173 - ラフクの思い

 降り注ぐ光の中、彼は祈りを捧げていた。

質素な祭服でその身を包み、癖のある金の髪をきっちりと撫でつけて。跪き瞳を伏せ一心に神と向き合うその姿は、清廉そのもの。

 巨木の森に迷い込んだ気持ちにもさせる立ち並ぶ石柱、堅く滑らかな木製ベンチ、精緻な細工の祭壇、甘い花と香のかおり。

灯された蝋燭の灯と、荘厳で柔らかなステンドグラスからの光。

何者も拒むことなく、全てを赦し受け入れるその空間を体現しているかのような、彼の祈る姿。

人が神に祈る姿とは、本来美しいものだと思っていた。

――そう、なぜなら彼の祈る姿は、こんなにも美しい――。


 彼は――司教は難儀そうに立ち上がり、ひっそりと立ち尽くす者の姿を見つけると青い瞳を嬉しそうに微笑ませ、杖を突いて歩み寄る。

「ラフク、いらしてたのですか」

朗らかな笑みに、悦びと色香が混じる。

「――貴方に、言い忘れていたことがあって」

傍まで来た司教をラフクはすんなりと見上げ、

「……?」

続きを促す様に僅かに頷く彼に、微笑んで伝えた。

先日彼がくれた想いに応える言葉を。


――心からの、言葉を。







***







 吟唱詩人を思わせる美しい声でロルが語ったのは、サジャ=アダヌスの旅路の物語。

あらすじは、聖書に記されている通り。だが、教会信徒が知るそれとは決定的に違い、救世の神や使徒達が皆、人として――喜びや悲しみ、葛藤や苦悩を抱えた、それぞれに個性的な人格を持った人間として語られ、神性を付与する為にそぎ落とされたであろうそういった生々しさを改めて知ると、その物語が超人たちの為した偉業譚ではなく、実際にこの世界に生き戦った人間たちの懸命な姿を伝えるものと感じられた。


 自らが生き延びたいが為に、囚われのサジャを解放した”洗礼者”セテシュ=ツィサーリ。

 共に追われる身となった二人と出会ったイスファハもまた、逃亡者であったこと。

 非道な仕打ちに歪んでしまったファヤウを救おうと足掻き続けたサジャ。

 そして見守り見届けるしかできなかった者の底知れぬ苦悩と後悔――


それらは決して――英雄たちの栄光を高らかに謳い上げた華々しい物語と言えるものではなかった。






 約2週間の滞在の後、五人の旅人達は若きノーグを伴いメルドギリスを旅立って行った。

彼らが向かった先は、ギギム山脈に抱かれた小さな村。ノーグ達の隠れ里ともいえる村だ。

かつてサッヴァが王家より下賜された宝珠は故郷の村に大切に置いてあるということだったからだ。

「いつでも帰れるとなると、まだ帰らんでもええような気がしての」

老ノーグは、そう言って全てを若い甥に任せ彼らを見送った。

「……道先案内人も、お荷物も、一人おれば十分じゃろうて」

しわがれた声の小さな呟きに気付いたのは、ただラフクだけだった。

山を行くに良い季節とは言え、その道程が険しいことを知るからこその言葉だった。


 最初の夜にアレス、ロル、リーの三人とラフクが話し合ったことは、ただ彼らの胸の内にだけ留めておかれることとなった。というのも、その後ラフクは連日城へ出仕し忙しくしていたし、旅人達もまた、士官学校生らと共に城下町の復興支援や、手伝いに出かけたりしていたため、全員が揃って話し合う時間があまりとれなかったからだ。

 加えて、セフィが自らの記憶に触れようとすると、決まって具合を悪くしてしまい――勿論、ラフクの蔵書から手掛かりになりそうな書物に目を通したり、研究や考察の話をする機会はあったのだが――大概、様子がおかしいことに気付いた仲間たちに止められ、その結果、何かしらの答えにたどり着くことはできなかった。

 知りたいと望むセフィ本人は自身の異変や不調をどうにか耐え隠そうとしていたのだが、勿論そのような虚勢は容易く見破られ、半ば強制的にベッドへと連れ戻されていた。

「伝承だか何だか知らないけど、セフィはセフィでしょ? もう、既にたくさん、嫌なことがあったのに、今これ以上、しんどい思いなんて、しないでいいじゃないっ……!」

と、泣き怒りの様な表情でアーシャに言われ、そもそも、メルドギリスを訪れたのは風の神珠を求めてのことであり、由来探しの為ではない。いつまでも回復できないのでは旅立つことができないと、セフィは記憶を探ろうとすることを諦めることにしたようだった。

 ただ、”竜の花嫁”としての力や役目の類は、瞳の色と共に受け継がれるものだということから、後天的に瞳が淡紫に変化したのなら――記憶を取り戻したところで自分が生まれた時のことなど分かるはずもないのだろうが――セフィが、その存在と関わりがある可能性が高いと考えられるのではないかということだけを結論としたのだった。


「その瞳を魔性だなんぞというんは、人間だけだ。ほんとは、それは、尊いものなんだ。神聖で、気高いものなんだ。隠す必要なんて、ないんだ、本当はっ!……けど、本当のところはそうだとしても、わかってないやつらが多いってこと、おらも知ってる」

そう悔し気に言ったのはヤツェク。身綺麗にしていても、野暮ったさの抜けない純朴そうな男そのものと言った風体の彼は、ただで世話になる訳には行かないと、日々何かと屋敷の雑用をこなしてくれていた。

「あんたさんが、いつかその瞳を隠さなくて良い様になったら、その時には、眼鏡がなくてもちゃんと目が見える様になっているように、まじないをかけておいたよ」

ノーグ達はラフクの許可を得て敷地の一角に簡単な作業場を設え、カーティスから預かっていた眼鏡を綺麗に直し、レンズが無色透明であっても瞳の色が淡紫には見えない様細工を施してセフィに返したのだった。

老ノーグサッヴァは、

「あんたさんの心根が、ほんに優しいことは、よぉわかっとる。けど、だからこそ、自分は居ない方がいいんだとか、そういうことは、いっちゃあいかんよ。それは、あんたさんのことを大切に思っとるもんにとって、とんでもなく残酷な言葉なんじゃからの」

セフィのことを憧れ以上の思いで慕っている甥ヤツェクの代わりに、言い聞かせる様にそう語った。

そしてセフィは、老いたノーグの言葉を聞き真摯な表情で頷いていた。



 ラフクの屋敷に滞在してる間、ロルは幾度か王太后に拝謁し、その度にどこか疲れた様な難しい顔で帰ってきていた。

はじめのうちは「城には近付くなと国王陛下より命ぜられております故、ご容赦を」と言ってかわしていた彼だが、仕舞には迎えの馬車と使者を寄越され断り切れなくなってのことだった。

 ラフクもまた彼のことを、そして時に共に召喚され城を訪れていたリーのことを――アレスやアーシャは絶対に行きたくないと言って行かなかった様だが――城で見聞きすることはあったが、どうやら「旅や異国の話を聞かせて欲しい」との王太后の望みを聞いて、語って聞かせているとのことだった。

 そしてラフク自身、王太后マリアベラから

「本当はあの”淡紫の瞳持つ者”とも話してみたいのだけど、それはできないって、どうしてもだめだって言われているの」

と残念そうに訴えられたこともあった。しかし、

「化け物を自分の屋敷に匿うなんて、どうかしている。さすがは学者先生様だ」

という揶揄を声高にではないがあちらこちらで聞いていたから、彼らの主張は当然のことと思い

「それは残念ですね」と返すに留めた。

――マリアベラが彼らに求めたのが、『旅の話』だけではないことを幾度か城で同席したラフクは気付いていた。

だからこそこれ以上、巻き込むわけにはいかないと、思ったのだ。



「民はただ、守られるだけでいいのか」

そんな語らいを、する機会があった。するとあのタレ目の青年は少し言葉に迷ったようにした後で

「あの場では言えなかったけど、民は民として、国に対して責任がないとは言えないでしょうね」

そう苦笑して応えた。

「民に苦難を強いる王が現れたとして、例えば、その王を臣民の判断で退位させる法があったとしても、それを判断し、行う為には常に人々が、国に対して目を向け、そして真剣に考えている必要があるでしょう。勿論それは、自分達の生活を守る為にであってもいい。とにかく無関心でいてはいけない。そういった意味で言えば、民もまた、自分達を守るに国に対して責任をもつ必要が、あると言えるんじゃないかな」

