132 - 祭りの宵に
激しく込み上げた感情――それは嫌悪感と呼べる類の物だった――は、存外すぐに去って行った。
だが、慰める様に、癒すように優しく背中を叩くセフィの手が、抱き締めた体温が心地よくて、彼はしばらくの間そうしていた。
そしてふと、思いついた。
「なぁ、セフィ」
「……はい」
「腹、減ってねぇ?」
「……?」
少し、腕を緩めて見ると、セフィはきょとんとして数度瞬いた。それから、そう言えば昼食を取りそびれていたことを思い出したのか、くすりと笑った。
「な? 祭りの屋台ででも、何か食おうぜ」
「そうですね。では、アレス達に――」
「いいじゃん、あいつらとは後でどこかで待ち合わせてさ。それまで、二人で」
「え?」
唐突とも言える彼の思考の切り替わりをセフィはよく理解していたが、それでも思いもよらない提案に戸惑いの表情を浮かべる。
「時間と場所は、レシファに伝えてもらえばいいし。な? 行こう」
「ですが」
「――オレさ、ケッコー頑張ったと思うんだよな。セフィに追いつくのにも、海賊騒動ん時も。だから、そのご褒美、みたいの。頂戴?」
それは、我儘というにはあまりにもささやかな彼の望みの主張。
「ご褒美?」
二人で祭りに行くことのどこがそれに当たるのかよくわからないといった表情のセフィに、オレのしたいことだから、とリーは笑った。
たまにそうやって突拍子のないことを言い出す彼だが、それらは大概自分が楽しみたいのだったり、セフィを楽しませたいのだったり、何かしら彼自身確固たる目的あってのことだと知っているから、
「――分かりました」
セフィは苦笑して頷いた。
「やたっ!」
仕方がありませんね、と笑うセフィをもう一度だけぎゅっと抱きしめて彼は、人の多い広い通りの方へと上機嫌で足を向けた。
フィオナやディック、他の親子達が礼を言って帰って行ったのを見送って、すっかり気の抜けたアレスの腹が待ちかねたように空腹を主張した。
どこかに何かを食べに出かけようか、と相談しかけた彼らだったが、
「あぁ、ちょいと、待っておくれよ」
そう、イネスに呼び止められた。
小島から帰って来た旅人達に子供達の捜索を頼んでしまったのが、丁度昼食時だったと気付き申し訳なく思ったイネス達が、せめてものお礼とお詫びにと簡単な
その様な気遣いは無用だと、一旦は断りかけたのだがアレスの腹は鳴り止まず、
「食べてくれないと無駄になっちまう」
だから遠慮するなというイネスの脅迫めいた主張と
「待ってる間、気が気じゃなくて、動かずにいられなくて作ったみたいなんだ」
と耳打ちしたウォルターの言葉に、ありがたく御馳走になることにした。
居間の卓に用意をする間に、出ていってしまったリーと引き留めに行ったセフィを探して呼び戻してくるよとロルが出て行ったのだが、いくらもしないうちに戻って来た。
宿を出てすぐのところで足元からの声に呼び止められ、姿を見せぬままの白狼がリーからの言葉を伝えたのだ。
「え、じゃあ、二人でお祭り行っちゃったってこと?」
「そうみたいなんだよね~」
「そっかーじゃあ、仕方ないな!」
「このおやつは、あたし達で頂いちゃいましょうっ」
大きな皿の中には、たっぷりの卵と砂糖と牛乳で良い色に焼かれて香るブレッド・プディング。
イネスが取り分ける、まだ暖かそうなそれをユインと一緒になってそわそわと見守って居た二人が嬉しそうにニンマリとする。
確かに、生地の間に見え隠れする干し葡萄や、ほのかに香る
先ほど伝えに来たレシファートは、『すぐに合流するなら、案内するが』と言っていた。待ち合わせの時間と場所を指定して、それまで別行動にしようと言いだしたのはどうやらリーらしく、それが白狼には気に食わない様子だった。
『まぁ、たまにはいいんじゃないの?』と軽く流しておいたが、リーの意図もレシファートの不満の意味もロルには手に取るように分かっていた。
――俺達のこと、別に邪魔だって思ってるわけじゃないみたいだけど、やっぱ、たまには独占したいよねぇ
取り分けたものに、匙でしゃくったクリームを載せてもらって歓声を上げているアレス達を見ながらロルは独りごちた。
――ただ、セフィってばそっち方面ホントびっくりするくらい疎いからなぁ……。レシファすら感付いてるっていうのにさ……
そしてあの二人の、通じ合っているくせに時々噛み合っていない様子を思い出して、思わずくすりと笑みを漏らしたのだった。
空はそろそろ黄昏の色に変わり始め、一つ、二つとランプに光が灯る。
沢山の屋台が並ぶ、人々の楽しげなさざめきの中。
言葉数多く、交わすわけではない。何も言わずにいても気まずくなることなどなくて、それがごく自然で違和感なく、ただそこに居る。
同じものを見て、同じものを聞き、同じ時間を過ごす。
自分の隣で笑ってくれる。それだけで、どうしようもない位心が満たされた。
――何年か前の、フェンサーリル建国祭以来、か?
