028 - 空のグラス
孤児院を出たセフィは足早に路地を駆け抜け大通りへと向かった。
人込みを縫うようにして南へ暫く下ると、橋状に大通りを十字に跨ぐ大きな壁の連なりが見えてくる。そこに張り付くようにある階段を登り、人通りも疎らな見晴らしのよい壁の上の通りへと出たセフィは右手側、西の方角へ、数軒の店が軒を連ねる辺りまで一気に駆けた。そして『ウェイスのパン屋』と書かれた飾り窓の前で立ち止まった。
『営業中』のプレートが掛かってはいるがどうやら今は客がいないらしい。店番の娘が退屈そうにカウンターにもたれかかっている姿が見える。
セフィは僅かに上がった呼吸もそのままに扉を押し開けた。
――チリンチリン
ドアベルが可愛らしい音をたて、
「いらっしゃいま……あっ! セフィ様っ!!」
反射的に言いかけた娘が、入ってきた青年の姿を認め声を上げる。
「こんにちは。シリン」
セフィはニッコリと微笑み言う。
「こんにちはっセフィ様っ! ちょっと、待って下さいね……!!――母さん! 母さん!! セフィ様が来たわ……!」
娘、シリンは嬉しそうに応え、そう呼びながら店の奥へと入って行った。
セフィは香ばしいパンの香りが漂う中、呼吸を整えながら見慣れた辺りへと視線を彷徨わせる。昼時をもう随分と過ぎているため棚に並ぶパンの数は少ない。時間的には夕食分を買いに来るお客のための準備をしている頃だ。
「いらっしゃい」
奥から中年の女性が姿を現した。シリンの母だ。
「こんにちは。フリッカさん。――すみません、遅れてしまって……」
申し訳なさそうに頭を下げる青年に
「いいんだよ。そんな、気にすることはないさ。時間、大して過ぎちゃいないし。それに急いで来てくれたみたいだしね」
フリッカは健康そうな頬を緩めて声をかけ、手に持った大きな籠(バスケット)――布を被せてあるが長いパンがはみ出している――を差し出した。
「はいよ、これ。とりあえず頼まれてたモンは揃えておいたよ。確認してくれるかい?」
「はい。ありがとうございます」
セフィはずっしりと重いそれを受け取り、同時に渡されたメモと籠の中身を確認する。
これから向かう移民救貧地区に届けるためにと買出しを頼んでいたものだ。
内容が全て揃っていることが分かると
「……確かに」
そう言って頷いた。
「そりゃよかった」
「いつもすみません、手間をお掛けしてしまって……」
「いやいや。構わないよ。あんたの頼みならいつでも喜んで引き受けさせてもらうさ。ウチなんかでよかったらね。それに……」
フリッカは腰に手を当て明るく笑い
「それにあの娘、あんたが来るのいつも楽しみにしてるんだよ」
最後の方は声をひそめるようにしてニヤリと言った。
「……? はぁ……そうですか。そう言って頂けると、とても助かります」
セフィは少し首を傾げ安堵したように微笑み、
「それでは……」
と辞意を告げる。だが
「まぁまぁ、そう急がんでも。水の一杯でも飲んでいったらどうだい? 走って来たんだろ?」
「待ってっセフィ様っ!」
フリッカが言うと同時にシリンが奥から出てきて呼び止めた。
手には、水の入った透明なグラス。
「……?」
娘の差し出したものに、きょとんとして自分を見る青年にフリッカは声には出さず、笑いながら頷く。
「ありがとうございます」
セフィはやんわりと微笑んでそれを受け取った。
汲みたての水は冷たく喉を潤す。
光の映る透明な液体が、薄紅の唇の間に消えていく様、飲み干した後でホゥと漏れた吐息はどこか艶っぽく、女たちの心を奪う。
「……綺麗……」
見惚れたまま思わずポツリと呟いたシリンだが、
「……ご馳走様でした。シリン。とても、おいしかったです」
その青年にくるりと向き直られ思わず顔を赤らめた。
柔らかな微笑み。
娘は、彼のその表情がとても好きだった。
その声で「ありがとうございます。シリン」と言われるのが、とても好きだった。
セフィは返したグラスを大切そうに受け取るシリンに
「それからおつかい、いつもありがとうございます。面倒なことをお願いして、すみません」
「い、いえ……そんなこと……」
「助かってるんですよ。本当に」
苦笑し穏やかな声で言った。シリンは嬉しそうに頬を染める。
「――それでは、失礼しますね」
一呼吸おいて、セフィはフリッカを見、シリンを見遣って深々と礼をした。
「また、いつでも来とくれよ」
ドアノブに手を掛けたセフィにフリッカが声をかけ、シリンが空のグラスを両手で握り締めたまま何度も頷く。その様子を振り返り見て、もう一度応えるように礼をするとセフィは店を出た。
「まぁったく、このコときたら……」
セフィが去り、ボンヤリとしたままの娘に、不敵な笑みを向け
「"セフィ様"が来た時"だけは"妙にしおらしいんだから……」
母は店の奥へと入って行く。
「そ、そんなこと、ないわよっ!」
シリンはその言葉に我に返り、異を唱える。母は訝しげに振り返り
「ふぅ~~ん、そぅか~い?」
「な、何よ……」
「で、そのグラス、どうするつもりなんだい?」
「え……?」
言われ、シリンは指が白くなるくらいに強く握り締めているものに気付く。
「あ……」
「そのまま、店番するつもりかい?」
「……持って、入っておいてクダサイ……」
急に恥ずかしくなって俯き、だがなかば渋々シリンはグラスを差し出す。フリッカはそれを受け取りまたしてもにんまりと笑うと
「安心しな。ちゃんとわかるようにおいといてやるよ」
「!!」
シリンはかぁっと赤くなった。
娘の思いなど、母にはお見通しだった。
「……あんたの気持ちも、わからないでもないからね」
娘に向き直り、今度は優しく声をかける。
セフィの持つ魅力はフリッカも十分に感じていた。
類稀なる美しい容貌は、女性的というより中性的。むしろ性別を感じさせない
心優しく思いやりがあり、教養もある。多くの民から慕われ、国王一家の信頼も厚い。
無論、シリン同様、娘達が思いを寄せる理由はそれだけではないのだが。
――だが彼は聖職者だ。
女たちの恋慕の対象となるべき人ではない。
――彼が、"恋愛感情"を持ち合わせていない様に思えるのは"聖職者であるから"だけではないのであろうが―――
勿論セフィは"恋愛という感情"を知らない様な子供ではない。だが、自分がその感情の対象となり得ることを、分かっていないのだ。
あるのは慈愛と博愛。
誰をも愛し、誰のものにもならない存在。
それくらい承知している。
それもまた、娘たちの思う彼の"魅力"であるのだろう。
思いは、届かないと分かっているのに。
それでも……
――哀れな娘。
「あ~あ。私があと10歳若けりゃねぇ」
黙り込んでしまった娘に母はおどけた様に言った。
届かない、だがその思いは決して無駄ではないと。
そんな母の気遣いをありがたく感じながら
「……あと20歳、の間違いでしょ」
娘は悪戯っぽく笑って応えた。
「あら、言ってくれるじゃないの」
フリッカはどこか満足げに娘の頭を小突き笑いながら店の奥へと入って行った。
「んもぅ……」
シリンは苦笑し、自嘲気味に呟いた。
「……馬鹿ね……私……」
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