121 - 見送った後で

「せっかく協力してもらったのに、海賊たちを逃してしまった」

彼が目を覚ました時、叔父であるヘンルィクはそう苦笑していた。

悔恨ではなく、穏やかな喜びを込めた声音で。


 海賊の一味であった彼、セルジュが大怪我をして運ばれてきたのは、レグアラに辿り着いたその日の宵だった。ロルが馬を駆って連れ帰り、セフィが治癒を施したが、意識を取り戻すまで数日を要すほどの重傷を負っていた。

「魔物による傷は、ほとんどありません」

その肩と脇腹に射掛けられた矢さえ、人の手によるものだと旅人達は断言した。

 恩赦を与えると約し協力させた彼に手酷い暴行を加え、果てはその非人道的扱いを隠蔽するためか、魔物襲撃の混乱に乗じて命すら奪おうとしていたメルドギリスの者達にヘンルィクは激怒したが――その後、どういった対応と処理が成されたのか、ヘルガは聞いていない。ただ彼は、体力が回復するまでこの屋敷に留まり、その後の身柄もブロムダールが引き受けることとなったということは確かだった。


『彼らは素晴らしい志を持っていた。そして実際、その実力もあったのだろう。

だが、今回はその時ではなかったのだ。

ただ、それだけのこと。

いつか必ず、その時は来るのだろうが……それが、今ではなかったのだ――。』

そうヘンルィクが呟いたのを、ヘルガは知っていた。


 窓の外を見下ろすと、ささやかな裏庭に人影がある。熱が下がり、動けるようになったセルジュの回復訓練と称した散歩をしているのだろう。エミリアと彼女の妹達、それから侍女モリーが付き添っている。

明るい日差しの中の穏やかな光景に、ヘルガの頬にも自然と笑みが浮かんだ。

 窓辺を離れると彼女は机に向かった。レグアラ滞在中、自由に使っていいと用意された部屋は広さこそそれほど無いものの、寝台などの家具が使い勝手良く配され、狭く感じさせない工夫が成されている。しかも、エミリアの部屋と続きの間となっているのがヘルガには嬉しかった。久し振りに再会した、歳の近い従姉妹とのお喋りは、いつも夜遅くまで続いてしまうからだ。

――それにしても、エミリアがあんな行動を起こすなんて、びっくりだったわ。

いつの記憶でも大人しい印象の彼女が、海賊達の、イオルズの無事を見届けるために馬を走らせたのだ。

「この家には、無茶に付き合ってくれる人が居なくて。ヨハンナとギュンターを巻き込んでしまったことは、本当に申し訳なく思ってるわ」

と、帰って来た彼女は恐縮していたが、ヘルガとしては嬉しい驚きだった。

――これに懲りずにいてほしいわ。だってやっぱり、自分が動かなきゃ、ね。

少なくともそのおかげで、セルジュを助けられたとヘルガは思っていた。

 頬を緩めたままヘルガは、机の上に置いてあった書類を手に取った。丁寧な手書きの文字で書かれ、左端を紐で綴ったそれはあの旅人――セフィの手による置き土産だ。

 もし万が一、不幸にも事故に遭い怪我をしたり死亡した場合、船乗りやその家族の生活を守るための仕組みに関する提案が記されている。

「以前読んだ古書物にあった仕組みなのですが」と前置いて彼は、描かれた図式や文面を示しながら説明し、そしてその書類をヘルガに手渡したのだった。

 イオルズは父親を失ったが、ブロムダール家の援助を受けることが出来た。それは幸運なことで、港町には常に、夫や父や息子の無事を祈る家族がいる。

もし、船乗りが亡くなれば、その家族は悲しみだけではない、収入が無くなるという苦境に直面することになる。怪我をして帰って来た場合も、働けない者の為に妻や幼い子供たちまでもが過酷な労働を強いられる、ということが往々にして在る。生活費だけでなく、治療費までまかなわなくてはならないその暮らしは容易ではなく、想像を絶するような悲惨な事態すら招きかねない。

 不運な事故による不幸の連鎖を防ぐために、同業者組合保険や相互扶助、集めた資金を運用して増やすこと、海難事故を防ぐ、その被害を軽減するために策を講じることの必要性とその方法等がこの書類には書かれている。

「貴女が仰っていた、海を往く人々を守るための仕組みや制度について、少しでも参考になればよいのですが……」

そう真摯な瞳で見つめながら、託されたのはただの紙の束ではなく、きっと彼自身も願うその思いを載せたもの。

――不思議な人……。

 ユーディットに救助された後、議会員による尋問が行われている間、アーシャに付き添うセフィと話す機会があった。

あの赤毛の少女は、水竜を召喚したことによる魔力の過剰使用により――平気な様に振る舞ってはいたが、すっかり消耗してしまっていたのだ。

そんな少女を前にして、

『全部、私のせいだわ。何もできないくせに、粋がって、自分が正しいって思い込んで、自分がしたいようにして、みんなを巻き込んだの。自分の行動が、どれだけの人に迷惑をかけているか、負担を強いているか、分かりもしないで。戦うこともできない。守られているだけで、私自身には何の力もないのに。何一つ満足に、成し遂げられないのに……』

思わずそんな言葉を漏らしたヘルガに、彼は優しく微笑んだ。


「何もできなかったと嘆く必要はありません。

貴女は善き心と強い意志をお持ちです。そして、毅然と行動を起こすことが出来る。

たくさんの人を結びつける、巻き込むことが出来るのです。それは、とても貴重な才と言えるでしょう。

誰もが同じ力を平等に持っているわけではありません。

人それぞれに、能力やできることに違いがあり、個性があるのです。

誰かと同じことを、同じように成し遂げられるわけではないのです。

自分には手の届かないことにも手を伸ばし、その為に努力するのは尊いことです。

ですが届かないことを絶望する必要はありません。

まだその時ではないだけなのです。

あるいはそれは、貴女には必要なかったものなのかもしれません。

まずは、貴女の手の中にあるものを見つめてみて下さい。

何もない、なんてことはないはずです。

誰もが皆、その人にしか無いものを持っているのです。

自分自身の中にあるもの、手の届くことを大切に確実に行ってゆけば、おのずと成長は得られるものなのです。

より強い力を求め、高みを目指すことは、勿論素晴らしい目標となるでしょう。

でもそれが、全てではないのです。

そしてそれは、実際に戦う為の力である必要はないのです。

貴女は貴女として、貴女にしかできないことを見つけて行って下さい」


 真っ直ぐに、ヘルガの瞳を見つめて彼は言った。

そして気付いた。最初に彼に感じた、どこか怖いような感覚は、強がっている自分、弱い自分を全て知られているような気持ちになったからだ、と。

それまで、無意識に彼と二人きりになることを避けていたのは、畏ろしかったからだ、と。

全てを見透かし、全てを見通すような、あまりにも綺麗な瞳が怖かったのだ。

――でも、そうじゃない。

それは責めるものではなくて、受け入れてくれるという感覚だった。

見せたい自分でなくても、誰にも見られたくない様な愚かしい情けない自分であっても、どんな姿であっても否定せずに認めてくれる。受け入れてくれると本能が知っている感覚。

虚勢など、通用しない。必要ないのだ。彼の前では。

 その無垢な瞳を、ヘルガは畏れた。だが、


――怖いと思った、その正体が分かれば、もう怖くないわ。うぅん、怖がる必要なんてないんだものね。


 彼女が一人そう呟いた時、窓の向こうを何かが横切った。そしてコツコツという音が続く。

「?」 

手にした書類を机の上に戻して歩み寄ると、窓辺に銀色の鳥がとまっていた。

鳥はしきりに窓を突き、入れろと訴えている。

「!!」

ヘルガは慌てて窓を開けた。

「エミリア!」

そしてまだそこに居た、桔梗色の髪の娘を呼んだ。

 鳥はすぐさま部屋に入り込んで、目的の場所――つがいのもとへと飛んでいく。

「来たわ! 番鳩パール・タオベよ!」

穏やかな陽気の中、娘の声が響いた。

 それは、ここを去って行った者の手紙を携えた鳥。エミリアが心待ちにしていた便りのはずだ。

そしてそれが、兄ルティウスの計らいによるものだと知ったヘルガは、彼の手の内で転がされていたような気がして最初少し悔しくも感じたのだが、それでも、とても幸せな気持ちになったのだった――。

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