160 - 守りたいもの

ピーーーィ!!

突如、甲高い鳴き声を上げながら一羽の鳥が舞い降りた。

「!?」

『なぬっ?!』

大きくたくましい翼の鳥――大鷹は、獅子の顔面目がけて急降下したかと思うとその鋭い嘴でもって双眸を狙い、羽ばたきながら爪と共に何度も繰す。

『トリが、小賢し……ぐぁっっ!!』

空いた方の手で邪魔なものを払い落そうとする、その隙を狙うかの様に白い狼が現れ、セフィを捉えた靄に噛みついた。

「クァル! レシファート!」

靄は消え、露わになった黒獅子の腕に、白狼の牙が食い込んでいる。

「!」

力が緩んだ。

セフィはすかさずその手を逃れ、距離を取った。

振り回される腕を逃れ、大鷹は空へと帰って行く。

『クッ……おのれぇぇ!』

自らの腕に食らいついた白狼の顔面を狙った五指の爪は空を引っ掻き、

『生意気なぁアァ!!』

真紅の双眸が燃え立ち、飛び退いた白狼に向かって黒獅子は咆哮を上げる。

漆黒の鬣がざわめくその姿に、白狼は後半身が下がりそうになるのを必死に耐えていた。

『クッ……!』

四肢が震えるのを止められない。本能が、服従を示すべき相手だと訴えている。

だがそれでも、内にある絶対的な恐怖心に抗う白狼と――

「レシファート!」

威嚇する黒獅子の間にセフィが割って入った。

そしてあろうことか、

「逃げて下さいっ!」

レシファートを背に庇うようにしてそう言ったのだ。

『……何故庇う。何を守っているつもりだ。そは、単なる使役獣であロウガ!』

『そうだ、セフィ。我を守るなどっ……!』

名を呼ばれ、名を呼び、その姿を目にして、白狼は我を取り戻した。守るべき主の後ろで怯えている場合ではないではないか。

「私は、殺さないそうです。だから――!」

だがセフィは、そう言ってレシファートが前に出ようとするのを阻む。

『――そうだ。そなたを我が手には掛けぬ。だが他は、皆殺シだ! そこを退けェ!』

空気が、ビリビリと震える怒気を孕んだ咆哮。一歩二歩と踏み出す足元の大地は砕かれ、盛り上がった筋肉が、その巨体をより大きく恐ろしい姿に見せている。

「……」

白狼がビクリと身を震わせ後ずさり、セフィは無言のままじっと獅子を睨みつけた。

『退ケと、言うておろウガぁァ!!』

何かを掻き乱されたかのように黒獅子は苛立ち、荒ぶるままに後ろ脚立って前肢を振り上げセフィに襲い掛かった。

『セフィリア!』

委縮した身体は言う事を聞かず、レシファートは立ち竦んだまま叫んだ。

ガギイイイッ――!

『!』

耳に不快な音が響く。

セフィの、掲げた両手の僅か先から薄い膜が張られ、凶悪なまでに鋭い爪の巨体を受け止めていた。

「……させませんと、言った筈です」

無垢なる淡紫の瞳が、獅子を捕らえ毅然と言い放つ。

『小癪なこトヲ……! そこを、退かヌカぁぁ!』

半身を乗り上げたまま黒獅子は体重を掛け、力を込めた。

ミシリ、と軋み重く押される感覚に、セフィは奥歯を噛む。

『セフィッ――!』

このままでは、避けることもできず押しつぶされてしまうのではないか。

自分が攻撃に出るから逃げろと、白狼が言うより早く、

「レシファート、そこを、動かないで下さいね」

パシッ――!!

という音と共に、薄い膜に今にも食い込みそうだった太い前肢が白く凍り付いた。

『なっ!?』

そして触れた部分から凍結は徐々に広がっていく。

「動かない方が、いいですよ。折れて、しまいますから」

『ヌウウウウ……!』

黒獅子が低く唸る。セフィは上がった息をどうにか整え、

「このまま氷像になりたくなければ、引きなさい!」

そう言って掲げた両手に更に力を込めた。




 全く予期していなかった自分自身への突然の攻撃に、それでも踏み留まらず弾き飛ばされたことで衝撃を多少なりとも和らげることができたのは、既に生存本能と直結した彼自身の戦闘的勘によるもので、無意識的な反応だった。だがそれ故に、やっとたどり着いたセフィの傍から引き離されたことは――しかも、すぐさま体勢を立て直したにも関わらず、その開けられた距離の間に鰐顔の魔物に立ち塞がられたことは、今、彼にとって不覚でしかなかった。

「レシファ! セフィを守れ!」

敵の足元を茨で縫い留め、咄嗟に叫んだ彼に、言われずともとばかりに何も返さぬまま白い狼は瞬時地に潜り姿を消した。

シャハァァァ――!

