もし生還することができたなら、「ヴァルヴェスティアに勝てるのはヴァルヴェスティア」とか言っていたどこかのアニメオタクをぶん殴ってやりたいと痛切に思う。




 ハンプの内部は、どこまでも続く花園だった。

 何を言っているのかわからないと思うが、ボクにもわからない。

 ひょっとしたら既にボクもろともハンプは破壊されており、ボク達は天国にいるのかもしれない。


 それならそれでいい。ラマイカさんは助かったということだし、死者の世界なら姉さんに会えるかもしれないのだから。


「地獄かもしれないけど、天国じゃないよ」


 伊久那が言った。彼女は何故かドレスを着ている。花園の中にぽつんと置かれた椅子に腰かけ、紅茶を啜っていた。

 ちなみにボクはシュラウドスーツ姿だ。拘束はされていない。するまでもない――いつでも殺せるということだろう。


「また、お茶会か。さっきリシュリューとやったばかりだよ」

「あたしの紅茶は飲めないって?」

「……いや、そういうわけじゃないけど」

「まあ、飲めないんだけどね」


 伊久那がカップをひっくり返すと、中にあった紅茶は使い魔となって空に散った。

 紅茶もテーブルも伊久那のドレスも、そして花畑さえも使い魔による作り物。

 小さな虫が寄り集まり色を変えることで、ドット絵やモザイクアートのように映像を映し出していたのだ。


「やっぱり、あたしが着ても似合わないよね」


 ドレスが無数の使い魔に分裂すると、そこには別れた時と同じ服を着た伊久那が立っていた。


「そういう意味ではヴェレネは憧れだった。最初見た時、ああ、絵本の中のお姫様みたいだなって。ここに本物がいるから、あたしはもう無理して女の子らしくしようとかしなくていいんだなって、楽になった気がする。うん、わかってる。それは解放されたんじゃなく、負け犬があきらめた、ただそれだけなんだって」


 どこか遠くを見つめ、熱に浮かされたように喋る伊久那。

 ゆっくりと顔をこちらに向ける。そして、虚ろな目で呟いた。


「……ところで、ヴェレネって、誰だっけ?」

「……帰ろう、伊久那」


 ボクは手を差し出す。


「帰る? 帰るってどこにさ? あたし達の家は、もうないんだ、あたしや、シスター・ラティーナ――いや待て、誰だそれ?」

「思い出さなくていい。ここから出よう、そうすればよくなる」

「いや、待って……思い出さなきゃ。思い出したい。きっと大切なこと、大切なものなんだ!」


 伊久那の精神状態にあてられたのか、伊久那の下半身を構成する使い魔たちがざわめく。

 その動揺はこの世界に伝わり、花園は時折ぐにゃりと歪んで何か裏にあるおぞましい光景をちらつかせた。


「いいんだ。まずここを出なきゃ駄目なんだ。ボクを信じろ。まさか、柏崎刈羽まで忘れちゃったんじゃないだろ?」

「か――しわ――ざ――き、かり――ば――」


 伊久那は一瞬、きょとんとした。


「あ――うん、覚えてるよ、その名前。あたしが大好きだった、男の子の名前なんだ。あんたみたいに・・・・・・・綺麗な顔してて、さ」

「…………」

「いつもムカつくくらい淡々としててさ。死ぬことさえ怖くない、むしろ望むところだって。むしろ積極的にあの世の方向ばかり見てるみたいで、怖かった。怖くて――、だから気がつけば、いつも目で追っていた。あいつのことばかり考えて――」

「…………」

「でもね、友達がその子のことを好きだって言ったんだ。なんていったか、ヴェレ――ヴィネ? なんで思い出せない――いや、いいか。その子の方がお似合いだから、あたしはまたあきらめた。応援しなきゃって思った。なのにそいつは知らない女のところに連れて行かれて、そうだ、あたし、メリーを取り戻さなきゃ。あんた、知らない? ……そもそもあんた、なんでここにいるの?」

「伊久那――」


 リシュリューの組織は、どうしてこの子を選んだのだろう?

 大の大人がよってたかって1人の子供の精神こころを弄くり回し、吸血人を攻撃する兵器にしてしまった。

 洗脳するならするで、もっときちんとやればいいのに。急ごしらえの、動く度に歪みの出る欠陥人形じゃないか。


 あるいはそれもおまえの狙い通りなのか、リシュリュー?


 青空が割れ、炎上するロンドンの夜景が映し出される。

 燃やしているのはハンプだ。伊久那の精神状態を代弁するかのように、敵味方お構いなしにレーザーを撃つ。


 ビルの屋上に人がいた。歩兵でもなければ報道陣でもない。寝間着のまま、幽霊のように佇んでいる。

 ハンプの使い魔がもたらす毒にやられ、屋外に誘導された犠牲者だ。きっと燃える街並みの中にも、多数の被害者がゾンビよろしくさまよい歩いていることだろう。


「やめろ、伊久那!」

「うるさいよ、あたしに命令すんなッ!」


 その肩を掴もうと手を伸ばすと、彼女を守る使い魔達が蛇の姿を取り、鎌首をもたげてボクを威嚇いかくした。


 ピピ、と機械音がボクの手首から鳴る。

 腕時計のアラームだ。


 今日の日の出時刻から逆算された戦闘限界時間。

 ハンプの使い魔に噛まれ、屋外に誘導された人々を正気に戻し、彼等を昇る太陽から避難させるために必要とされる敵撃破のタイムリミット。その5分前。


 伊久那はボクから拳銃を奪っていなかった。


 ボクは愚かな子供だ。あと5分で伊久那を救い、ハンプに噛まれた人々を助ける、そんな名案を思いつく兆しさえない。ボクの代わりに叡智を授けてくれる知り合いもいない。


 できるのはいつだって、冷たい選択肢のどちらかを選ぶことだけ。

 いいや、ボクは選びさえしなかった。

 選んでいたのはいつも、自分の頭の中にいる姉さんだ。


 ボクは卑怯者だったかもしれない。

 正しい選択肢を選んだはずなのに、こんなにも胸が苦しい。

 姉さんもこの痛みを感じるだろうか。これまでもそうだとしたら、姉さんを苦しめていたのはボクだ。


 だから今回、「姉さんどうすればいい」とボクは尋ねなかった。


 大切な、家族同然の女の子だったから。

 ボクのことを好きだと言ってくれた子だから。

 そんな子の死を姉さんに背負わせるのは、きっと姉さんが辛いと思うから。


 ボクの意思で、ボクの手で、葬送おくってあげなければならない――。


 自分でも何をいっているのかよくわからない。心が現実逃避を要求している。感情を鈍麻させろと警告している。


「――おにいちゃん、だーれぇ?」


 銃口の意味さえわからない、無邪気な瞳が問いかけてくる。


「ボクは――、君の――」


 彼女が安心して逝けるように、ボクは微笑んだ。


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