第2部

051 - 最果ての街にて

呼ばれたような気がして、見上げた空。

黄昏時のそこに、黒い染みのような影。


竜だ、と思った。


ひどく、懐かしい光景だった。


見えた、というよりも、そう、感じた。


鼓動が高鳴り、全身を駆け抜けた熱が感覚を鮮明にして



誘うように、影は飛び去ろうとする。

離れ難い気持ちに、思わず駆け出した。


細切れの雲を寄せ集めた塊は、希薄な部分や僅かの隙間に白や金の縁取りがなされ

すり抜けた光は鮮やかで淡い帯となり


空を見上げながら、草の原を走る。

高度を下げた影が光に射られ、その輪郭を輝きが縁取る。


竜。美しき幻獣。


 待って 置いていかないで


鼓動は早鐘のように打ち、呼吸は酷く乱れて胸を締め付ける。

それでも、駆けることを止められない。


やがて大地の終わりに辿り着き、どこまでも続く海原が眼下に広がった。

それ以上進めないという所で、足を止め

膝に手をつき俯いて、全身で肺に酸素を送り込む。

苦しい呼吸が僅かに整うと、堪らず空を見上げた。


竜は、変わらずそこに居た。


 傍に来て 降りて来て もっと近くに

 触れられるくらいに、近くに


希う様に、両手捧げた。


 降りて来て 傍に来て 触れさせて

 連れて行って どうか私も


竜は、雲間から射す光の中に溶けて消えた。

走った所為だけではない、胸の痛みが襲う。

その姿が見えなくなった途端、言いようの無い思いに、涙が零れた。


 愛しい翼よ どうか私も 連れて行って


そして、名を呼んだ。


竜の名を――






「よくない場所に出たな」

すぐ傍を羽ばたく子竜が呟いた。

そこは教会の定める世界地図における最果の地。街には、目に見えそうな悪意が満ち溢れていた。

 

 亀裂は、歪みに生じやすい。そして、捻じ曲げられたことによる歪みは、生き物をひどく歪ませる性質がある。いや寧ろ、歪んだものを惹き付けるのかもしれない。

「人間達の住処に、良いも悪いもないと思うけど」

少年が棘のある言葉で返せば、子竜は彼にだけわかる表情で、そうだなと苦笑した。

『それならば野宿でもかまわないのに』。そう言ったこともあったが、獣ではないのだからと子竜は聞き入れなかった。

確かに堅い地面で眠るより、整えられたベッドの方が心地良いのは確かだから、それ以上突き詰めなかった。

 だが子竜が、憎むべき人間達の暮らしの中に身を置くことをこだわるのは他ならぬ自分のためだと少年は知っている。

少年は、いつか人間達の世界に戻るという契約の上で子竜によって救われ庇護されている。

傍にいられるのは――いつか時が"二人"を出会いへと導くまで。


 人間は子竜にとって、憎悪の対象でしかない。

片方の眼を奪い、大切なものを、全てを奪った人間。

その傍に身を置く苦痛。時に、露にする感情を少年は知っている。

むしろ少年もまた、人間への愛着などは一切無く、子竜以外に大切なものはなかった。

お前は人間だからと言いながらも、気遣い優しい眼差しを向ける子竜。

人間だからと言われる方が違和感のある少年には、だが、契約上の関係であってもそれが全てだった。

「気をつけろよ」

子竜は翼を仕舞って、少年の肩に降り立った。鋼色の鳥様の翼さえなければ、珍しい体色の蜥蜴に見えないこともない。だが、見た目ほどの重さのない身体は、彼が特殊な生物だからだ。

 少年は頷き目深に頭巾フードを被った。


 そこは街と言うにはあまりに煩雑な造りの建物群だった。法や秩序や政治はなく、あるのはただ欲望と快楽と利己主義、損得勘定。ただ人々が集まり、建物に住み、生活しているだけ。それでも、街という体裁を持っているのだから、宿と食事くらいにはありつけるだろう。

騎獣に関しては、子竜が幾種かの獣を召喚獣として支配下に置いているので問題はない。あとは、旅に必要な最低限の装備さえ手に入ればいい。

恐らく街を守るために築かれたのであろう、隔壁は高く、むしろ牢獄の様な印象を与える。だが、ところどころ欠け崩れたまま放置され、染みや落書きに汚れた様は既に本来の役目すら果たすことはできていない。

「っ……!」

子竜は鋭い感覚で異様な臭気のようなものを察知し顔をしかめる。

「ブラッディ?」

微動に気付いた少年が足を止めようとするが、

「気にするな」

子竜に促されそのまま街に足を踏み入れた。

 まだ日は高い所にあるというのに、道端には酔っ払い座りこむ者、建物の陰には虚ろな瞳や、やたらギラギラした視線を向けてくる者達がいた。

少年はそれらに目をくれることなく足早に通りを行く。いい店や宿は街の人間に訊くのが確実なのだが、そういう気にはなれなかった。自分と、そして子竜の勘を頼る他ない。

「ややっ! そこな坊っちゃん! ねぇ、あんただよ、ねぇってば!」

ねっとりと親しげな声がした。

自分に向けられていることは明らかだったが、少年はあえて無視する。

「旅の人だろぅ、坊っちゃん。俺ぁホセってんだ。な、この街は初めてかい? いい宿教えるぜ!?」

行く手を塞ぐように少年の前に立ち、大袈裟な身振り手振りで言う。薄汚れてはいるが、不潔な風ではない。さも善人であるかのような表情の男の気配はだが、ひどく不快だった。