息を吐き不気味な威嚇音を上げる化け物は強靭な尾と後ろ足で立ち、その巨体は見上げる程。黒光りする毒々しい緑の鱗を纏い、人間の腕に似た形の前脚には鋭い爪、そして長い鼻面の向こうに光る目線を逸らさぬまま開いた口内には鋸の様な歯が幾重にもひしめいている。

「クソッ!」

其処らの雑魚とは違うと感じ、彼は腰の剣を抜いて身構えた。

「!!」

茨を引き千切り、見かけによらぬ素早い動きで鰐が襲い掛かってくる。

丸呑みしてやろうと言わんばかりに大口を開けた顔面から突っ込み、瞬時に閉じられる顎の勢いは鋭く、噛まれれば肉を持って行かれるだけでは済みそうにない。

 最初の攻撃を後ろに跳んで避け、すかさず石槍を生じさせる。だがそれらは堅い身を貫くことなく折れ砕け、鰐はそのままの勢いでリーに食い掛かった。

ガチッ! ガチッ! ガチッ――!

避ける度に何度もあぎとい、続けざまに腕を、胴を、頭を狙ってくる。

身を低くしてかわした直後、頭上に開けた大口が迫った。

ガツッ――!

横に跳んで避けると同時にその場に生じさせた岩を、鰐は食らった。

背面は恐らく、堅すぎる。瞬時の判断でリーは鰐の横腹に刃を突き出した。

肉に食い込む感触と岩が砕けたのが、ほぼ同時。

だがそれよりも、長く太い、それでいて鋭く研ぎ澄まされた尾が、まるで別の生き物の様にリーを狙って突き出される方が早かった。

「しまっ……!」

避けきれない、と思った瞬間、目の前を塞いだ者が居た。

「!?」

月の光を弾く長い髪が、気高い獣の尾の様に踊っている。

広い背中が、僅かに振れた。

「ロル!」

バチィッ――!!

名を呼ぶ声は、破裂音にかき消された。

鰐顔の化け物は衝撃に仰け反った後両膝をついて崩れ、その尾もまた力なく地面を打つ。

「リー、大丈夫?」

言いながらロルは肩越しに振り返った。

「あぁ。!? おま……!」

大丈夫だと言いかけて、ハッとなった。

リーに到達することのなかった鰐の尾の先に赤が滴っている。

そして、よかった、と笑む男の足元にも同じ色が――

「見せろ!」

ぞっとする予感に、リーはロルの肩を掴んで自分の方を向かせた。

「っ!」

腹部を押さえる手が赤く染まり、元から暗い色の服が血に濡れて更に色を濃くしている。

「ダイジョーブだって、これくらい、舐めときゃ治るよ」

「んなトコどうやって舐めんだよ! つか、治るか、アホ!」

「え~治るって~」

だから気にせず自分のことは放っておけとばかりに緊張感なくヘラヘラと笑うロルに焦れてリーは男の手首を掴み、

「手、退けろ!」

「あ」

無理やりにそこから引き剥がした。

そして手を翳して治癒魔法を施そうとしたのだが、

「!?」

裂けた布地の向こうに、傷口は既になかった。

「ね? ほら、大丈夫だからさ、俺は。早く行きなよ、セフィんとこ」

言ってロルは背後を示す。鰐の魔物が、大きく身を震わせて、のそり、と起き上がった。

「あれは俺が引き受けるから。ヤツら、敗色濃厚になったらお姫様(セフィ)だけ攫って逃げちゃうかもよ?」

出血量からして、浅い傷であったはずがない。しかもロルは、治癒魔法が得意ではないと言っていた。それにも関わらず自らに癒しを施し、その激痛に耐えたのだ。――いつもの笑みを浮かべながら。

