153 - 『その御心疑う勿れ』

 大仰な音を立てて両開きの扉の一方だけが開かれた。

怯え立ち竦み、後退ろうとする馬達をなんとか宥め、彼らは順に門を潜り――そしてその光景を目にした。

 荒漠としたノルヌ平原を異形の化け物たちが整然と埋め尽くしていた。

まるで見えない壁でもあるかのように、一定の距離を取って居並ぶものは様々で、大きいものも小さいものも、そして空を舞う者も地を這う物も皆おぞましく不気味な姿をしている。

少なくとも、そう見て取れるだけしか離れていない。馬で早駆けして数十秒かからない程度の距離だろうか。

風に乗って、生臭いような、獣臭い様な、何かが焼け焦げるような嫌な臭いが漂ってきている。それから唸り声と奇声、無数の生き物がざわめく気配が黄昏時の空にまで満ちている様だった。

 ここまで従ってきた兵達は武者震いでなく恐怖に身を震わせ、或は密やかに息を飲んで手綱を握りしめた。

どこまで、連れて行かねばならないのか。ここに放り出してはならぬのか、言いだすことが出来る者は居なかった。

「ここからは私が付き添おう。皆はここまでで――」

「俺も行きます!」

言いかけたカーティスの言葉に被せて一人の歳若い兵士が名乗りを上げた。

「アントン」

何を考えているのだという思いを込めて名を呼ぶが彼は、

「その者を確実に引き渡す、それでいいんですよね?」

好奇心か、出世欲か、それとも単に使命感なのか。判然としないがまっすぐな瞳でカーティスを見た。

「――好きにしろ」

カーティスはそれだけ言ってセフィの傍に馬を寄せた。

「カーティス士官!?」

そして他の兵らが驚き目を見張るのに構わず、身を乗り出してまず縄を切り、続けて馬を下りると重たげな足枷を順に外した。

「手を出せ」

そう言って差し出させた両手の戒めを解く。

「ありがとうございます」

「礼などいらん。先ほどの言葉を、違えなければそれでいい」

傷口から伝った鮮血もそのままに微笑むセフィに、カーティスは無表情のまま応え、外した枷を残る兵に渡した。

「少し、待って頂けますか」

言うが早いかセフィは馬を下りて跪き、王都を向いて大地に両手をついた。

「なにをっ!」

する気だ、と言うよりも先に術が発動する。

「!!」

 大地が大きく唸り声を上げた。

足元に何かが身震いする感触がして、地響きと共に城壁の外側、沿う様に大地に亀裂が入る。

「なっ!?」

自分達の立つ場所だけをそのままに、亀裂は深く広がり溝の様に抉れ、そしてその分だけ壁の間際が高く盛り上っていく。

 天辺に無数の棘を纏ったそれは、さながら強固な城壁の様。王都を囲む新たな堀と土壁が瞬時にして出現したのだ。

「――念の為結界魔法を張っておきました。多少の攻撃、魔法なら防いでくれるはずです。正直なところ、どれくらい持ち堪えられるかは分かりませんが……」

そう言って見上げる青年の息は僅かに上がっている。

カーティスはこれ程大規模な術が発動するのを今まで見たことが無い。

「……」

目の当たりにした光景に驚き言葉を失った者達を余所にセフィは続ける。

「もし"悪い方"へ転んだら、すぐに取って返してここから、結界の内側に入って下さい。白い狼が先導します。いいですね? くれぐれも、この魔法が永遠のものではなく、一時的なものであることを認識しておいて下さい。もし破られたら、街や人々を守るのはあなた達です」

"化け物じみた力"とレオニード司祭が言っていたのはこのことだったのかとカーティスが納得する一方で、アントンは何を憂慮しているのだと鼻で笑いかけたが、その真剣な眼差しと美貌に気圧されすぐさまそれを引込めた。

 セフィは身軽く馬に飛び乗り、手綱を握る。

「行きましょう。彼らの気が変わらないうちに」

向かう先には、統制がとれているのだろう彼らの姿を視界に入れながらも襲い来ることなく、それどころか丁度中央辺りが割れ、黒々とした化け物の群れの中に一筋の道が出来ている。

 自らの死地を真っ直ぐに見つめ、そう促す横顔は毅然として――あらゆる蟠りを廃し瞳奪う美しさを湛えていた。





――司教様が、こんなところまでお越しになって? 何の用?

