172 - 恐れを知る時

 コリンヌが伴ってきた城仕えの医師の診察が行われている時に、ラフクもまた、部屋を訪れた。

「待たせて頂いて構いませんか」

と問う彼に、老齢の医師はゆったりと頷いた後で彼を診た。

 右半身に関して、回復訓練を続けて行けば多少機能は取り戻せるだろうが、全く元の様にとはいかないだろう。また、右目の視力に関しては、残念ながらどうしようもない、との診断だった。

それでも、これだけの傷を負いながら命があるのは奇跡的だと、医師は静かながらも興奮した様子で語った。「処置をした者に感謝せねばなりませんな」と言い残し、老いた医師とコリンヌは部屋を去って行った。


「貴方の身に何が起きたのかに関しては、不明です。今のところ」

診察の様子をやや離れて眺めていたラフクが傍に来て椅子に腰かけ、視線を寄越さぬまま手にした帳面を繰って言った。

 それからセヴェリは、問われるままに様々のことを答え、ラフクは聞きながらそれらを書き留めていった。

事務的な会話を交わしながら、だが、セヴェリの思考を占めていたのは、あの時のコリンヌの言葉。そして、目覚めるまで見ていた夢と共に蘇った記憶のことだった。

『やめなさいっセヴェリ……! だめ、ですっ……セヴェリ、司教……!』

吐息で名を呼ばれ、全身に慄きが走った。突き上げる衝動のままに貪った――確かな、記憶。

今目の前で、清廉そのものの姿で居る彼を自分は――。


『貴方は、あの男を、ラフク=アディオ=クルールを愛しているのでしょう』

コリンヌの物言いは問いかけでなく、断言。

咄嗟に、そんなはずはないと言えなかった。


 一通り聞き取りを終えたラフクが自分の用事は済んだとばかりに持ってきたものを片付けながら、

「貴方を救ったのは、セフィリア=ラケシスです」

そう、先ほどの医師の言を補うように言った。

「!?」

驚きにセヴェリは目を見張って、

「何故、彼が……」

自分を助けるのか。信じられない思いでラフクを見る。

『誤訳による思い込み』から、セヴェリはあの青年を虐げたはずだ。恨まれこそすれ、救われるなど。

「我々が依頼したから、それを断り切れなかった……というわけでは、無いと思いますが」

つい、と眼鏡を押し上げるラフクの目尻の鋭い瞳がふっと遠くを見た後でセヴェリに向けられる。

「自分の助けを必要とされていたから、持てる力を賭して行った。ただそれだけのことだと。……いかにも聖職者らしい、と。そうは思いませんか」

「っ……」

確かに、誰かを助けるのに理由などないはず。無私なる慈悲こそ美徳。否、美徳以前に、それこそが聖職者のあるべき姿ではないか。

 セヴェリはひととして、聖職者として正しく在ろうとしてきた。

人々が求めるであろう理想を為そうとしてきた。

自らを律し、そう努めることで自分は正常(まとも)なのだと、ようやく自負できたからだ。

同性を愛するなどという愚を、禁忌を、犯すはずがない。犯すわけにはいかない。だから、彼に――ラフクに対して抱いた想いが、そうであると認める訳にはいかなかった。

確かに、好ましいとは感じていた。だがそれは親愛の情であって、恋情ではないと思っていた。否、自らにそう言い聞かせてきた。自分は異常者ではない、と。

どうしようもなく切り捨てられず燻ってドロドロと渦巻いていた感情の正体に心のどこかで気付きながら、そんなはずはないと否定し続けてきた。だが、いくら押さえつけても募るばかりの想いは消えずにむしろ膨れ上がり、あの時――ついにそれが、溢れてしまったのだ。

