094 - 月夜の路地
街は、海辺の小さな集落から始まったという。
十分な水深がある湾という恵まれた地形ゆえに人や物が流れ交わる場所となってからは急激に発展し、今では背後(南部)に連なるエニの丘の中腹辺りまで居住区を広げている。
港近辺には漁業関係者と交易関係者達が住まい、その傍には船乗りや外国からの旅人をあてこんだ宿や土産物屋が所狭しと軒を連ね、天幕が張られた街路は雨でも濡れることなく、晴れの日には強い日差しを受けることなく歩くことができた。
ザクファンス大聖堂と行政機関は町のほぼ中央辺りに置かれ、丘のふもとには手工業者や職人が多く住み、迷路のような狭い路地を行くとそこに遊ぶ子供たちの声に混じって様々なそういった音が聞こえてくる。
路地の奥の階段や、幅のある坂道を登っていくと、広い敷地を持った屋敷が立ち並ぶ区画に出る。主に外国との物資のやり取りや海運業で財を成した者たちが港や街を一望できる辺りにこぞって家を建てたのだ。庶民には面倒な坂道も、お抱えの馬車を持つ階層の人々には苦にならないらしい。
東側には港に適した海岸線を断ち切るように岩山があり、断崖絶壁とも言えるその頂上部には――先日に彼はここから水平線へ向かう船を見送ったのだが――既に廃墟となったかつての砦が雨風にさらされて半分以上地面に埋まっている。ベーメンからの街道は、その岩山をやや登って下り、古からあるような佇まいの聖スウェニア聖堂の傍を掠めて市街へと続いていた。
彼は丘をやや登り、張り巡らされた鉄柵と、その向こうに初夏の花咲く庭を持つ、青い屋根の邸宅にたどり着いた。前日にレグアラへの船を出したという、アルジュート氏の屋敷だ。
大きな両開きの扉のすぐ横手にある呼び鈴の取っ手を引くと屋敷の中で鐘の乾いた音がし、覗き窓から顔を出した使用人と思しき人物に、レグアラへの船に関して主人に尋ねたいことがある旨を伝えた。
先触れ無くの訪問だったため実際に取り次いでもらえるとは期待しておらず、別の日時に面会の約束くらいはしてもらえないかと思ってのことだったのだが、どういう訳か彼は屋敷に招き入れられ、応接室へと通された。
勾配下側の広い裏庭に面して
ソファに腰掛け、彼が一通り辺りを見回した頃、
「お待たせして申し訳ない。旅の方。ようこそ我が屋敷へ」
そう言いながら入ってきたのは、この部屋の雰囲気にふさわしい佇まいの男だった。橙に近い赤みの強い金髪をゆるく後ろに撫で付けて、くっきりとした眉が露になっている。やや細い一重の瞳は針葉樹の深い緑。年の頃は20代半ばから後半だろう。
礼に則って立ち上がろうとしたリーを仕草で制しその向かいに腰掛けると、連れ立っていた執事らしき初老の男が手早く、だが丁寧に茶を整え、主人である男の背後に直立した。
「私が現在当家を預かる、ルティウス=アルジュートです」
「ヴァレリーア=イーリスと言います。突然押しかけて申し訳ありません。お時間頂いてありがとうございます」
まず、非礼を詫び感謝を述べたリーに、男は人のよさそうな微笑で返した。
「それで、今日はどういったご用件で? あぁ、最初に申し上げておきますが、レグアラへの船は出せません。申し訳ないのですけれど」
唇に浮かべた笑みとは裏腹に、彼の気配は決して柔らかではなかった。
おそらく、これまでもそういった――レグアラへの出航要請や無理な相談を持ちかけられてきたのだろう。
「えぇ、そういった話は既に聞き及んでます。ただ、昨日出航した船についてお聞きしたいと思いまして」
先手を打たれたことに心の中で舌打ちしつつ、だが彼はそれを微塵も感じさせない表情を浮かべた。
「そうでしたか。……困りましたね。あの船は、妹が勝手に出したものなのですよ。――どうも、レグアラとの交易が途絶えたことが気に入らないらしく、自ら乗っていってしまったのです」
「――勇敢なお嬢さんだ」
ルティウスは執事から何やら書類を受け取り、それを繰りながら、返したリーに苦い笑いを見せた。
「お恥ずかしい話です。あれは少々……否、過ぎるほどのお転婆でして。そういうことですので、私としてお教えできることは限られています」
「……乗客の名簿か何かがあればと思ったのですが。友人が、乗船した可能性が高くて」
彼の言葉に、ルティウスは眉をひそめて「それは心配ですね」と言うと手元の書類から数枚を差し出す。
「港湾管理局に提出されたものの写しです」
それは乗員、乗客の名簿と、予定航行経路を記したものだった。
礼を述べて受け取り、目を通して彼は頭を抱えた。確信していたことだったが、やはりセフィはあの船に乗っていってしまったようだ。
「やはり乗船されていた?」
「――そのようです。どうにか追いつけないかと早駆けしてきたのですが、間に合わなかった……」
手元にあると握り締めてしまいそうな書類をルティウスに返し、リーは苦しげに瞑目する。
「失礼ですが、どちらから? どういった……?」
「南――フェンサーリルからです。友人の母親から言付かったことがあって。あぁ、もう少しで追いつけたのに……」
彼のあまりの落胆の様子に、ルティウスは気遣わしげな表情を見せる。
「お力になれず、申し訳ない。私たちとしても、船を出せない現状は大変な痛手なのです。どうにかせねばとは思うのですが――」
「いえ、オレとしては確証を得られて感謝しています」
言って、リーは微苦笑を浮かべた。どうあっても、船を出してくれとは言わせてもらえそうに無い。――やや大げさかと思われる仕草もしてみたが、どうやら彼は情に絆される人物ではないらしい。
「――ところで、南方から来られたと言う、貴方に少し私からもお聞きしたいことがあるのですが」
「……」
ルティウスの言葉にリーは瞳で先を促した。
「これより南の街で、今回の海賊騒動に関して何かしらの噂を耳にしましたか? 王都には伝達されているのでしょうか?」
最初、この屋敷の扉を叩いた時にも彼は南方からの旅人だと告げていた。おそらく彼が招き入れられたのは――ルティウスがこの情報を知りたかったからなのだろう。
「いや、全く知らなかった。オレ自身急いで駆けて来たものだから、情報を入手しそびれていたのかもしれないのですが――。ただ、それでもここまで耳にし無かったってことは――」
「意図的に情報統制が敷かれている可能性がある、か……。さて、本当にこれが市長らの手に負える問題なのかということだがね」
向かい合う訪問者から、手元のカップに視線を落とし冷笑とも取れる表情を浮かべたルティウスは一時流れた沈黙の後で、また元の柔和な笑みで彼にこう提案した。
「いや失礼。こちらの話です。どうぞお気になさらず。――差し支えなければ、どの辺りに滞在されているか伺っても? もしレグアラへ向かった船の情報が何か入ればお伝えしましょう」
昨日この街に着いたばかりなため不案内なのでと前置いて宿のある地区名だけを述べ、それから少し海賊被害の現状等話を聞いてから礼を言って彼はその場を辞した。
本当は、どうにかしてもう一度船を出してもらえないかと頼みたかったのだが、ルティウス=アルジュートは第一声から牽制し、そうは言わせてくれない雰囲気を始終漂わせていたため、長居をしてもそれ以上の収穫が望めないだろうと判断したからだ。
アルジュート氏の屋敷を出、それからリーはこれまでに名を聞いた、海運業や交易を営む他の商家を訪ねて歩いた。出航予定はないか、レグアラへ向けて船を出してもらえないか掛け合ってみることにしたのだ。だが、昼までに回った数件の邸宅で門前払いを食らい彼は諦めて下の街に戻った。
港湾管理局員が、レグアラへ向かう船はないと言ったのが確かに頷けるほど、本当に船を出してくれる者は見つかりそうに無かった。
同じ様に2日過ごした。
商家を訪ね、港で船を探し、街や酒場で情報を集める。
そうしてザクファンスに着いて3日目の夜。宿へ戻る道すがら、彼はこれからのことを考えていた。
もうしばらく留まり船を捜すか、もしくは自分が船主となって向かうか――もちろん小型にしろ船を購入し乗組員を集めるとなると、用意された支度金と手持ちの金銭では全く足りないので、資金集めから始めなければならないのだが――それとも、別の経路をとるか。此方南からジズナクィンへはどうやっても行けない訳だから北からを考えなければならない。
他に思いつく手としては、市庁舎に直接海賊討伐の部隊結成を要請し、それに参加させて欲しいと直談判するくらいしかない。だがこれも、街の人々の話、市議会の評判を聞いているとあまり期待できそうに無い。
どれもあまりにも途方もなく、可能な手立てが見当たらないまま時間だけが過ぎていく現状に、彼はひたすら焦燥感にさいなまれていた。街道を駆けていた時の方が、自分の足で確実に先へ進めたからまだよかった。今は自分ではどうしようもないことで足止めされている状況で、それがまた苛立ちを募らせる。
悶々と思考しながら、彼は港にも程近い薄暗い路地を歩いていた。風向きのせいか海岸に打ち寄せる波の音が今日はやけに大きく聞こえている。
――なんだ……?