よく眠った後の目覚めの様に、明確に訪れた覚醒と共に男の声が耳に飛び込んできた。

身を起こさぬまま瞳を巡らせれば、鉄格子の向こうに灯りを携えた法衣の後ろ姿。

「少し、聞きたいことがありましてね。君たちは、あの者が何であるか知った上で旅路を共にしてきたのかな」

どうやら向かいの牢に向かって話し掛けている様だ。

その背は広く長身で、そこに捕らわれた者の姿を隠しているが、先ほどの声でロルだと分かった。

「何って? セフィはセフィよ! 何が言いたいの!?」

だがそう勢いよく答えたのは、男が語りかけた隣の牢から。鋭い少女の声と、わずかに照らされた赤い髪が覗く。

鉄格子に取り縋っていそうなものを、彼女がそれをしていないのは枷で繋がれ奥の壁からほんの少ししか離れられないからだと、アレスは自らの状況から理解した。

「ならばその瞳が淡紫であることを――」

「知ってるわよ、そんなこと。だから何だって言うの? そんなにも重要なの!?」

即座に答えた少女に、法衣の男は、稚いなと憐れむように笑み

「そう、それこそが、重要なことなのです。あれは人ならぬもの、魔性の存在たる証。『悪魔は時に善き者の顔をし、美しき姿をして汝を惑わせる』……」

「セフィは悪魔じゃない!」

カッとなって思わず、少年は身を乗り出して声を発した。鎖が重い音を立てて彼を引き留めるのにも構わず、

「セフィは、優しくて、善良で、思いやりがあって純粋で、心の綺麗な人だ。セフィは、悪魔なんかじゃない!」

足掻く様に強い声で主張する。

「――確かに、悪魔的人格というわけではないのかもしれない」

司教はゆっくりと彼を向いた。

「だがその瞳が"黄昏と暁の色"をしていることは揺るぎない事実。そしてその瞳こそが魔性の証、災いをもたらす存在である証であり、彼の存在故にこの国が、世界が危機に瀕しているということもまた、紛れもない現実です」

「なんで!」

そうと言い切れるのか。誰がそうと決めたのか。

憤る彼に、司教はまっすぐに答える。

「あの瞳は、神が人にお許しになった色ではないからですよ。聖書に記された事柄に疎くとも、許されざる行いがあることくらいは知っているでしょう?――自殺や堕胎を含む殺人、不義姦通、人喰い、近親婚や同性愛が禁忌である様に、人としてあるまじき瞳なのです」

人となりは関係ない。ただその身体的特徴である瞳の色だけが――その人物が何者であるかを決定付ける唯一にして絶対の条件なのだという。

 それは、いかなる疑問も差し挟む余地のない世の理。それを疑うことはすなわち、神を疑うこと――レオニード司祭と同じ物言いをする司教に、そのような疑問を口にすること自体がおかしいのだと言われている気がしてアレスは、なんとも言いようのない気持ちになった。知っている、だが腑に落ちない。蟠りがただ増幅していくような感覚だ。

 透き通る碧い瞳が印象的な男は、灯の小さなせいで陰影の濃くなった端正な顔立ちをしていて、そこには悪意を見出すことはできない。自身の正しさを信じる毅然とした容貌に、心酔する者もいるだろうと思う。だがそれが、アレスには不気味にすら感じた。

 同じ聖職者であっても、先ほどから黙り込んだままの――もしかしたら意識がまだ戻っていないのかもしれない――リーや、フェンサーリルの司祭たちはセフィを受け入れていたのに。

「禁忌……」

アーシャは呟くようにして司教の言葉を繰り返す。

教会の教えは、よく知っているつもりだ。

確かにセフィの瞳を初めて見た時は驚いた。だが、恐ろしいとは感じなかった。ただとても綺麗だと少女は思った、その感覚の方がむしろ世間一般から乖離していたのだ。

「……」

 アーシャは唇を噛み締めた。

今まで、これほどまでに厳しく苛烈に咎められることはなかったが、そう――青い色味の入った眼鏡や長く伸ばした前髪、街中でも目深に頭巾(フード)を被っていたのは、人目を憚ってのこと――。

淡紫の瞳――それは、人ならぬものの証――。

『たかだか瞳の色くらい』『馬鹿馬鹿しいとしか思えない』そう言っていたカーラは、我が子であるデールが、悪魔などではない自分自身の子が、『瞳がちょっと赤っぽい色だった』だけで魔性の存在とでも扱われたのだろう。それはあくまで『そうでないのにそうとみなされたこと』に対する憤りであって、例えば本当に、赤や金、淡紫の瞳を――セフィの瞳を目の当たりにして恐れ、嫌悪しなかったとは限らない。

 司教の言っていることは正しい。正しいと、知っている。だが。

――あの華奢な身体に刻まれた無数の古傷の痕を知っている。

それだけで、ほんの幼い子供が如何に壮絶な生き方をしてきたかは想像に難くない。

 家族はおらず、記憶もなく、たった一人でシスター=マーサに救われたセフィは、ずっとその瞳のままに生きてきた。

 彼が自ら両目を潰すことなく生きて来たのは、傍に自分を肯定してくれる人がいたからだ、と。その様なことをするのは、自分を肯定して受け入れてくれた人々に申し訳ないと思ったからだと言っていた。それは、自らの瞳が忌み嫌われるものであるということをセフィ自身が承知していて、贖うべき罪であるかの様に受け入れていて、アーシャには憤ろしくて仕方がなかった。

