085 - 紅い髪
通りは夜の濃紺が帳を下ろし、家々の窓には暖かな橙が灯る。人々は、あるいは家路を急ぎ、あるいは今宵の酒宴を求めて、気心の知れた仲間の集う料理店や呑み屋へと足を向ける。
アレスとセフィが取った宿は、大通りから1本入った路地にある、地階部分に食堂を備えた旅籠風の宿だった。
天井に黒木の太い梁が渡された店内は明るく、食堂は宿泊者以外の利用客も多く賑わってる。
その一角の卓で、献立表を前にして三人は、もう一人の同行者を待っていた。
「正直意外だったわ。もっと安宿って感じのところかと思ってた」
忙しく動き回る給仕達、人々の笑顔、楽しげなさざめきを漠然と見つめながら少女は呟いた。
勧めてくれた憲兵が、旅人に人気だと言っていたからだ。
「まぁ、勿論安い方が嬉しいですけれど。馬も連れていることですし安全面を考えるとこれくらいの場所には泊まりたいですよね」
セフィの言葉に、濃紺の髪の少年も言葉なく頷く。
「馬が居ると? 安宿はダメってこと?」
「駄目と言うか……しっかりとした厩番がいないようなところは避けるべきです」
「……」
卓に立てた献立表をじっとりと見つめながら、少年は無意識かの様に数度首を縦に振る。
同時に腹が空腹を訴えて鳴り、彼は卓に顎を乗せた姿勢のままセフィを見上げた。
「ハラヘッタ……」
他の卓には既に料理が満載されており、それらを口に運ぶ者達の歓声と共にいい匂いが立ち込めている。
「……そうですね。先に注文くらい、しておいてもいいと思いますよ?」
喧騒の中でも耳に届いた少年の腹の虫の鳴き声に、セフィは言った。
彼が空腹になると途端に大人しくなってしまうことを知っているからだ。
「ん~でも、ロルがまだ……」
お預けを食らって待っている子犬のように見えて、思わず微笑む。
「注文しても、すぐに料理が出てくるわけではありませんし。先に食べたからと言って怒るような人でも無いでしょう」
「もうそろそろ戻ってくるんじゃない? 注文しておいたら丁度いいかも」
付け加えてアーシャも言い献立表に目を移す。彼女もまた、先程から空腹を堪えていたのだ。
「そう、だよな」
垂れ下がっていた耳がぴょこん、と立った。
アーシャと一緒になって献立表を覗き込む。
「やっぱまず肉だよな、肉」
「あ、あたし魚も食べたい。確か川魚の何かあったわよね」
「鶏肉豚肉牛肉……獣肉? どれにするかな……」
少年少女のなんだかんだと言い合う姿を微笑ましい思いで見守りながら、セフィはふと、今日見たベーメン大聖堂の聖人像を思い出していた。
ステンドグラス同様、聖イスファハの傍らには竜が居た。しかも、それは鳥の様な羽を持っていたのだ。
幻獣類竜属の竜――神獣とすら言われる高貴な生き物だと、ロルが言っていた。
力の象徴として表現される竜は、必ずしも翼が鳥様ではない。幼馴染であるリーが強力な魔法を用いた時に出現させた竜もまた、そのような翼は持っていなかったと記憶している。セフィ自身が使う魔法においてもだ。
聖イスファハは市井にあって民意に通じ、人心掌握に長けた人物だったと記されている。
その足跡を辿れば、竜の末裔の居る国<シェ・エラツァーデ>に通じているのだろうか?
