118 - 初夏の訪れ
ジズナクィン大陸の気候は、住んでいる者でさえ予見が難しいと言われるほど変化が激しい。暖かな日差しが射したかと思えば強い風が雲を運んできて急に雨を降らせ、止めば風向きによって蒸したり冷えたりするのだ。
もう6月だというのに、この頃はまだ肌寒い日が続いていると宿の主人が話していたが、太陽の明るさと日照時間の長さが、季節の移ろいを確実なものと告げていた。
ようやく辺りが明るくなってきた朝霧の埠頭に、一人の女が立っていた。
船の居ない突端に強く弱く寄せる波を、揺蕩う海鳥をその瞳に映すこと無く、両手で押さえ持つ一羽の鳥に囁きかける。
無事に、可能な限り早く、片割の所に辿り着くように、と。
祈るように捧げ、そして空へと放った。
バッ――とその美しい銀の羽を広げて、鳥はすぐさま力強く羽ばたいた。
そして見る間に海の向こうへ、遠い空へと見えなくなった。
「――ロスヴィータ」
背後から声がかかり、女はそちらを振り向いた。頭巾の端から覗く葡萄赤の髪が揺れる。
「あぁ、ヴォイチェク。どうかしたのかい?」
「ローレライ=ウォルシュが訪ねて来た」
「ロルが? こんな時間に、何だろうね」
女は首を傾げながら踵を返し、その場を離れた。
「知らん」
むっつりと不機嫌そうな顔をする男に、女は思わずくすくすと笑った。
「あんた、いい男がますます男前になっちまってるよ」
「……おれはいい男でも男前でもない」
隣を歩くヴォイチェクの言葉に、ローズはより笑みを濃くする。
「まったく、あのロルって男は何処までもお役立ちだねぇ」
「……」
「あんたにそんな顔をさせるやつなんて、そうそういないからねぇ」
普段あまり感情を表に出さない寡黙なこの男が、これほどまでに心を揺り動かされている、というのが女にはたまらなく愉快だった。
にんまり、という表情で彼女は船の傍に立つ人影に向かって手を挙げた。
「おはよーローズ姐さーん」と暢気な語調ながら恐ろしく良い声が答える。
「……無表情のつもりはないんだが」
巨躯の男が低い声で呟く。
「ま、表情豊かすぎて腹の内が読めないよか、よっぽど好きだけどね。あたしは」
そう言うと女は相変わらず仏頂面をしているヴォイチェクの、その広い背中を軽く叩いて彼の前を歩いて行った。
放たれた銀色の鳥は、愛しい
それは、一報を受ける前に既に出航し、レグアラにほど近い海域で待機していたザクファンスの商船だった。
――混乱が収まれば、そこには必ず商機がある。
そう断言し船を差し向けたのは、ザクファンスの商家アルジュートを担う若き当主ルティウス。
銀の鳥に託された手紙を受け取った船人は、率いる船団に合図を送りすぐさま船を走らせて、わずか2日の内に目的の港へと到着した。
速やかにもたらされた外国からの物資と国からの援助により、街は見る間に活気を取り戻し、人々は閉ざしていた窓や扉を開いて、街路を掃き清め花を飾った。
暦は初夏を迎えようという頃。戻って来た平穏と目前に迫った季節に向けて、街の人々誰もがそわそわと幸せな忙しさに追われ始めた。
そうする内に、多くの人々は冬の寒さと辛さの記憶を彼方へと追い遣り、燻る思い持つ者達もまた、その身を潜めることとなっていったのである。
「海賊の捕縛は成らなかったものの、邪魔ものが去ったことは確実ですし。御咎めは一切無しとしましょう」
窓辺に立った彼は、外を眺めたまま視線を寄越さずに言った。
「申し訳、ございません……」
男の震えた声が小さく応える。
「仕方ありませんよ。不測の事態が起きたのですから。我々にも予想し得なかった力が働いたようですし」
「そのようで……」
無論王使は、議会に対して直接的に何かしらの罰を下す権限は持っていない。それでも、彼の報告の如何によっては、窮地に立たされることは明らかと思われていたため、市長は心底安堵したのだった。
「早急に各方面へ航路の安全が確保された旨を伝え、船の航行を再開させて下さいね。くれぐれも、街の安定を損なわぬ様、よろしくお願いしますよ」
彼は碧い瞳を細めて微笑んだ。窓から射す光が、濃い陰影を落としたその表情は酷く不穏に見えて、市長は伝う冷や汗を拭うこともせずただただ頷くだけだった。
そうして王使は街を後にしメルドギリスへと帰って行った。
事後の処理や調査の人員を残した為、来た時よりも幾分人数を減らした一行が街道を駆け抜けた後を追う様に、ザクファンスから届いた物資もまた、レグアラから各村や宿場へと流通を始めた。それを受けてジズナクィンの人々はやっと、事態の収束と遅すぎた初夏の訪れを知ったのだった。
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