071 - 少女と旅人
少女は、青年を追いかけるのに必死だった。
森を歩くことに関して、多少自信はあるつもりだったがやはり、年齢と性別の差は歴然。
だから少女は、道なき道を行く青年の後姿を追いかけるのが精一杯だった。
時にじわりと水の染み出す地面は柔らかく不安定で、倒木や下生え、好き放題に伸びた蔦が行く手を邪魔する。
少女が遅れを取っていることなど、気に留める様子も無く青年はどんどん先に行ってしまう。
振り返らず、声もかけない。
少しくらい待ってくれてもいいのに、とも思ったが、無理矢理ついてきてしまった手前何も言えず、少女は黙って青年の後を追った。
早朝村を出てから、休んだのは昼食の時だけ。恐らくほとんど変わらない調子で彼は黙々と歩き続けている。
鬱蒼と茂る草木は緑が深く、時に目にする花々は鮮やかな原色。奇怪な鳥の鳴声が響き、まとわりつくような甘い香りと濃い空気が満ちた獣道すら見当たらない森を北へ――決して見失うことのない大樹に向かって。
「あっ……!!」
ズルリ、と足を取られ、派手に転んだ。
地面は硬いわけではないが、それでも強い衝撃。
歩きっぱなしでとっくにつぶれてしまったマメがじくじくと痛み、疲れきった足は棒のように動かない。
少女はもがいた。
早く起き上がらないと、追いつけなくなってしまう。
心ばかりが焦り、身体が言うことをきかない。
「ふぇ……」
嗚咽が漏れそうになって、腕の間に顔を埋めた。
顔を挙げて、後ろ姿が更に小さくなってしまっていたら、呼んでも応えてくれなければ、自分はきっと、もう二度と歩き出すことはできない気がして、転んだ姿勢のまま動けなかった。
「……?」
近付いてくる足音。
「おい、大丈夫か?」
そして、差し伸べられる手。気遣う声。
思わず泣きそうになった。
目尻はやや鋭いが優しい、翠緑の瞳をしっかりと見つめ返して頷く。
そしてなんとか起き上がった時、彼の表情に緊張が走った。
鳥の声が止んでいる。
「動くな、ミナ」
言うが早いか、彼は少女に姿勢を下げさせ荷物を置いて片刃の剣を抜き放つ。
その背が、ミナの視界を塞いだ。
現れた敵から少女を隠すために、そして少女を怯えさせないために――
だが、不自然な葉のざわめきと奇声は、それだけで少女に恐怖を与えた。
「動くなよ」
もう一度そう言って彼は大地を蹴った。
ミナは思わず目を見開き息を詰めてその姿を目で追った。
恐ろしいはずの戦いの場面から、視線を逸らすことが出来ない。
けたたましい奇声を上げて高い木の枝から、彼に向かって飛んだ赤い猿の化物が空中で交錯し、そのまま地に落ちる。
着地と同時に刃を一振りして血糊を落とし、続け様に襲ってきた2匹を突き、そして首を刎ねる。
決して鈍ることのないその刃の切れ味は鮮やかで、青い光が閃く様。
硬い体毛に覆われた、俊敏な動きを生み出す屈強な肉体と太い尾を持つ凶悪な猿の化物を一太刀で屠った彼。
少女は思わず見惚れた。そして、近付くものに気付かなかった。
突如頭上が陰り、生臭い血の匂いが鼻をつく。
赤黒い猿の口腔が、尖った牙が、すぐ傍に迫っていた。
「キャーー!!」
ミナの鋭い叫びに、リーは反射的に其方を見る。
特に巨大な猿が、大口を開けてまさに少女に掴みかかろうとしていた。
「ちっ……!」
舌打ちと共に跪き、彼が大地にその手を触れた瞬間、少女を守るべく優しい荊が包んだ。
同時に、巨大な石壁が少女と猿の間に立ちはだかり、そして押し潰す様に猿の方へと倒れる。
彼は素早く立ち上がり、逃れた2匹が自分に飛び掛かってきたところを薙ぎ払った。
駆け寄り、頭を抱え蹲っている少女の無事を確認すると、石壁で倒した大猿を流砂でそのまま大地に埋めて、逃げ出した3匹を生じさせた無数の石槍で串刺しにする。
キキィィィ――!!