食べ歩きできる簡単なもので空腹を少し慰め、温い飲み物を片手に細工小物の屋台を覗き込んでいた時、そう言えば、こうやって祭りを二人で見て回るのは久し振りだとリーは思い出していた。
昔はよく、待降節や新年祭の折、広場ごとに設けられた屋台や出店の市を巡って寒い季節を共に過ごした。だがこの頃は互いに忙しく、また付き合う人間が増え、そう言った機会もあまりなくなってきていた。
『沢山の人と接して親しくなるのは悪いことじゃないだろ。そうやって世界を広げていくことを、オレは否定しない。その方がきっと、セフィのためでもあると思うし』
何かの拍子に、「俺たち、お邪魔だったりしない?」と聞いてきたロルの言葉に、迷うことなく彼はそう答えた。
お道化ているのか真剣なのか、つかみどころのない瞳を微笑ませていたあの男が、答えたリーの言葉をどう受け取ったのかは分からないが、それは彼の本心だった。
人と出会い、繋がりを持ち世界を広げて行くことは、歓迎されるべきことだ。
様々な考え方や感覚、価値観の違いを知り、受け入れたり、反発したり、逆に認めてもらったりしながら、互いを理解していく。時に拒絶されたり理解できず苦悩し、辛い思いをすることもあるだろうが、それでも知らなかったものを知り、世界が広がって行くという感覚は本来楽しいものであると彼自身よく知っている。
勿論、出会った全ての人々とそこまで深く関わる必要があるかと問われれば、否だ。
そんなことをしていては、心が疲弊しきってしまうこと、時には相互理解の為の努力を放棄してもいいのだということもまた、彼は心得ていた。
だから、セフィ自身がそう望み深く関わっている、関わって行こうとしている者達の存在を疎ましく思おう訳はない。
だがそれでも、時に酷く凶暴な思いが首をもたげてリーの心を掻き立てることがある。
一番近くに居たい。独占したい。例えば、近付く者達全て排除し、あらゆるものから切り離して閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたい。
執着、嫉妬、独占欲。
――それもまた偽らざる本心。
リーが抱くのは、紛れもない恋心だ。
だがそれをそうと受け取ってもらえていないなら、セフィの望まぬことを強いるわけにはいかないと――彼はもうずっと長い間、その目の眩むような甘美な誘惑に抗い続けていた。
人混みに疲れて、広場を少し離れた。
そう遠くない場所に祭りの賑わいと花の淡い色、楽しげな音楽が聴こえる辺りでは、同じような思惑の者達や恋人同士と思しき者達があるいは寄り添い、あるいは思い思いに寛いでいる。
「おや、あんたたち」
やや大きな館の傍を通りかかった時、ふと頭上から声が掛かった。
其方を見上げると、路地に迫り出した
「メレディスさん。と、其方は――」
露台の縁に置いたランプに照らされた小さい方の容貌には見覚えがあったが、もう一方は初めて見る顔だ。
「グレアム。この村の長だよ」
「どうも。はじめまして」
もしゃもしゃとした髭を蓄えた初老の男は、人懐こい瞳でにこりと微笑む。
普通の村人と変わらぬ身なりで、そうだと言われなければその身分に気付くことはできなかっただろう気さくな印象の男だ。
森の魔女と村長という組み合わせの妙に、少し驚きながら挨拶を返すと、
「今、話を聞いていたところだ。子供達と、村の大切な人を助けてくれたそうで。どうもありがとう」
男はそう言い、高いところながら丁寧に頭を下げた。
「あとの三人はどうしたんだい?」
"人を寄せ付けない人柄"と聞いていたが、決してそんなことはないノーグの女性は背伸びをして乗り出すようにしている。
「今は別行動中なんです」
見上げて答えるセフィに、二人はそうかと頷き、
「よかったら、上がってこないか? 旅の話を聞かせてもらえると――」
「すみません」
上機嫌で言いかけたグレアムの言葉を、リーは笑顔で遮った。
隣に立つセフィの指に一本一本指を絡めて握りしめ、掲げて見せる。
「察して頂けるとありがたいのですが」