「他、何か欲しいものある? セフィ?」
漆黒の瞳が此方を見つめていることに、セフィはハッとなった。
「一応生野菜と果物は注文してあるぞ」
青い髪の少年が、給仕に献立表を示しながら言う。
「あ、いえ、それで十分です」
「そか。じゃ、とりあえずそれで頼む」
小さな帳面に注文を書き留める歳若い給仕の娘は、食堂内の熱気のためか頬を朱に染めながら、
「かしこまりました」と頭を下げてから去っていった。
程なくして、最初の料理が卓に並ぶ頃、待ち人はやっと姿を現した。
「やー遅くなっちゃって、ごめんねぇ」
狭い店内、人々の間を巧い具合に縫って仲間の卓に辿りついた青年は、詫びながら椅子を引く。
「遅いぞ!」
「待ちきれなくて先に注文しちゃったわよ」
下から覗き込むようにじっと、少年と少女は訴える。
「なに、待っててくれたの? しかも注文済みとか、ありがとー」
にへら、と笑いながら席につき、飲物はご自分でお願いしますね、というセフィの言葉に頷いて献立票を手に取った。
「探し物に思ったより時間がかかっちゃってさ。あ、俺のことは気にしないで先に食べてね」
丁度料理を持ってきた給仕に適当に注文をするロルに、少年と少女は「言われなくてもっ」と頬張りながら答える。
そして少女の幸せそうな表情を見ながら彼は
「そういえばアーシャ。憲兵長が感謝してたよ。お陰で、一味を一気に捕らえられ1るって」
「? 何のこと?」
少女は口の中の物を飲み込んでから問うた。
「アーシャが前泊まった宿の店主店員も連中の仲間だったんじゃないかってことでさ。他にも、この街でアーシャが接触した人間の多くがこの件に関与してたみたい」
「それは……」
言わんとしたことを察したセフィが表情をやや険しくした。ロルは頷いて続ける。
「うん。つまりね、複数の仲間を使ってあの宿を勧めて旅人……アーシャを宿泊させたってこと。そこから全部仕組まれてた可能性が高いんだ」
「え……」
ロルの言葉に、少女は動きを止める。アレスもまた驚いたのだろう、咀嚼の速度がゆるむ。
「支払いの際に吹っ掛けられたって言ってたでしょ? そこをあの二人が助けて、それから一緒に旅をすることになったって」
「……」
無言で頷くアーシャ。
「それくらいのきっかけがないと、なかなか一緒に行こうってならないじゃない? その心理につけ込んだんだ。そしてまんまと仲間になって、一緒に旅路を行き頃合を見計らって置き去りに――。
ヤツら余罪があるらしくて、一緒に宿に泊まって、盗難に遭った旅人もいたみたい。旅人専門の盗賊、とでも言うのかな」
実際、街に着いてすぐの旅人だと見ると呼び込みをする者も多い。
それは、街の活気として当然のことなのだが、そこに旅人を食い物にしようという悪党が居たのだ。
「でも、あたし……」
そんなに油断やスキを見せていたつもりはない。
街に入ると、それまで魔物の襲撃に対して警戒していた気持ちは緩む。
だが、また別の緊張感でもって歩かなければならないことは重々承知していたからだ。
「最初に街に入った辺りか、街を歩いてる時かに目をつけられてたのかもしれないね。女の子の一人旅っていう点で狙われたんんじゃないかって」
「……」
アーシャは悔しさからか唇を噛み締める。
実際、どんなに警戒していても危険度が高いのも確かなのだ。
「確かにアーシャって、ちょっと目立つもんな」
「……どういうこと?」
何気なく放たれたアレスの言葉に、アーシャは険しい目つきで彼を見た。
「あ、いや、変な意味じゃなくて。人目を引くというか、その、紅い髪とか……」
向けられた鋭い瞳に、少年は気後れしつつ言う。
赤毛は、さして珍しい髪色ではない。だが、アーシャほど見事な深紅を、彼は見たことが無かった。
「あたしだって、好きでこんな色の髪してるんじゃないわ」
コップを強く握り締め、どうにか声を抑えている、といった風だ。
「アーシャ?」
「嫌いよ。こんな色」
憎憎しげに、少女は唸る。
「なんで? 似合ってて良い色じゃない」
「大嫌いなヤツと同じ色なんだもの。嫌い」
吐き捨てる様にアーシャは言い、コップの中身をぐいと飲み込んだ。
爽やかな柑橘系の香りの冷茶が、悔しさに渇いた咽喉を滑り降りていく。だが、それでもざわめく気持ちは落ち着かず、唇を噛み締め卓の上の一点を鋭く見つめた。
「……」
あらゆる言葉を拒否するような少女に、アレス、ロルの二人は口を噤む。
彼女の確執がどこにあるのか、少しだが聞いていたから一層下手な事は言えないと感じたのだ。
「……私の瞳を、怯むことなく真っ直ぐに見て下さった貴女が、そんなことを仰るのですか?」
僅かの沈黙の後で、呟くようにセフィが言った。
はっとなって少女は顔を上げる。
「貴女の知る紅い髪が、嫌いな人物のものであったとしても、これから出会う全ての紅い髪の人を憎いと思うわけではないでしょう? 場合によっては、それは愛しい色になるかもしれない」
心の奥に染み入るような声で、セフィは語る。
「……うん……」
否定したり、反発したりといった感情が一切生まれてこないから不思議だ、とアーシャは思った。
「そして私は、これから出会うだろう紅い髪の人々に、貴女を思い親しみを覚えるのでしょうね」
優しく微笑みかけるその表情から、言葉から純粋で真摯な思いが伝わり、自らの
それは酷く穏やかで、心地の良い感覚。
「そう、だったら、嬉しい……」
その感覚につられるようにアーシャもまた、はにかむ様に表情を緩ませた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます