093 - 港街ザクファンス
川辺に下り、馬達に給水をさせて休息を取り、彼はまた街道に戻った。日暮れまでにもう少し進んでおきたいと思ったからだ。
ソグの馬車一行は、川に下りた時点でそのままそこで1泊するつもりだったようだが、リーが再度出立すると知って慌ててついてきた。彼の調子に合わせて進めるなら勝手について行こうと考えたようだった。
結局その日は不本意ながら同行者となった馬車の一行と1泊することになり、その際に男の一人――蛾に襲われ蹲っていた、マヌエルと言う名の茶髪の若者――が、リーに語ったことによるとやはり、ソグは街道上で何かを拾っていたという。
古くからある街道の敷石の所々に使われた結界石を、そうと知って持ち去る不届き者が居るとは知っていたが、まさか出くわすことになろうとは。だが彼自身それを問い質して縛り上げるだけの強制力は持っていないし、役所に突き出す義務も無い。
ただ、何も知らないマヌエルらに街道上での魔物頻出の現状を役所に届けてはどうかと提案するに留めた。
そうしてなんとか着いてこようとしていたソグ一行だったが、翌日の午後には遥か後方に見えなくなっていた。必死で追いすがることを止めたのだ。
使われていただけの者たちには少し可哀想な気もしたが、そうも言っていられない事情が彼にもあった。
目指す先はザクファンス。港街だ。ここでセフィが船に乗って出航してしまえば、せっかく詰めた距離がまた開いてしまう。彼はとにかく先を急いでいたのだ。
街と海と遠ざかる船を見た後で、彼は丘を下りた。
辿ってきた街道は丘の途中から始まった街の通りになり、通りはそのまま下の町の広場まで続いていた。
漁業と交易の街ザクファンスは港街の常として様々なものが行き交い、混在し、虚と実の区別がつかないあらゆる噂話が集っては散じる場所だ。だが賑やかな表通りから一歩入ると、白い家並みに洗濯物がはためく、どこか庶民的な雰囲気のある街で、食事時ともなるとあちらこちらで魚を焼く臭いが漂い、細い路地には猫達が遊ぶ。日に焼けた人々の表情も心なしか人懐こく見えた。
街に入った彼は、そのまま大きな通りを港まで抜け港湾管理局を訪ねた。丘から見たあの船が向かった先は、ジズナクィン大陸の玄関港レグアラのはずで、次にレグアラへ向かう船がいつ出るのかを確認するためだった。
「出航予定はない? どういうことだ?」
港の傍に位置する石造りの無骨な建物に入り、窓口で船舶の運行状況を尋ねた。
だが返ってきた答えは「レグアラへの船はない」ということで、
「ここはジズナクィン大陸への船が最も出ている港だと聞いていたが」
リーは咄嗟に食い下がった。
対応をしてくれたのは、青い髪に白いものが随分と混じった、壮年の男だった。
彼自身も船に乗っていたのだろうか、日に焼けた肌と鍛えられた体躯が見て取れる。
「あぁ、そうだ。今となってはそうだった、だ。2ヶ月程前から定期便は一切運休してる。客船も、貨物船も、全部だ。無論レグアラからの船もほとんど来ない。……他の地方や大陸への船は問題なく出てるんだがね」
口元の髭を弄りながら、来訪者と局員を隔てる木製のカウンターに肘を着いて男は答えた。その向こうには数名の局員が机を並べて何やら書類整理をしている。窓から差し込む光は眩しく、壁にかけられたこの辺り近海の地図と世界地図を照らしていた。
レグアラはアムブロシーサや他の多くの大陸からジズナクィンの王都メルドギリスへ向かう者達が必ず利用する玄関港の街だ。彼の大陸には他にも海に面する街は存在するが、そのほとんどが漁村か漁師町で、港があるとは言え漁船などの小型の船にしか対応していない。というのも、ジズナクィン大陸はレグアラのある南東部以外の海岸線のほとんどが断崖絶壁か困難な岩礁地帯で大型船の航行が難しく、また複雑な海流故に大陸は見えども港以外に船を寄せることができないため、レグアラへ立ち寄らず他の港に向かうことはまず考えられないのだ。
他の港に向かうにしろ、他の大陸へ行くにしろ、レグアラへは多くの船が寄港し西へ東へ、そして北へ南へと向かう。
そこに船が行けないとなると、実質ジズナクィン大陸は閉鎖されていると言っても過言ではなかった。
「最近聞いた話だと、他の港からもレグアラへは行けないらしい。まぁ、あの大陸より北方からのはどうか詳しいことは分からんが、ここザクファンスからレグアラへは行けないよ」
立ち尽くす彼に、男は言葉を重ねた。
「……一体何が起きてるんだ? 魔物か?」
北方の海が荒れる冬とは違う。今は航海しやすい季節のはずだ、と彼は船が航行できない理由を問う。
「……どこでも何も聞いてないのかね?」
「あぁ、悪い。さっき着いたところなんだ」