「……申し訳なかった」

ふいに、言葉が口を突いて出た。

ラフクは怪訝そうな顔をした後、軽く溜息を吐いた。

「詫びるなら、私ではなく彼に」

「あ、いや」

話の流れから、あの淡紫の瞳持つ者に対する謝罪と受け取ったらしいラフクの、謂わば当然の反応に、だがその様なことは頭になかったセヴェリはやや慌てて取り繕う。

「勿論、許されるならば彼に、謝罪しなければならないと思っています。しかし、今、私が謝りたいのは、貴方にです、ラフク」

「私に? 何を謝る必要が?」

心底何の事だかわからないという表情のラフク。

セヴェリは、首をもたげそうになった躊躇いを抑え込み、

「……あの時の、あの雨の夜のことを」

平静を装わせた声でどうにかそう絞り出した。

 謝ったところで許される訳はないと分かっている。余りに身勝手な自らの行い。

セヴェリはあの時、込上げた衝動のままに彼を凌辱した。

嫉妬したのだ。彼の”学生時代の友人”に。

本当はもうずっと、永らく彼のことが欲しくて、欲しくてたまらなかった。触れたくて、抱きたくてどうしようもなかった。だから――彼が他の誰かのものであると錯覚した瞬間、本当に、我を忘れた。

「!……思い出したのですか」

ラフクは一瞬目を見張り、それから眉間に皺を寄せる。その反応に、蘇った記憶が偽りではないと、全て真実の出来事だと、セヴェリはようやく確信を得て覚悟した。

「本当に申し訳なかった。あのようなことをしておいて、何故、忘れてしまっていたのか……」

そう、なぜ記憶が抜け落ちてしまっていたのか。

焦がれすぎて、理性など容易く焼き尽くされてしまった。そうだとしても、今の今まで忘れていたというのは、どういうことなのか。

「それならば、お気になさらず。そのように仕向けたのは、私ですから」

視線を逸らしたまま、ラフクは感情を廃した声で答えた。

「仕向けた?」

「忘れてもらっただけです」

つまり、何らかの方法を用いて、記憶を封じたのだとラフクは言う。

「何、故……」

「何故? 聖職者であるあなたがそれを問うのですか? 一時の気の迷いで、禁忌を犯したのです。明るみに出れば立場を失うだけではありません。罪に問われるのですよ」

冷厳な瞳でラフクはセヴェリを見た。

互いの立場を慮って、そしてセヴェリを守る為に、忘れるよう仕向けたのだと。自惚れではなく彼の言外の意図に気付くのは容易かった。

「それに、私が誘ったのだと誹りをうけるのは御免被りたかったのでね」

「っ……!」

その通りだ。

あの時の自分なら、例えば明るみに出なかったとしても、無理やり行為に及んでおきながら彼に、その様な態度を取っていただろう。自分自身の行動の責任を彼に押し付けようとして。自分は悪くないと、言い訳したに違いない。そうなってはきっと、それまでの様な付き合いすら、できなくなっていたことだろう。

 ラフクは恐らく誰よりも、セヴェリ自身よりも、セヴェリの弱さや脆さ、狡さや臆病な心を知り、そして理解していた。

彼の寛容に、慈悲に、優しさによって守られ、自分は今まで在ることを許されていたのではないか。

そしてその配慮によって、決定的に拗れることなく――やや疎遠になってしまってはいたが――彼との関係を今まで保つことができてきたのではないか。

「……」

彼の思慮深さに対し、自分のなんと愚かなことか。

 『貴方を救いたい』とセヴェリはラフクに言った。

苦悩を晴らし、穏やかに微笑んでいてほしかった。確かに、本心からの言葉だった。だがその実、救うどころか禁忌を犯した罪の重さを彼一人に背負わせてきたのは他ならぬ自分自身。

それらは全て、セヴェリが己の中にある感情を認めなかった故だ。

 自らの浅はかさを恥じ入っての沈黙を何ととったのか、ラフクは表情を変えぬまま

「いずれにせよ、もう何年も前のこと。済んだことです」

まとめた資料を手に立ち上がった。

「ま、待ってくださっ……!」

咄嗟に、セヴェリは動く方の手でどうにかラフクの服を掴んだ。

「――まだ、何か?」

見下ろす瞳はどこまでも冷静で、もう論じることは何もないと物語っている。

セヴェリにとってはたった今蘇った鮮やかな記憶であっても、ラフクには既に自らの中で処理し終えた過去の出来事なのだろう。

「あ、いや……」

加害者である自分が、被害者である彼に、今更悲惨な過去を突き付け許しを請うなどしていいことではない。ましてや行いの理由を言い訳するのなど――

「……彼は……セフィリアは、貴方を救う為に酷く消耗した様で、今も臥せっているそうです。貴方に謝罪の意思があることは伝えておきますが、貴方が自分の気持ちを晴らしたいために謝るつもりならならやめておきなさい、と申し上げておきます」