「必要ない」

冷たく言い放ち少年は取り合わない。

「そんなぁ! ねぇ、そうつれなくしないでよ、坊っちゃん」

「触るな」

その横をすり抜けようとした時に肩を捕まれ、少年は反射的にその手を弾く。

「いてっ」

男は大袈裟に驚き弾かれた手を擦り少年を睨め付けた。

「んだよ! お高くとまりやがって! 人が下手に……」

「よぉ、ホセじゃねーか」

「!?」

いつの間にか数人の男に囲まれていた。少年を口説くのに夢中になっていたホセはその面子に気付き硬直する。自分の様にセコイ小悪党とは違う。この街で、その名を知らぬ者などいないであろう、凶悪集団。

「悪ぃな、ホセ。そいつぁ俺のダチでよ。迎えを遣らしたんだが、すれ違っちまったみたいだな」

「グリフィスさん……!」

「あぁ、てめぇが見つけてくれて助かったぜ」

にやにやと笑いながら少年を取り囲み、内の一人がホセの肩を組む。

「あっつ……!」

火のついた煙草をその手の甲に押し付けて、突き飛ばす。

囲いから弾き出されたホセは、ヒィと小さな悲鳴を上げてその場を逃げ出した。

「お、なんだ? 珍しい生き物連れてんな、どれ?」

頭巾フードを被る小柄な少年の肩の生物が、見慣れぬものだと気付いたグリフィスが手を伸ばす。

「……」

少年は無言で身をかわし、銃を抜く。

反射的に手を挙げかけた男は、だが、少年の手にしたものが見知った武器でないと知ると侮った笑みを浮かべた。

そして、それよりも露になった容貌に興味を引かれた。

後頭部辺りで結った黒髪は襟足を僅かに掠めて、白い肌を覗かせている。目尻の鋭い、大粒の瞳は勿忘草の色。

まだ性差の判然としない幼さの残る顔立ちは剣呑な目つきにも関わらず、どこか可愛いらしさを感じさせる。

ひゅう、と誰かが口笛を吹き、男達は下卑た笑みを浮かべた。

「こいつぁなかなかお目にかかれないような上玉じゃねーか」

「その手の趣味のヤツに高く売れるぜ」

「多少仕込みが必要かもしれんがなぁ、どうだ? あぁ?」

舌舐めずりするような表情。

その醜悪な様に、少年はガチリ、と親指で銃の後方のハンマーを下ろした。

 銃。古代の武器。子竜によって与えられたそれは、既に彼の手によく馴染み引き金を引くことに躊躇いはない。

その正体を知らぬ男達は、嘲笑う表情のまま少年に手を伸ばした。

「……下衆どもが……」

「止めろ、イザヤ。殺すな」

「! ちっ……!」

突如現れた紫銀色の髪の幼子。

少年は舌打ちし、手元をずらして引き金を引く。

破裂するような、打ち付けるような鋭く、腹の底に響く音。

突き抜けた衝撃に絶叫をあげ、男の体が大きく傾ぐ。

ジワリと赤い血が染み出す肩口を押さえグリフィスは膝を着いた。取り囲んだ男達は驚きと狼狽、正体の分からない恐怖に縛られ動けない。

「五月蝿い」

蹲り、焼けるような激痛に喚く男に、少年は吐き捨てる様に言い放った。

再び銃口を向けられ、凍りつく男達。

「イザヤ、止めろ」

「……ブラッディ」

「放っておけ」

「……」

幼子の静かな声に、少年はやや不満げにだが銃をしまう。

そして冷たい一瞥の後で男達に背を向けた。

「……何故、止めた」

「あんな下等生物相手にお前が手を汚す必要はない」

歩き出し憮然と問う少年に、幼子は大きな瞳で見上げて答える。

「何をしてる! お前ら!! ヤツを逃がすな……捕らえろ!!」

呻きと共に肩を撃たれたグリフィスが喚く。男たちははっとなり、僅かに戸惑った後で弾かれたように咆喉を挙げ、無防備に背を向けた少年に襲いかかった。

だが、その凶器が少年に届くよりも、振り返った幼子がまだ小さな手を翳す方が早かった。

「愚かな、人間が」

片側だけが露な瞳は黄金。魔性の証。本能が畏怖を訴えかけた瞬間、黒い炎が辺りを舐めた。

――!!!

無音のまま、苦痛と恐怖に満ちた闇が男達を包む。

「……自らの罪に取り殺されるがいい」

幼子は冷たく言い放つ。その静かな声は、まだ少女の様でありながらどこか威厳に満ちていた。

「……」

悲鳴すら呑みこんで、音もなくわだかまりうごめく闇から目をそらすと、脅えた瞳で震えている男に気付いた。

「人間、ホセとか言ったな」

すくみあがり動けない男に声をかける。

「いい店とやらに案内してもらおうか。おかしな真似をすれば、わかっているだろうな」

黄金の瞳が不穏な光を湛える。ホセはとにかく頷いた。ただ絶大な恐怖が彼にそうさせた。

 炎のように揺らめいていた闇はやがて収縮し、溶けて消えた。後には、いくつもの人形をした黒い塊が散らばっていた――。

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