口調はあくまで柔らかで、だがその言葉の多くは理知に富んでいて、ラフクにとって興味深く刺激的なものだった。

 これからこの国は、少し混乱するだろうとラフクは予感していた。

王太后マリアベラが、国王の署名の入った書類を議会に提出したのだ。

国王の絶対的権力の無期限停止、ゆくゆくはその放棄も含め国政権を議会へと委譲すること、そして将来的に王家は政治から距離を置き主に国の象徴とすること、等々。王国史上類を見ない改革を提言するものであり、ただ贅沢な暮らしがしたいだけの王ではなく恐らく王母であり、先王の代理を務めたこともあるマリアベラが、これから起こるであろうそれらの変革の中心人物となるのだろう。

 そして、城の者達の態度からも、無知がいかに偏狭な考えを産むかを目の当たりにしてきたラフクは、彼女が外からの目線を欲しがっていたことを知っていた。

セヴェリ司教然り、そしてあの旅人達然り、だ。

 旅人達の話には――勿論、目新しい知識もあったのだが――既知の情報や知識を違った視点から見たものも多かった。

閉鎖的な思考に囚われがちな人間にとって、彼らの様に柔軟で多角的なものの見方をする者達との語らいというのは、それだけで視野を広げてくれる、貴重な機会であった。



「貴方の様な人物が国政を担うなら……国を治めるならば、きっと憂いは少なく済むのでしょうね」

王太后の間を辞して、ふと、ラフクはロルを見上げた。

彼は苦笑というよりも顔を顰めてラフクをちらと見、

「買いかぶり過ぎです。俺はただの旅人ですよ。しがらみから逃げたいばかりのね」

だから、そんな重たいもの背負いたくない、と身震いして首を振った。

「なにも一人で背負わずとも、貴方なら多くの人々が手を貸してくれるでしょうに」

と頬を緩めて見つめれば、

「あぁ、そっか。……それならやっぱり、自分に課せられたものは自分で背負いたいかな」

彼は、応えるでなく独り言のように小さく呟く。そしてくるりとラフクを向き「とか言っておいた方が、好感度上がるよね」とニヤリとする。

「本当に、貴方という人は……」

「惚れちゃいそう?」

つられ笑みをこぼしたラフクに、ロルはお道化て言う。

「! 何を言って……大人を、からかうものではありませんよ」

咄嗟に、狼狽えて睨んで返してしまったが、気にした風もなくにこにこしている彼に、「そうですね」と笑って返せばよかったのだと気付いたが、後の祭りだった。


 幾度かそんなやり取りをした、軽薄とすら見られかねない程普段飄々としているがその実、稀なる有能な人物である彼を、本当は手元に置きたいと王太后は考えていたのだろう。それは勿論、叶わないことだったわけだが――ラフクもまた、彼の旅人達から多大な影響を受けたと感じていた。


「難しいことはよくわかんねぇけど。ただ、セフィとリーが一緒にて、二人ともがお互いをすごく大事なんだなって感じるし、自然な感じがするんだ。

ただ、もし、万が一、おれ自身が、誰か……男に、好きだって言われたとして、その言葉とか気持ちを、女の人に言われたのと同じように受け止められるかって言われると、自信がないというか。戸惑わないでいられるかっていうと、難しいと思う。