甲高い奇声と共に最後の1匹が半ば自棄になったように飛び掛ってきた。
「……」
無言のまま胴を一閃。
切られどさりと地面に落ちた音を最後に、辺りは静かになった。
彼は一度刀を振って血を振り払うと鞘に収めた。
少女を覆った荊は音もなく大地に消えていく。
「ミナ……もう大丈夫だぞ。……ミナ」
小さくなっている少女に声をかけながら背を優しく叩いてやる。
ミナは恐る恐る顔を上げ、手を突いて身体を起こした。
「おにいちゃ……」
「怪我はないか?」
「う、うん……」
目に映る青年の姿に安堵し、零れてしまいそうだった涙を何とか飲み込んだ少女は、汚れてしまった手や膝を払いながら立ち上がった。
否、立ち上がろうとして、足の痛みを思い出し動きを止める。
「どうした?」
既に荷物を背負いかけている青年が、頷いたものの立ち上がらない少女に尋ねた。
魔物に負わされた怪我はない。だが、先ほど転んでしまった時に打ち付けた膝が、そして歩きすぎた足の裏が痛い。
「……」
応えないミナ。
リーは跪き顔を覗き込む。だがミナは唇を引き結んで視線を下にし、目を合わせようとしない。
「……足が痛むのか」
先ほど派手に転んでいたことを思い出し、察するのは容易いことだった。
ミナは大きな目を見張って頷くこともしない。
ただでさえ無理やり付いてきてしまって、自分の分の荷物まで持たせてしまって、これ以上足手まといになりたくないのに。
堪えたものとは、また別の涙が込み上げてきそうだった。
小さな膝に治癒魔法を施し、少し考えた後で彼は少女の履物を脱がせた。
「あっ……!」
擦れる痛みに、ミナが悲鳴を上げる。
リーは、咄嗟に逃げを打つ足首を掴んで傷の程度を検分すると
「……なんでこんなになる前に言わない?」
溜息をついて言った。
ミナの足の裏は、靴に当たっているであろう部分のほとんどに痛々しい水疱が出来、潰れて酷い状態になっている部位もある。
おそらく傷む場所を庇いながら歩き続けたために、何箇所にも飛び火してしまったのだろう。
「だって……!」
「いや、悪い。オレが自分の調子で歩きすぎてたな」
普段の草履とは違う、履き慣れない靴で長距離を歩く幼い少女に対する気遣いが足りなかった。
少女が口を開くのとほぼ同時に、彼は反省の言葉を口にした。
お兄ちゃんが待ってくれなかったから、そう言いかけたミナは言葉を飲み込む。
リーは少女の足に改めて治癒魔法を施し、更に潰れていないマメを短剣で刺して水を出し、手早く治療する。
そして肩から掛けた荷物を前に回し、有無を言わさず脱がせた自身の靴を持たせるとミナに背を向けて跪いた。
「ほら」
負ぶされ、というように招く青年。
先ほど転んでしまったのは、何も足場が悪かったせいだけではない。
足元が覚束ないほどに、少女の足は疲れを訴えているのだろう。
「でも……」
彼は二人分の荷物――ミナは自分で持つと言ったのだが、そうするとより遅くなるからと彼は少女の分も引き受けた――を持っている。
「もう少し進んでおきたい」
戸惑う少女に肩越しに振り返って言う、翡翠の瞳が優しく苦笑した。
ミナは頷き、その背に身を預けることにした。
視界が広がり、すぐ傍で湿気を含んだ艶やかな黒髪が揺れる。
力強い、確かな足取り。
絶対的な安心感と、その背は懐かしい父を思い出させながら、また違う異国の匂いを纏い、あまりにも心地良かった。
それは変な緊張や意地を溶かすのに十分で、気安い雰囲気につられる様にミナは口を開く。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「どうしてそんなに急いでるの?」
もう随分進んだように思うのに、とミナは問うた。
「……本当は、1週間……7日で片付かないようなら放っておいて立ち去ろうと思ってた」
「えっ……!?」
青年の言葉にミナは驚き身を寄せて、顔を覗き込む。
リーは横目で少女を見、そして笑った。
「大丈夫だ。今更そんなことしねぇって。でも、出来れば早いとこ片付けてしまいたいんだ」
「どうして?」
「――久しぶりに、家に帰る途中だったからな」
青年は少女を背負いなおして前を見据え、優しい表情のまま応える。
「お家に早く帰りたいから、急いでるのね?」
「あぁ」
頷く彼の瞳は穏やかな郷愁と、どこか苦しいような切なさに満ちていた。
「そっかぁ……」
彼は旅人だと言った。そして、故郷はフェンサーリルという国だと。
諸国を旅する者にも帰る場所があることを知らなかったミナは少し不思議に思ったが、家路を急ぐ気持ちは理解できたから、
「じゃあ、ミナ、お兄ちゃんが早く帰れるように明日も頑張って歩くね!」
青年の背に負ぶわれ、一緒にいてもいいのだと得心した少女は明るく言った。
彼の負担にならないためには、彼の言に従うことが一番だとミナはなんとなく理解したのだった――。
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