100 - 霧中の襲撃
「敵襲だー!」
「武器を持てー!」
誰かが叫んだ。
途端、霧の向こうから鉤爪の付いた縄が何本も飛び出し、黒い矢が一斉に降り注ぐ。
「うわぁぁぁー!!」
わあぁ――わあぁ――!
響く声は悲鳴か、それとも鬨の声か。
炎が空を薙ぎ、射掛けられた矢が燃え尽きて灰が降る。セフィの仕業だ。
「ヘルガ、隠れてろ!」
アレスは娘を船首楼の方へと押し遣って、抜き放った剣で第二波の矢を払った。
矢が治まると、次は手に手に武器を持った男たちが飛び込んで来る。
帆柱の綱を使って、あるいは鉤爪の縄を頼りにかけられた板を渡って。
髭面の者、片目に黒い眼帯をした者、乱杭歯を覗かせ威嚇する者、はちきれんばかりの隆々とした筋肉を見せ付けるように、上半身に鋲の付いた皮具しか身につけぬ者――皆一様にその瞳を欲望の炎で輝かせている。
「いやよ、そんなの!」
押された体を翻して、その場に留まろうとする娘。
逃げるつもりなど無い、絶好の機会なのにとでも言いたげな表情に、アレスは思わず軽く眩暈を覚えながら背後からの殺気に振り返って剣を振るう。
鋭い剣戟音が響き、相手の三日月刀を弾いた。体制を崩した男に回し蹴りを食らわせて再度ヘルガを向き直った。
畏れが無いにも程がある。
こんな状態で話し合いなど出来るものか。
とにかく現状を収めて、とっ捕まえてふん縛るとかして、それから。それからだろう、問い詰めるのは。
今、彼女に出来る事は何一つ無い。願わくば、下層の船室に避難しておいて欲しい。
今はとにかく、足手まといでしかないのだと――そう、思いながら咄嗟に言葉にする事がアレスには出来なかった。
「くそっ!」
若い娘は恐らく、海賊達にとっては獲物の部類に入るのだろう、背後からヘルガに掴みかかろうとした男から引き離すようにその腕を引いた。
背に庇い、海賊達に向かって剣を構えた。
「とにかく、今は離れるな!」
ローズの部下らは皆、程度の違いは有れど戦いの心得があった。
それでも四人が護衛として雇われたのは、主に数少ない非戦闘員と、それから船を守るためだ。
自分達の身は自分で守れる者達でも、それ以上の誰かや何かを守るというのは、容易な事ではない。
海上においては主帆柱、舵、船室への入り口等々船そのものをまず守らねばならないのだ。
敵襲の瞬間、彼らの反応は早かった。
セフィがまず第一波の矢を落とし、そしてロル、アーシャもすぐさま守るべきものの傍に立って戦闘態勢に入った。
「アレス、どこ!?」
彼の傍に、ヘルガが居た筈だ。彼女は戦えない。ちゃんと、避難させられただろうか。
要らぬ心配だと分かっていたが、アーシャは船首の方へ視線を向けた。
「なに、やってんのよ!」
そして思わず悪態をついた。その背に娘を庇ったまま、彼は戦っている。
――非戦闘員はまず避難させるってハナシでしょう!?
襲い掛かってきた男を長い柄で強打し伸して、アーシャは二人の元へと駆けた。
今、舵はローズが守っている。
矢の雨も止んだ。
腕っ節も豪胆さも、彼女に勝る者は居ないと船員達は話していたから心配は要らないだろうが、海賊達は次々と襲いかかってくる。
――うおぉぉぉぉ
――わぁぁぁ
あちらこちらで剣戟音が、雄叫びが、何かが酷く砕ける音が響く。
攻撃の合間に、セフィは何とか昇降口に荊の守りを施していた。魔物よりも積極的に嫌なところを狙ってくる者たちに対処するのは、酷く骨が折れる。
「渡された板を外さなければ……!」
脂ぎったいやらしい表情の男達が剣や斧を手に、だがそれを振るう意思を見せないまま迫ってくるのを軽やかにかわし蹴り倒しながら横付けされた船に目を遣った。黒い、大きな船だ。
セフィのその言葉が届いてか否か定かではないが、ロルが右舷に取り付き爪鉤付の縄を切り離し、風を起こして飛び込んで来ようとする海賊達を押し返した。縄にぶら下がっていていた者達はそのまま自分の船の甲板やその向こうの海に激しい音を立てて落ちる。
「お前達、あの板っ切れも落としちまいな!」
ローズの声が飛んだ。
板を渡ろうとしていた者たちをロルの呼んだ強風が押し返す。
同じ風に煽られて、船が揺れる。
――カーン! カーン! カーン!