「……分かった」

リーは渋々頷き、踵を返した。

その献身は、誰の為か。

「――死んだら、許さないからな」

そう背中で言って、応えを待たずリーは地を蹴った。

 そうしてまだ動きの鈍い鰐顔の横を駆け抜け、黒獅子と対峙するセフィの元へと急いだのだった。



 一つ、大きく咳き込み、唇を濡らした血を拭ってロルはフッと笑みを浮かべた。

――許さない、だってさ

鰐顔の化け物が、立ち上がり身震いする。

ロルは汚れていない方の手で剣を抜いた。

――どう、許さないつもりなのかなぁ

思わずククッと声が漏れる。

俺だってこんなトコで死ぬつもりはないけど、と誰にともなく呟く彼の瞳は、どこまでも冷静な色をしていた。




 自分達の名を呼ぶセフィの切迫した声に、馬を駆る二人は振り返った。

「!?」

そこには、黒い靄から現れ鼻息荒く唸る巨大な牡牛が――太く鋭い角持つ頭を揺らし、その場で後片足を幾度か蹴り上げていた。

「なによ、あれ!?」

さっきまであんなものは居なかったじゃないかと、少女が声を上げたと同時に、狙いを定めた牡牛は猛烈な勢いで突進してくる。

「! 逃げろ、アーシャ!」

あの巨体に、体当たりされてはひとたまりもない。

二人はすぐさま駆ける速度を上げる。だが、向かう先には新たに現れた魔物が群れを成し――薙ぎ払い道を作ることも、間をすり抜けることも容易くはないだろうと思われた。

ブオォォォ――!!

低く唸る声、地面を揺らす程の足音が迫る。

「アーシャ、右だ!!」

アレスはそう叫び示しながら、自らは左へと手綱を取る。

二人は群れにぶつかる前に左右二手に分かれ、やや戻る方に向い、

ブオォォォ――!!

勢いを緩めぬまま牡牛は魔物の群れに突っ込み角を振り回してなぎ倒し、しばらく進んだところでやっと止まった。

「アレス! セフィが!」

牡牛の背後を取る形で再び合流すべく駆け寄りながらアーシャが声を上げる。

必至で駆ける内に随分距離が開いてしまった。だが、遠くに見えるその姿のすぐ傍に大きな黒い何かが居る。

戻らなければ、と馬首を向けるアーシャを、

「待て!」

だが、アレスは制した。

白い狼が、黒い大きな影――獣に飛びかかっている。

「なんでよ!?」

そして二人の背後では今、体勢を立て直した赤黒い巨大な牛が辺りを見渡し――逃した獲物の姿を捉えた。

 


『何しょげてんの?』

あの暗い地下牢で、碧い瞳の司教が去った後、黙り込んだ彼にロルがそう声をかけた。

『しょげてなんか……!』

咄嗟にそう反論しかけたが、アレスはうなだれて首を振った。

『……ただ、セフィを守りたいって思ってたのに。おれはこんなところで何やってんだろうって』

司教に正論だけを突き付けられて、言い返した言葉には何の論拠もなく。

守りたいという思いだけで何もできず、囚われている自分が情けない。セフィはたった一人で、連れて行かれてしまったのに。

『そのことなんだけどさ、アレス。守る、って何から? どうやって?』

『何から、って、そんなこと……!』

分かり切ってるじゃないかと言いかけて、言葉を継げなかった。

確かにそうだ。

 セフィを悪く言うやつらが許せないと思った。なんでそんなことを言うんだと怒りを覚えた。

魔物を呼ぶだとか、セフィのせいで襲撃を受けたんだとか、そんな風に言うやつらが許せないと思った。

だが、だからと言って、「そうじゃない」と喚き散らしたり暴れたり、許せないからと力でねじ伏せて相手を黙らせたとしても、それはきっと何の意味もないことだ。ただ、セフィを悲しませるだけで。


 『淡紫の瞳持つ者を差し出さねばさらなる災禍が――』と国王は言っていた。

要求に適う者を差し出したところで襲撃を免れることはできないだろうとは皆が一致した考えだった。

それでもセフィは国王の裁定に従った。

『淡紫の瞳持つ者を排除しさえすれば脅威は去る――』と司教は言っていた。

――そのセフィがこの場でたった一人で戦っていたのは何故か。

排除とはつまり、王都から追い出すことだったのか?