 生まれ持った瞳の色などセフィにはどうにもしようのないことではないか。

悔しくて涙が零れそうになるのをぐっとこらえ、薄暗がりの中の司教を睨みつける。

 セフィは、アーシャの心を救ってくれた。それだけではない。

スプル村で、イネスの腹に――そこに宿った新たな命に触れた時の慈しみ深い表情。

消えゆく守り人を想い零した涙。

命が、愛おしいのだと――傍にいて感じる彼の心には偽りなど欠片もなくて。

 いつもいつも、自分よりも他の誰かの為に心を砕き、祈りを捧げるセフィ。

それでも決して、絵に描いた聖人の様に近寄りがたい存在などではなくて、普通に話し、普通に笑って、一緒に旅をしてきた。

 自分たちの一体何を知って、そのようなことを言えるのかと言葉にしたところで、この男には通じないのだろうと思うと歯がゆくて悔しくて堪らない。

何故、あんなにも優しい人が、ただその瞳の色だけで虐げられなければならないのか。頭ではその理由を知っていても、どうしても納得できない。

「確かに、感情論で国防を語るべきじゃないとは思うけど。あんたの言ってることにも客観的合理性や論理的な整合性はないんじゃない? あまりに主観が入りすぎてる。それともこの世には、理不尽なことや不条理なことがあるんだってことが説きたいの?」

昂るアレスやアーシャの感情とは打って変わってロルの声音は静かだった。だがそこに含ませた棘と辛辣さを隠すことはしない。

「私の主観? そうではありません。神の御心です。それこそが真理、神の定めし理なのだから、理不尽でも不条理でも無い。理に適ったことなのです」

司教は少し不快気に眉を寄せた後で、緩く首を振る。

「確かに、あの襲撃者は引き渡さねば更なる災禍がとは言いましたが、要求に応えれば引き下がるとは言っていない。例えそのように発言していたとしても、人間ですら誓約を反故にするのだから、信じられたものではないというのは確かです。我らの論理や倫理観が通用するとは思っていません。

ですが、論点はそこではないのです。最初から彼は、そうとして存在した。黄昏と暁の瞳持つ者を――災いをもたらす存在を排除する、というのは、理に適ったこと」

襲撃があろうとなかろうと、魔物達の要求の有無に関わらず、この地を訪れた淡紫の瞳持つ者――セフィは捕らえられ"排除"されるべきなのだと。そうすることによって災禍は去るのだと司教は言う。つまり魔物の軍勢の元へ放り出すということの方がセヴェリ司教にとって後付けなのだ。

「君たちの不幸は、彼と、そうと知らずに親しくなってしまったことでしょう」

「不幸!?」

反射的に反論の声を上げるが司教は動じない。

「そうです。ですが、考えねばならなかったのも事実。人ならぬ瞳を持つということ、計り知れぬ力をもつということ。それらの意味を、考えねばならなかったのではないですか。知ろうとしなければならなかったのではないですか。彼が何者なのか。――彼は、自身が何であるか知らぬまでも、その役目は理解していた。そしてそれは、事が成されれば、君たちにも分かるでしょう」

憐れむような瞳には確信が満ち、彼らはその揺るぎなさに違和感というよりも不気味さ、怖気にも似た感覚を覚えた。

 壊してはならない。傷つけてはならない。奪ってはならない。殺してはならない――そういった人々が当然持つ感覚――倫理観や道徳観念を説明する時、その元を質せば教会の教えにたどり着く。

 教義は常の生活の中に在りながら、そうと意識することなく既にまるで人々の本能の様にすらなっている。つまり常識、社会通念、万人の共通認識として淡紫の瞳持つ者――セフィは魔物であり、排除の対象なのだ。

だから例え論を尽くし言葉を尽くして説明したとしても、どれほど感情に訴えたとしても、異論は受け入れられることはないのだろう。

そういうものなのだから、決まりなのだから、神の定めしことなのだからと主張する者と同じ場所にたどり着くことは果てしなく困難で、時に不可能ですらあるのだということを彼らはまさに突き付けられたのだ。

「……全ては神の思し召しだと?」

ロルが問えば、司教は曇りない瞳で答える。

「『あなたの神のみを、唯神として崇めよ。その御心に従い行い、神の栄光の為に在れ』。信仰は唯、神にのみ捧げられるべきであり、我々の行いはその御心に従うべきなのです。自らの思惑に沿わぬからと、神の御心を疑うようなことがあってはならないのですよ」

「神の栄光、ね……」

ロルはふっと唇を歪めた。その口元は、暗がりにあって司教の視界からは隠されていたのだが。

「……」

静かになった彼らが自身の言葉を聞き入れたと理解したのか、司教は微笑み

「それでは、そろそろ失礼しよう」

その場を辞するべく踵を返し彼らに背を向けた。

そしてふと、

「あぁ、そうだ。先ほどの――ラフカディオとは何者なのですか?」

思い出した様に振り返り問う。

「……この城に文官として勤めていると聞いた。その人の古くからの友人って男から」

刹那、言うべきか迷ったロルだが、アーシャ、アレスに先んじて答えた。投げやりになったわけではない。司教がここまで足を運び聞きたかったのはこのことだったのではないかという気がしたのだ。

「……知人の名に似ている気がしましたが、違ったようですね」

司教はほんの少し逡巡した後でそう呟き、

「では、失礼」

今度こそ背を向け悠然とその場を去って行った。

「……」

――似た名の、知人か……。

その後ろ姿にロルはそっと独りごちた。

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