でも、だとしても、その相手の気持ちを茶化したり、気のせいだとかキモチワルイとか言ったり、ましてや禁忌だからって理由で、全否定することは、しないでおこうと思った」

とは、青い髪の少年の言葉。

あの後しばらくしてから、わざわざラフクに声をかけそう言ったのだった。

 ただただ受け入れられずにいたことを、真剣に考え、そして自分なりの答を見つけた彼の言葉はとてもまっすぐで、思いやりに満ち、ラフクの心を温かくした。

ありがとう、と微笑んで返せば、少し照れたように頬を掻いて

「いくら否定したところで、実際にそういう人が、居るんだもんな。だったら、仕方ないっつか、認める認めないとかそういう問題じゃないよなぁ」

眩しい様な笑顔で応えた純粋な彼の心が好ましかった。



「どこかの女と番い、子を生しこの家を継ぐことはありません。勘当して頂いても結構です。

ただ、長子が男として不能だから弟に継がせるというのと、国と学問の為に身を捧げる為に弟に委ねるというのと、どちらが聞こえがいいかは貴方方もお分かりだと思います」

そう言い放ったのは、かつてのラフク。

 自分自身のことは早くから分かっていたから、面倒な縁談を持ち出される前にと両親に向かって言ったのだ。

 その言葉に、迷いはなかった。

王家からの打診は知っていた。そして弟が、姫に恋心を抱いていることにも気づいていた。

姫に想われている自覚もあった。

だが、自分はそれに応えられない。

自分は――同性しか愛せないのだから。

 血を繋げないだけではなく、汚点としかなり得ない存在は家にとっていない方がいい。それは分かりきったことだった。

 本当はそもそもが、存在してはならないのだという考えに長く囚われていたラフクにとって、ロルやアレスの言葉は、ある意味救いであり、欲しかったもの、だった。


 学生時代の友人、ヘンルィク=ブロムダールのことが好きだった。

彼の姿、心、声、優しさ、理想。全てに惹かれた。あれは紛れもなく、恋だった。どうしようもなく好きで、けれど秘めていることしかできない、どうすることもできない恋だった。

 自分の抱く感情は、禁忌だと分かっていたから――。

友人でいようと、せめてただ大切に想うだけでいいと、それくらいならば許されるだろうと思えるようになるには随分とかかった。

身を焦がすような恋など、もうこれ以上自分には必要ない――ただ穏やかに、好きで居るだけでいいと。

やっと、そう思えたのに―― 一途に慕ってくるセヴェリ司教の熱情に長く晒され続け、いつしかラフク自身も彼に惹かれていった。

 移り気な己の心を嫌悪した。要らないものだと否定した。望めば触れ合える距離に居られることが、辛くも感じた。けれど意気地のない自分は彼の好意が嬉しかったのだ。そして、望んではならないことだと分かっていながら、その想いの正体を認めてくれたらと願う、自らの浅ましさをただただ恥じた。

 だからラフクは、遠くへ行った友人を想い続けた。ヘンルィクに叶わぬ恋をしている。それだけでいい。そのはずだった。――本当は、愛されたかったし愛したかった。愛した相手と触れ合いたかった。

 罪を重ねるつもりかと囁く声がした。

けれどあの時――あの夜。強くたたきつける様な雨が、そんな小さな囁きなど、かき消してしまったのだ。

 情欲を纏わせた低い声で名を呼ばれ、抵抗心など早々に挫けてしまった。

きっと罰を受ける――頭の片隅での警鐘に必死で耳を塞いだ。

 彼は、決して――思いを口にすることはなかった。愛しているとは、言わなかった。

言葉が、欲しかったわけではない。だがその言葉こそが、彼が自らの思いを認めた証だと思っていた。

彼は、”同性愛”を受け入れることはない。

 嵐の様な激情が過ぎ去り、眠りに落ちた彼の顔を見て、胸に去来したのはどうしようもない虚しさと愛しさ、そして後悔だった。何より、信仰に対する裏切りと、長くヘンルィクを想っていた自分自身に対する裏切りの生む罪悪感、それでもどこかにある多幸感――相反する想いにこれ以上引き裂かれるのは耐えられない――。

 できれば、何事もなかったようにしてこれまで通りの付き合いを続けたかった。ただ変わらず傍に居たかった。多くは望まない、それだけでいい。

軋む身体を引きずり、寝台を抜け出したラフクは、そう、何事もなかったようにした――

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