思案に耽っていたが、それでも明らかな違和感。先ほどから、ヒタヒタと背後をつけてくる気配がある。
何気なく立ち止まり、夜空を見上げた。足音が止む。
そして再度歩き出すと、何事も無かったかのようにまた動き出す。
彼に追いつかぬよう、離れぬよう何者かがついて来ているのだ。
「……」
彼は不意に駆け出した。
慌てた様な気配を顕にして追いすがって来る、何者か。
角を曲がると横の壁を駆け上がり、せいぜい1階建てだろう低い建物の屋根の上で跪く。
「!?」
追ってきた勢いのまま角を曲がった男は、彼の姿が見えないことに吃驚して辺りを見回した。
そして地面に写った月の影に気付き、そちらを見上げて再度驚いた様だった。
「誰だ? 何の用だ?」
逆光で、此方の表情は分からないはずだ。
彼は威嚇するように声を低くして男を見下ろした。
服の上からでも分かる鍛えられた体躯の男だ。乱雑に伸びた青灰色の髪を首の後ろでひとつにまとめたその先はボサボサと好き放題に跳ねている。
「何者だ?」
ぽかんとした間抜け面を晒している男に、彼は再度問う。
男は目を瞬き、そして慣れない猫にそうするように表情を和らげて腰に手を当てた。
「さすが並の旅人と違うってか。すげぇな」
「……」
「いやいや、悪い。そう警戒しねぇでくれよ。あんたにちょいと提案したいことがあるんだ。降りてきちゃくれねぇか?」
「……」
「ジズナクィンへ行きたいんだろう?」
風が上空の雲を動かし月を隠したのだろう、辺りの明暗の境が薄れた。
「――どこでそれを?」
「そこら辺の酒場さ。ふれ回ってたのはあんた自身だろう」
その言葉に、確かにその通りだと一人ごちて彼は男から数歩離れた辺りに降り立った。
と、同時に男が瞬時に距離を詰め、振り上げた拳を彼に向かって繰り出す。
「!」
だがそんな男の動きなど、彼には十分予測できたことだった。
その攻撃を難無くかわし逆に刃を突きつける。
「それで試したつもりか?」
薄暗がりに、翡翠の瞳が鋭く光った。
「へ、へへ、こりゃ失礼。悪かったって。一応な、まぁ、うん」
腕は立つ方かと聞くよりも手っ取り早いと考えたのだろうか。
緊張した表情をなんとか緩ませて、男は両手を挙げて降参の姿勢をとる。
「提案とやらを聞かせてもらおう」
男に害意が無いのは明らかだったから、彼もまた刀を納めた。
「レグアラまでの船の護衛を頼みたい。積荷やら船員についての詮索はナシだ。ついでに風魔法なんかを使えてくれるとありがたいんだが……」
やや大き目な鼻の頭を掻きながら、男は太い眉をひょいと挙げる。どこか親しみを誘う表情だ。
「オレの魔法属性は大地だ。期待に沿えなくて悪いな」
帆船は風を捕らえて進むため、その風を操る能力を持つ者は重宝がられる。逆に海の上、つまり大地から離れた場所であり植物も無い海上では大地の属性魔法はあまり効力を発揮しないと思われがちだ。
だがそれは、魔法のことをよく知らない者たちの見解であって、
「――ただ、船が木造なら多少なりとも影響力はあると思うが?」
確かに立つ場所によって有利不利はあっても、自分の力が無力化することはないと彼は知っている。
「そうなんか? そいつぁありがてぇ。ま、どっちにしろあんた以外にアテはねぇ」
彼の言葉は、魔法に関する知識の無い男には理解不能なことであったようだ。ただ、彼の言外の快諾の意を汲み取ってニヤリと笑う。
「おれぁジェイってもんだ。よろしく頼むぜ」
言って男が片手を差し出した時、再び雲が晴れ月明かりが路地を照らした。同時に、日に焼けた快活そうな男の表情が顕になる。
深く詮索してくれるなというこの男――怪しくない訳が無い。だが、人好きのするその容貌は決して悪辣な風ではなく、何より彼が最も望むことを叶えてくれるという。その代償に何を求められたとしても今彼の持つもので盗られたくないもの、失って困るものなど、自身の生命の他にないのだ。
「リーだ。それで、出航は――?」
願っても無い好機。だが、酒場を訪ね歩いていた彼は、こういった展開を予想していなかった訳ではなかった。
やっと、という感も否めないが――その手に軽く手を打ち合わせて、彼もまた不適に笑んだのだった――。
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