否、そんな生温いものではなかったではないか、あの口ぶりは。

 この平原で、何があったのかは分からない。

ただセフィは襲撃を食い止める為に――メルドギリスを守る為に身を挺したのではないか。


『ねぇ、セフィはか弱いお姫様でも、戦い方を知らない子供でもないよ』


――そうだ。セフィはきっと、おれなんかより強い。

襲撃を受けようとしているこの国から自分達だけ脱出するとか、逃げ出したいという考えはそもそもなかったのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが――ただこの国を守る為に。自分を虐げた人々を守る為に、セフィは戦っているのだ。



「セフィは大丈夫だ。リーも、レシファも、ロルも居る」

「でも!」

「セフィも、自分で戦える。だから、多分、大丈夫だ。でも、だからおれは――この戦いを終わらせる」

そうだ。ノルヌ平野をぐるりと取り囲むようにして生じた黒い靄。そこから次から次へと、現れる魔物はメルドギリスを壊滅させようとしている。ロルの雷撃を免れた魔物は、既に城壁に到達している筈だ。結界も城壁も、いつまで保つか分からない。否、きっといつ破られてもおかしくないのだろう。

 アレスは魔物の群れを、それから低く唸りながら後ろ片足を蹴り上げる――突進の構えをする牡牛を向いて剣を抜いた。

「でも、どうやってよ!?」

「わかんねぇ」

「はっ!?」

アレスの言葉に、アーシャは怒りにも似た表情を浮かべて彼を見た。当然だろう。アーシャは、セフィを助けたいと思っているのだから。きっと、自分と同じ様に。

「わかんねぇけど――」

 どうすればいいのか分からない。何が正しいのかも、アレスには分からなかった。

ただ、セフィを守りたいと思う。いつも控えめにしか自分の感情や思いを表さない彼が、それでも自分達と居る時、あんなにも幸せそうに微笑んでいた。

あの微笑みを、守りたいと思う。

 淡紫の瞳が、人ならぬ者の証であることは知っている。

だが、セフィは悪魔じゃない。何を根拠にと問われても、答えることはできないが、アレスはそう確信していた。



『頭ではわかってる。理解してる。けど、心がどうしても、求めている気がするんだ』

そう、笑った少年が居た。課せられた定めを全うすると、言ったその後に。

とても綺麗な――悲しい瞳をしていた。

『どうかアレス、心のままに。何が正しいのか分からなくなった時は、自分の心の声に従うんだ。アレスがそうあることで、僕は救われる』

旅に出ることにしたと告げると、自分は出来ないのにと恨まれたり妬まれたりするかもしれないよと、姉は忠告してくれたけれど。

彼はただ、手紙を楽しみにしている、とそう言って――。



 淡紫の瞳は人ならぬ者の証なのかもしれない。でも、だからといって排斥して言い訳があるのか。

たとえ人ではないとしても、たとえ教会が魔物と定義する存在だとしても――セフィはセフィだ。

アーシャもそう、言っていたではないか。

 セフィは、災いをもたらしたりなんかしない。排除すべき存在なんかじゃない。自分の中の確信は、微塵も揺るぐことなく、そう訴えかけている。

 メルドギリスへの魔物の襲来の真相はまだ分からない。

何故、淡紫の瞳が魔性の証とされるのかも。司教の言葉の意味も、分からない。

それらを、知りたいと思う。知らなければならないと思う。

 セヴェリ司教の言い分は腹立たしいばかりだったが確かに、知らなければ、考えなければならないのだろう。そうすることでしか、大切なものを本当に守ることなんて、できない気がするのだ。



『何から? どうやって?』

分からない。

ただ、まずは今、この事態を打開しなければ。



 アレスは王都に背を向け、迫りくる魔物の群れを、そしてその向こうに見える黒い靄を睨んだ。

空は既に薄暗く、いつの間にやら敵が掲げた無数の炎が揺らめいている。

まずは、魔物を退けること。靄を消すこと。

――全てはそれからだ。

「あの靄を、魔物がこれ以上出てくるのを止める。手伝ってくれ、アーシャ。力を貸してほしい」

力強い瞳で、少年はそう、傍らの少女に請うた。

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