申し訳なさそうに首を振った彼に、男は、ならば仕方ないかと話し始めた。
「確かに魔物も増えてるんだがね、海賊が出るんだ。こことレグアラとを結ぶ航路上に。魔物に襲われにくい比較的安全な航路ってのがいくつかあって、そこを通るとほぼ確実に海賊が出る。だからといって魔物の多い海域を行くわけにもいかず、船が止まっちまってる状態だ」
「じゃあ、さっきの船は? 丘から船が出たのを見たんだが、レグアラへ向かったんじゃなかったのか?」
「あの船はアルジュート氏のとこの特別便だ。ヘルガお嬢さんがどうしてもって出した船でね。わしらとすれば装備も心もとないし、行かせたくはなかったんだが……」
「……」
「そうやって、個人でどうしてもって出す船が全くないわけではないが、ほとんどない、というのが現状だ。船を出したところで無事にレグアラへたどり着ける保障もない。悪いことは言わん、今は諦めるんだな」
諭すような物言いは、彼を気遣ってくれているのだろう。だが、リーは、思わず唸る様に低い声を発した。
「……待てば、海賊騒動は収まるのか?」
2ヶ月前から海賊が出没しているという。にも関わらず、フェンサーリルからここまでそういった噂話を聞かなかったのはおそらく、この街の統治者が国に訴えずに自分たちでどうにか解決しようとしているからだろう。情報を広めまいとしている意図が見て取れる。
「なんとも言えんな。海賊を拿捕するために市長が何もしてないわけじゃないらしいが、どうにもやつら周到でね。捕まえようとすると尻尾すら見せない。もちろん、レグアラとの交易が滞れば困る者も多いが、最近じゃあ別の取引先へ振り替えてどうにかやってる商店もあるくらいで……」
「オレはどうしてもレグアラに――ジズナクィンに行かなきゃならないんだ」
男の言葉をやや遮る形で彼は言った。
いつ解決するともしれない騒動を、この場所でただ傍観して時間を無駄にするわけにはいかない。
先の船が巻き込まれた可能性がないわけでもなく、せっかくここまで近づいたのにまた時間と距離が開いてしまえば、いつまでたっても追いつけないのではないかという気になってしまう。
「……もうずっと会ってない、会いたい人が居るんだ……」
もう十分待った。少しでも早く会いたい。
この思いを、分かってくれとは言わない。ただ何か、待つ以外にできることはないか。知っていたら教えて欲しいと縋る思いで彼は男に迫った。
「……わしらとしちゃ、あんた一人のために船を出すわけには行かないが……」
彼の事情を聞いて哀れに思ってくれたのだろうか、男はいくつかの提案をしてくれた。
「――個人的に船を出すって人を探すか、もし海賊討伐の部隊が結成されるなら、それに乗り込むか。この辺が可能性としてあるといえばあるだろうな。あとは、そうだな……宿は決めたか? もしジズナクィンへ行くって船があれば連絡してやろう」
海岸には大きな貨物船から小船まで様々な船が大量に係留されている。
親切な港湾管理局員の男に礼を述べてその場を後にし、彼は港へと向かった。船ごとに持ち主や船長を当たり、レグアラへ船を出さないか交渉してみることにしたのだ。だが、数隻尋ねて歩いて、その作業が思った以上に大変なことだと気付いた彼は、諦めて船乗りたちが多く集まる場所――港に程近い酒場に行ってみることにした。何よりもまず、情報が足りない。
船に関わる者たちが常宿にしている近辺で自身も宿を確保し、宵の内から盛り上がりを見せていた酒場を訪ねると、予想した通りそこは屈強な海の男たちで賑わっていた。
「ジズナクィンへ? そいつぁ運がなかったな。今朝、何週間かぶりに出たのが最後だったってよ」
「今後の出航予定? まぁ、海賊騒動がどうにかならにゃあ、どうしようもないな。荷物を届けられない上に自分たちの身を危険にさらすなんて、誰だってしたかねぇからな」
「レグアラへ帰りたがってたやつらもほとんどが今朝の便で行っちまったしよ」
おれたちゃ単なる船乗りだ。航海の危険は避けて通るもんだ、と赤ら顔の男たちは口々に主張した。
飲む打つ買うを楽しみとする男たちは酒をあおり、カード遊びに興じ、艶かしい衣装の女たちを侍らせて豪快な笑い声を上げていた。だが、彼らとて船に乗れなければ収入が得られず路頭に迷うことになる。無論、ここから出る船はレグアラへ向けてだけではなく、他の大陸や町への便もあるのだか、やはり一番の交易相手はジズナクィンだ。
多分に酒気の入った彼らの話しを聞くのは骨が折れるが、それでも不確かな噂話から海賊の襲撃に遭った当事者の話まで、色々と仕入れることができた。
