099 - アリアナ岩礁地帯

 朝靄かと思われた霧は、辺りが明るさを増しても晴れることなく太陽の在り処を曖昧にしている。

ひんやりと湿った白いヴェールが幾重にも張り巡らされているかのように、触れるか触れないかの内に揺らぎぶつかり合い濃淡を変えながら目の前を覆い、甲板の上にまで蟠る。

 辺りの音まで曖昧にしようとするように、微細なざわめきは塗りつぶされ、船が海を割り波が船を撫でる音と軋む木の音だけが妙に響いている。

 無音ではない静寂が満ちていた。

「なんだ、あれ。岩……?」

白い景色の中に、所々灰色が浮かび上がる。染みのようなそれらは、近づいていくと奇妙にゴツゴツした輪郭を露にしていった。

「そう。こっからが、この航路で唯一の難所。アリアナ岩礁地帯さ」

誰にともない呟きに応えた彼女は、豊かな葡萄赤の髪を乳色の風にそよがせて、見晴らしの良いその場所で舵を取っている。

「アリアナ岩礁地帯……」

「慣れたやつらでも、日の無い時には通らない。常に霧が出てるからね。かといって迂回をすれば5日は多くかかっちまう。通れる路(みち)がないわけじゃないから、夜明けを待ってから入るのさ」

まるで巨大な門柱の様な岩の間を通り、船は静々と進んだ。

確かに、大型船が離合するのに不足無い程度には幅のある海路のようだ。――ただ、分かりやすい一本道ではないのだが。

「道、分かるのか?」

濃紺の髪の少年が言って振り仰ぐと、水色の目尻鋭い瞳を愉快気に微笑ませて彼女は頷いた。

「あぁ。化け物と、沈没船に気をつけておくれよ」


 商家の娘ヘルガの依頼を受けて船、ユーディットに乗る事になった一行は、船長との顔合わせの際、やはりというべきか一戦交える事になった。所謂"力試し"というものだったわけだが、自分が受けるのが恐らく最も納得いってもらえるだろうと言ったセフィがあっさりと勝利してしまったため、また四人全員が何かしらの魔法を使えると知ったため、船長以下船乗り達は彼らを大いに歓迎した。

 時に酷く荒れ、時に凶悪な化け物の出現する、逃げ場のない海を往く船乗り達は同業者、仲間内の噂話や情報を重んずる。加えて自分達に無い力持つ者に一目を置くことが多分にあった。自分達の力を過信せず、同行者に信頼を置いて関係を良好に保とうとするのは船長であるローズ=オツェアンの意向のようであったが、船上という限られた空間においての諍いや仲違いが命取りになりかねないことを心得ているならからこそ、当然のことだったのだろう。


 航海は概ね順調だった。大きな帆は常に風を捉え、滑るように湾を抜け出し、外海に出てからも波と潮の流れを上手く掴んで進んだ。

また比較的魔物の出難い航路を取ったため、船上での戦闘はそれほど頻繁ではなく、その魔物の襲撃も不寝番や彼ら四人の警戒により唐突に受けることもなかった。

 彼らは――求められたわけではないが――時に船での雑務をこなし、時に船長や航海士から船の事、海図の読み方を教わり、それからザクファンスやレグアラ、メルドギリスの話を聞いたりして過ごした。

 そういった具合で、ザクファンスの街でゆっくりとすることは結局できなかったが、彼ら四人にとって船での旅は穏やかなものだった。



 立ち込めた霧は、湿気を孕んでひやりと冷たい。ぼんやりと浮かび次々と現れる岩陰は様々な形、大きさだが、どれも同じ色をしていた。波も潮も風も激しくは無く、船は慎重にゆるゆると進む。警戒しているのだ。岩陰から現れるかもしれない海の怪物を、あるいは霧の向こうに潜んでいるかもしれない、ならず者共を。見ればいつもより、見張りに立つ者がやや多い。アレスたち四人も、交代で立つのが常になっていたが今は全員が甲板に出ている。

 ローズと言葉を交わした後、アレスとセフィは船首側左舷、ロルとアーシャは船尾側の右舷へと別れて立っていた。

「本当、すごい霧ね。ね、これって、魔法でどうにかならないの?」

背後から声がかかり、セフィはそちらを見た。橙の髪の少女が歩み寄り、アレスの隣に立って海を見詰る

「どうにか、とは?」

「え、たとえば風で飛ばしちゃうとか……?」

アレスの向こうから、濃い色の瞳を向ける少女。セフィは少し考えてから答える。

「不可能ではないかもしれませんが、出来るとは言えませんね」

「? どうして?」

「常に霧が出ている、ということですから。……一時的に晴らせたとしても、船がこの場所を抜けるまでにはそれを何度も繰り返さなければならないでしょう。どういった方法を執るにしても、自然に逆らってその状態を保持し続けるのは大変な魔力を消耗するのです」

「ふぅん、そういうもんなんだ……」

納得したのかしていないのか分からない返事をし、ヘルガは船の進む方へと再度目を向けた。その濃緑の瞳は注意深く、そして何かを期待するように爛々と輝いている。


 彼女がレグアラに向かう目的は、会ったその日に聞いた。

海賊騒動を解決させたい――その思いは彼らとしても共感できないわけではない。

だが、「レグアラへ渡って海賊騒動に関する情報収集をする。海賊の根城が分かればそこに乗り込んでいって話をする。でもその前に、海で出くわす事があれば、その方がありがたい。何にしても、直接会って話したいのだ」との主張にはやや驚かされた。

彼女の中では、もう何週間も前からそうしたいと思いやっと実行に移した、ということなのだそうだが、自らを守るすべを持たないことを考えれば、やはり無謀と言わざるを得ない。