唐突に響いた、乾いた鐘の音。
「撤収ー! 撤収ー!!」
ぐらつく足元に気を取られたかに見えた海賊達だったが、その号令を合図に素早く反応した。
「なに!?」
取るものも取らず慌てて自分達の船へ引き上げていく。
ユーディットの船員らは、その切り替えの早さに思わずあっけにとられた。
何とか渡りきった者達が板を外すか外さないかの内にすぐさま海賊船は速度を速めた。
櫂を出してこぎ始めたらしい。同時に置き土産とばかりに矢が降ってくる。
そして当然のように霧が彼らの行方を覆い隠してゆく。
「ちっ! 逃がしゃしないよ! 追うんだ!」
矢の雨を振り払いながら、ローズが叫ぶ。伝令が走り、すぐさまユーディットも速度を上げた。
霧に僅かに透けて見える灰色の船影は、ほとんど白で塗りつぶされようとしている。
ロルは船首の方へ駆け、船首楼上に立って右手を翳すと前方に意識を集中させた。
背中を押すように風が吹き、厚い霧が割れる。その向こうに隠れていた岩礁が、灰色の海が、重なり合う白い三角の波頭が露になった。だが。
「え……!?」
此方より大きな船だ。
逃げ隠れはしにくいはず。
だが、霧を退かしたその先に、既にあの船の姿はなかった。
「どういうことだい!?」
同じように前方を凝視していたローズが声を荒げるのが聞こえた。
「……どこへ、行ったんだ?」
頭上を旋回する大鷹を見上げたロルにセフィが駆け寄り、その腕に手を掛けて、もう一方の手で前方を振り払う仕草をする。
更に大きく霧が裂けた。だがやはり、どこにも船影はない。
「セフィ?」
「……アーシャとアレスの……それから、ヘルガ嬢の姿が見えません」
視線を寄越さないまま腕に触れた指先に、力がこもる。
「――わかった。レシファに聞くよ。先に怪我人の手当て行ってて?」
「……」
一瞬の瞠目の後で、いつも通りの声で応えたロルにセフィは頷き、踵を返した。
ゆるゆると幕を引く様に、霧はまた彼らの前途を覆い隠そうとしていた。
「ローズ姐さーん!」
彼はそう呼ばわりながら、船橋に居る女に駆け寄った。
彼女は無口で頑強な体躯の副船長ヴォイチェクに指示して舵を任せ、甲板に下りて来ようというところだった。
「ロル。ご苦労だったね。……やつらがどこに行ったか、見えたかい?」
「いや、全然。上の見張りからも何も見え無かった?」
「あぁ。まったく、どこに消えたってんだ……」
ローズは腹立たしげに頭を掻いた。
「ところでさ。ウチの二人とヘルガちゃんがいないみたいなんだよね」
やや声を潜めて言ったロルの言葉に、ローズは驚いて目を見開く。
「なんだって!? まさか、落ちたのかい!?」
「いや、落ちては、いないと思う。恐らく」
――落ちていたら、我が拾い上げている。あの黒い船だ。
ロルの脳裏に直接語りかけるのは白狼の声。セフィの使役である彼は影に潜み、船上で起きた全てを見ていた。
「多分なんだけど、あっちの船に乗って行ったっぽいんだよね」
「……攫われたってことかい?」
――否。
「どっちかってと、自分で乗り込んで行ったんじゃないかと」
苦い笑みを浮かべるロル。
ローズは額に手を当てた。
「ったく、じゃじゃ馬にも程があるよ。……わかった。そのことは後で話し合おう。とりあえず、後処理だ。その辺に落ちて浮いてるやつらを助けてやらんとな」
呆れと謗りと諦念の入り混じった溜息を吐いて彼女は髪を掻き揚げた。
甲板では船員達が忙しく動き回り、辺りには相変わらず視界を弄う白い霧が恥じらう様に踊っていた――。
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