「っ……」

セヴェリは思わずビクリとした。今自分がラフクに詫びたことも含めて、何の為の謝罪なのかと言われているような気がした。

「……では、どうぞお大事に。また必要があれば伺いますので」

無言のまま掴む手が緩んだ事で良しとしたのだろう、ラフクはそう言い残し部屋を去って行った。

「……」

セヴェリは未だかつてないほど途方に暮れている自分に気付いた。

 神の教えを守り、従い、人として、正しく在りたかった。そうして、許されたかったのだ。無意識に自覚していた『普通ではない』自分が存在することを。

だがその為に、自らに嘘をつき本心を偽り続けてきた。果たしてそれは、本当に――正しかったのか。

心の中で問うてみても、応える声はない。


『貴方は、あの男を、ラフク・アディオ=クルールを愛しているのでしょう』


あのような肉欲を伴うどうしようもない劣情が、愛だなどと思いたくなかった。

彼に対する想いは、愛とは、もっと精神的な、もっと崇高なものであると思いたかった。

けれど、このどうしようもない執着が、劣情が、そうだと言うのなら。

確かに自分は、彼を――愛している。


 先日ラフクが、何故それほどまでに自分にこだわるのかと聞いたのに対する答えは、嘘ではない。だが、本当は、そんな理屈よりも何よりも、好意があったからだ。彼が欲しかった。自分のものにしてしまいたいと、思っていたからだ。

あの夜のことを忘れた後も、想いは変わってなどいなかった。

力を貸して欲しと請い、拒絶されて辛かったのは――本当は、ずっと――愛していたから。

一時の気の迷い、ではない。初めて会った時から、ずっと、変わらず――


――そして、今も……


セヴェリは押し寄せた絶望的な答えに、頭を抱え顔を伏せた。

胸の中で甘く燻るものの正体を今度こそ思い知って、怖くなった。

だがそれと同時に、既に観念していた。それは、受け入れなければならないことだと。

ラフクを愛しているということ、そして自分が、同性愛者であるということを。

「貴女達は、正しかった……」


『禁忌だからと目を背けて来た、あなた自身の想いをしっかりと見つめて。受け入れて。その想いは、必要なものよ』

『セヴェリ司教。ねぇ、あなたは何に怯え、何を恐れていたの?』

コリンヌ王妃とマリアベラ王太后の言葉の一つ一つが鮮明に思い出される。

彼女たちは、恐らく見抜いていたのだ。セヴェリの中にある恐れの正体を。


「ラフク、俺は、貴方を……」


セヴェリは、自らの中にある恐れを知った。

自覚することが、怖かった。認めることが、怖かったのだ。

いくら努めても、自分は神の教えに沿わぬ存在であるということを。

信仰と、自らの性質との途方もない齟齬を。 

――だがもう、どうしようもなかった。


「貴方を、愛している……」


傍にいたい。手を伸ばさなくとも届く距離に、肩が触れ合うくらいに近くに。誰よりも傍に居て、あの、孤独を望んでいるかのような男に、貴方には自分が居ると言いたい。

 この思いを、殺すことはどうしても出来そうにない。


――認めて、受け入れて、それから、どうせよと言うのですか……

もう既に、こんなにも手に余る。


生涯杖に頼らず歩くことは難しいだろうと言われた半身の疼痛よりも、片目を失明したことよりも遥かに苦しい。

理想を為し得なかったことよりも何よりも彼を失うことの方が怖い。それは、信仰を裏切る恐怖にも勝るもので――幼い子供の様にただただ彼に嫌われたくないという思いだけが、セヴェリの心を占めていた。


「……私は、どうすれば……」


俯いたまま呟いた彼の肩に、柔らかな手がそっと触れる。

先程目覚めた時傍にあった高貴な女性の香りを感じ、セヴェリはいつの間にかコリンヌ王妃が戻ってきていたことを知った。

 顔を上げぬまま苦悩する彼を、彼女の手がそっと慰撫する。

その手の暖かさに触れ、ほんの少し思考に余裕ができたセヴェリの頬に、他者を思いやり優しく労わるリュシアンの性質はやはり彼女譲りだろうと、苦い笑みが込み上げた。

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