――ま、他にいい方法があるのか? あるなら教えてくれって言われて、答えられなかったのは、おれらでもそうしたかなーってことで。しゃーないとは思うけどなー

と思いつつ、アレスはヘルガを見た。

 食材が無駄になると厨房には立ち入らせてもらえず、それならばと手出しした洗濯も掃除も、決して手馴れてはいない。ヨハンナやギュンターに比べて――彼らは使用人であるし普段からそういった仕事に当たっているから当然とは言え――生活力の低さは際立っている。彼女がこの船において出来る事はほとんど無いのが現状だ。彼女は船主であるから、客として乗っていると思えばそれは悪い事ではないのだが。

――自分で成し遂げたい事のために、例えばそれが自分自身の力だけでは無理な事柄だったとして、誰かを雇うっていうのは、まぁ間違ってはいないよね。そうさせうる、財力なり権力なり魅力なりを持ってるってことだし

とロルは笑って言った。

 自分達は傭兵ではないが、利害の一致でレグアラへ渡る手段を提供してもらえた。そう思えば、文句の言いようはない。

ただなんとなく納得が行かない気持ちがするのは、その無謀が気がかりなだけだろう。

例えば不正や不満や不条理に直面した時に、戦う力が無いからと口を閉ざし、ただじっとしているべきだとは思わない。そういった状況を打開せねばと思うなら、考えることが出来るなら、たとえ自らが非力で無力であろうと戦おうとする人物の方が好きだ、とアレスは思った。

「何? アレス、どうかした?」

「……いや、楽しそうだなぁと思って」

何気なくその強気な横顔を眺めながらそんなことを考えていたアレスは、くるりと此方を向いて問われたのに少しうろたえた。

「楽しいわよ? だって、何かが起こりそうじゃない」

悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 彼女は、海賊被害のことを知っていると言っていた。何隻もの船が沈められたということも、そして命を失った者が多数いるということも。それにも関わらず、彼女は不安や恐怖を見せることは無い。恐怖を楽しみにすりかえる人種なのだろうか、それとも、自分だけは大丈夫だと思っているのだろうか。だとしたら少しどころか大いに心配なところだ。

アレスは思わず眉を顰めた。

「本当に何か起こったらどうすんだよ?」

「大丈夫よ。だって、守ってくれるんでしょう?」

にっこりとヘルガは微笑んだ。一見屈託の無い少女風だが、どこか含みのある表情で。

「……船の護衛は引き受けたけど、身辺警護までは言われてない気がする」

「あら、でもすぐ傍でか弱い女子が魔物やならず者に襲われてたとして、放っておける? おけないでしょう?」

ずいっと詰め寄られ、反論できずに「あぁ、まぁ……」と曖昧に頷いた少年の姿に、セフィは思わずクスクスと笑ってしまった。

どうやら彼は押しの強い女性に弱いらしい。そういえば以前、彼の姉もまた気の強い女性だと言っていた。

「セフィ~」

笑い声に気付いてか、少年が助けを求めるようにセフィを見た、丁度その時。

「お頭! 船影です! 前方、やや左!」

見張りに立っていた男の声が頭上から降ってきた。緊張が走り、その場の者達は皆言葉に従い其方に目を遣った。

「何て船だい? 船籍は?」

「まだ、見えません! いや、書いてないのか?……なんだありゃ、傾いてやがる……」

最後は独り言のようだったが、彼の声は良く聞こえた。

程なくして、確かに、どこか歪な格好をした船の影が霧の向こうに見え隠れし始めた。

舵を握るローズは、徐々に近づきながら、だが、横を通る際に一定の距離を保つためやや右へと逸らせていく。

ギイィ――ギイィ――ギイィ――

木が擦れる嫌な音、破け煽られる旗や帆が空気を打つ音が耳に届く頃には、無残に打ち捨てられた様なその姿が彼らの目前に現れていた。

「難破船……?」

帆柱は折れて本来の姿を失い、張られていたはずの綱はだらしなく垂れ下がっている。

霧の向こうに見えるそれはまさに幽霊船然り。

何者かに、襲われたのだろうか。この、場所で。

「どこの船だ?」

傾いた船体に書かれた文字は、ずいぶんと掠れてしまって読み取れそうにない。

船からの漂流物は、ここへ至るまで特段何もなかったはずだ。

一体いつ頃、このような状態になったのか。そして、乗組員は一体どうなったのか?

それにしても、損傷箇所は見受けられるが、沈没せず流されもせず留まっているのは何故か。

先ほどまで白いと思っていた霧が、どこか灰色がかってきている。

その場の皆が恐らく、同じ疑問とぞわりと背筋が寒くなるような不安を胸に抱いただろう。

そして何かしらの手がかりを求めて、霧の向こうに目を凝らす。

ゆっくりとユーディットは難破船の横を通り過ぎようとしていた。

「待って! あそこ、何か書いてあるわ!」

落ちそうなくらいに身を乗り出していた橙の髪の娘が、声を張り上げた。

指差す先に、掲げられた小さな旗のような布。

「どこだ?」

「何て書いてある!?」

皆が皆、その不気味な船の正体を確かめようと左舷に取り付いていた。

船が傾くのではないかと感じるほどに。

その時、

――逆だ! セフィ!!

鋭い声を聞いたのは、呼びかけられた唯一人。

「!」

だが、弾かれた様に振り返った瞬間、アレスが、ロルとアーシャがそれに気付いた。

「マズい!!」

ほんの刹那遅れて、ローズが傍の屈強な男に舵を任せて剣を抜き放った。

音や気配すらなく、霧の中から現れた黒い船がすぐ傍に迫っていた。

ユーディットに、横付けしようとするかのように――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る