――だからといって、レグアラへの船がそう簡単に見つかるわけも無く、希望が見えないとなると急に疲労感が圧し掛かり、リーは早いうちに宿へと引き上げた。
湯をもらって旅の汚れを清め、整えられた寝台に身を横たえるとすぐに睡魔が襲い掛かってきた。
これまでに得られた情報、耳にした噂話、目にした街の様子――
分析し考えなければならないことは山ほどあるというのに、そのどれもに答えが望めない気がして、無意識が睡眠という現実逃避の甘い誘惑を投げかけてくる。
「……ダメだ」
身を起こし、未だ濡れそぼった髪をガシガシと力強く拭く。思い通りにならない様々に対する苛立ちを紛らわせようとするように。
もう少し早く駆けていれば。宿泊日数をもう少し減らしていれば。街道で愚かな行商を助けていなければ。
悔やんでも仕方の無いことだが、後悔せずには居られなかった。
ひとしきり髪を混ぜた後で、彼はもう一度寝台に身を投げ出した。
「……セフィ……」
そして思わず声に出して名を呼ぶ。喉の奥に何かが痞えている感覚がして酷く苦しかった。
丘の上から見た船は、そう遠くは感じられなかったのに。今は到底追いつけそうも無くて、もう会えないのではないかという思いすら頭をもたげ、気分が滅入ってしまう。
船乗りたちに海賊の話を聞けば聞くほど、その身の安全に不安が募る。もし、何かあったら――傍に居られなかったことを自分は何より悔やむだろう。
セフィもまた、海賊の噂話は聞いたであろうし、危険を分かっていて、それでも船に乗って行ったのだろうけれど。
セフィは強い。それに凶暴な魔物であっても時にその頭を垂れて道を開ける、何かしらの不思議な力を持っている。悪意や戦意のない魔物というのは対峙すればわかるらしく、セフィが魔物と戦う際に迷いは一切無い。だから、よほどのことが無い限り、その命を脅かされることは無いはずだ。――魔物に因っては。
彼にとっての脅威とはむしろ欲に目がくらんだ人間の方だろう。その美しさ、能力の高さと稀少さ、物珍しさ――その全てが、海賊たちには価値高いものと映るはずだ。
あの瞳――黄昏の郷愁と黎明の歓喜を秘めた黄金の虹彩の、全てを見透かし、全てを内包するかのような淡紫の瞳は人が持ち得ない無垢さ故に人々に畏怖を与える。いうなれば、神聖の顕れ――魔性の者が持つという薄紫の瞳とは全く異質なのだ。
多くの者は、邪悪なものが持つそれと混同し、感じる恐怖故に嫌悪する。本能が訴える、膝を折りそうになる感覚の正しい意味を知らないのだ。
なんという誤解だろう。
そして、セフィはきっと、それ故に自分が忌み嫌われ傷付けられても、その相手を救おうとするいかにも聖職者らしい性質を持っている。
彼らは畏怖し、時に恐怖と快感をすりかえて支配欲に取り付かれ傷つけようとするにも係わらず、だ。
セフィの無私なる慈悲が、その精神構造が理解できなくて憤ろしく思ったこともあった。
だが今はなにより、そんなセフィを守りたいと思う。傍に居て、少しでも傷つかないように。もし悲しい、辛い思いをすることがあったなら、慰めてやりたい。傍に、居たいのに。
――それだけじゃない。何より、オレが……セフィと一緒に居たいんだ。
何一つ信じられない。確かなものなど無いと思っていたあの頃――出会った幼子に惹かれたのは寂しさを埋めてくれる何かを無意識に求めていたからだろうけれど。
一体何に真実心動かされたのかは分からない。ただ、出会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。
心が揺れるのを知って、そのあまりに不確かな感覚を大切にしたいと思った、その想いこそが自分にとって何より確かなもので。
それさえあれば生きていける、そのために、生きていたいと思った。
――会いたい……早く、会いたい……
声を聞いて、話をして、肌に触れて、その微笑を、熱を感じたい。
どうしようもなく溢れ出す想いは、既に持て余す程。これ以上会えないで居れば、溺れて息が詰まってしまうのではないか。
喘ぐ様に息を吸って吐くと、暗い天井に無意識にささげた両手が何も掴むことなくパタリと落ちた。
抗い難い疲労感が全身にまとわりついている。
――これが、あの悲劇の……いえ、私たちの真実なのです。
――でもね、リー。あなたはどうか、囚われないで……
――あなたという存在が、あの子にとってどれだけかけがえの無いものか、分かっているでしょうけれど……
心地よい眠りの闇に、マーサの穏やかながらも厳しい声が優しく響いた。
潮騒の音と人々の喧騒は徐々に遠ざかり、やがて彼の意識は波に攫われ溶けて形を失った――。
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