「!」
露台の二人は面喰い、
「おや、まぁ」
「ははっ! そうか、そうか」
それからそれぞれの反応を見せた。
「これは邪魔しては悪いな。また気が向いたら、いつでも訪ねてきてくれ。祭りを楽しんでな」
グレアムは顎のあたりの髭を弄りながら鷹揚と微笑み、メレディスもまた満面の笑みで、手を振りその場を立ち去る二人を見送ってくれたのだった。
「……なんだか盛大に勘違いされてしまった気がするのですが」
村長の館を離れゆるりと歩き始めながら、つないだ手を放す気配のないリーの横顔にセフィは困った様に訴えた。
「まぁ、いいじゃん。そう取ってもらえるように見せたんだし」
「そう、取ってもらえるように……」
ニヤリ、と笑うリー。だが、だからと言って無理矢理振りほどくつもりはセフィにはなかった。
彼がそういった接触を好むことを知っていたし、セフィ自身嫌いではなかったからだ。
「語るほどのものでもない武勇伝を話す気にもなれないだろ? そんなことしてる間に待ち合わせの時間になっちまうのも不本意だし」
リーは表情を苦笑に変えて言った。
約束の時間までは、まだもう少しある。もう少しだけ、ほんの少しだけでいいから二人でいたいと彼は思っていた。
そんな彼の思惑を知ってか知らずか、セフィは苦笑してそれ以上何も言わなかった。
禁忌を犯すような思いを抱いていると、取られても構わないと彼は言う。その真意をセフィは知ることが出来ないが、それでも彼が自由に振る舞い楽しそうにしているのを見るのは、心から幸せだと思えた。
「本当は、とても嬉しかったんです」
「……?」
何が、と問う様にリーは瞳で先を促した。
「貴方が無事に、遠征先から帰ってきて下さって。……追いかけてきて下さって」
彼の帰りを待たずにセフィは旅立った。
その無事を祈りながら、そして旅先のどこかでいつか巡り合えることを願いながら、フェンサーリルを発ったのだ。
旅立つ彼を見送った時の引き裂かれるような胸の痛み。帰りを待つ間の押しつぶされそうな不安。
帰らぬ彼の代わりに訃報が届く悪夢を、幾度となく見た。
いつも、何でもない様な顔で、当然のように彼は自分の元に帰ってきてくれた。
それでもただ帰りを待つだけ、祈りを捧げることしかできない日々の辛さは、いくらその思いを隠すことが上手くなっても、慣れるようなものではなく。
『ただいま』と言って彼が帰ってきてくれる度に、心から安堵した。泣き出しそうなくらい、嬉しかった。
「あなたを見送らなくていいということ、こうやってすぐ傍に居られることが、とても嬉しいんです」
遠くに居るその身をただ闇雲に案じるのでなく、手を伸ばせば触れられる距離に居るということが、ただ嬉しい。
何故、そう感じるのか。何故こんなにも心が落ち着くのか、満たされた気持ちになるのか。その理由をセフィは知らなかった。
ゆっくりと歩きながら言葉を紡ぐ、その綺麗な横顔にリーはドキリとした。
「オレが頑張った甲斐あって、だろ?」
頬に熱が上ったのを隠すようにどうにか笑って言うと、セフィはリーを向いて微笑む。
「えぇ。本当に、その通りだと思います。頑張って下さってありがとうございます、リー」
「っ!」
余りにも真っ直ぐに向けられた言葉と笑顔。リーは思わず言葉に詰まる。
「? どうかなさいました?」
「……何でもない」
口元を手で覆いながらそれだけ言うと、リーはふいと視線を前に戻した。
――邪魔、っつーか寧ろ……歯止め? みたいのにはなってるよな。かなり……
今度こそ何かが溢れそうになって、それでもなんとか押し込めたリーは一人心の中で呟いた。
――正直、一旦外れたらどうなるか分からんもんな、オレ……
首を傾げ覗き込むセフィに、もう一度なんでもないと笑んで見せるリー。
そして二人は再度祭りの人混みの中に紛れ歩いて行く。
夜の闇が広がった空に、星たちもまた楽しげに瞬いていた――。
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