006 - 地の底にて(前編)
――……。
遠くで声がする。
心地よいまどろみの波に抱かれて、宙を舞うような、水の中を漂うような浮遊感。
――……レス……アレ……ス……
聞き慣れた声に呼ばれるが、身体は動かない。
眠りへと傾く。
――……ア……ス……――アレス!!
語気荒く耳元で言われ、彼ははっとなって目を開いた。眩しい光が辺りを満たしており、ぼんやりした頭のままで身を起こすと霞んだ視界には見慣れた自分の部屋が映る。
いつもと変わらぬ朝だ。
再び枕へと突っ伏す。
「アレス!! いつまでも寝てないで、起きなさいって言ってるでしょう!?」
――バシッ!!
「……っ……ってェ……」
後頭部を叩かれ、アレスと呼ばれた少年は不満の声を上げ、勢いよく飛び起きた。
「何すんだよ!!」
「あんたがいつまでもダラダラしてるからよ!!」
間髪入れず応えた声の主が目の前に現れた。朝日を浴びた長い髪は瑠璃色に透け、見下ろしている気の強そうな瞳は漆黒。
「……何も殴らなくてもいいじゃねぇかよ」
アレスは頭を押さえながら渋々ベッドから起き上がった。
「殴ったんじゃなくて、叩いたの」
「……どっちも同じじゃん……」
アレスが呟く。
「何か言った?」
「べ、別に……」
「それに私だって忙しいのよ。今日はバロスと逢う約束してるんだから」
両手を腰に当て、言う。
「バロスも物好きだよなぁ……こんな姉貴みたいな……」
「誰が物好きで、私みたいな何ですって?」
――バシッッ!
姉の平手が、呟いたアレスの頭を打った。
「ってェ……」
――……――……
同時に何かが頭を過ぎり、アレスはハッとなった。
「え……?」
――おかしい……?
「何よ」
弟の方に目を遣り、姉が尋ねる。
「……」
――結婚……したよな?? 姉貴とバロス兄ぃって……。
――それよりおれ、どうして……
「? どうしたのよ?」
いつものことだとは思いながらも弟の妙な様子に姉が声を掛ける。
――もし……。
微かな呼び声。
「え?……いま、声が?」
「はぁ?」
姉は腕を組んだまま聞き返す。
アレスはぼんやりと宙を見詰めた。何かがおかしい、そう思い記憶を巡らす。
――……くだ……い
遠い声が木霊する。
「……ここ……家、だよな?……そんでもって今日は……」
呟いた瞬間、急に全てが信じられなくなり、アレスは姉に尋ねた。
「……何月何日だっけ?」
「……」
姉は無言でアレスの額に手を当てた。
「……熱は……ないみたいね……」
「って、やめろよっ! おれ、なんともないって。なぁ、今日って……」
アレスは姉の手を振り払い改めて尋ねた。
――何なんだ? この感覚……
「あんたボケたの?」
「ボケてねぇ! いーから、なぁ!」
詰め寄るアレスに、姉は呆れたような表情を浮かべる。
「今日はねぇ……」
――目を……けて……い。……聞こ……ま……か?
答える姉の声の代わりに、聞いたことのない、優しく澄んだ声がアレスの耳に飛び込み、脳裏に響いた。
視界が、歪む。
「今、なんて……」
「……あんたホントにボケたの? 全くそんなのだか……」
その瞬間。全ての音と光が信じられないような勢いで急激に遠ざかってゆく。
「何!?」
彼は思わず叫んだ。
自らの部屋が、風景が、姉の姿がそして寝起きの自分の姿までが離れてゆき見えなくなる。意識だけが、暗闇に取り残された。
『真っ暗だ……何も見えない……』
自らの声さえ、あまりに不確かだった。
『ここは……どこだ……?』
――……こえ……ます……?
――……を開け……しっかり……下さい……
『身体が……重いんだ……そういえば俺……』
――も……し……
『――落ちたんだ』
――あ……!……今……!……動……
『動く? 何が?……穴に落ちておれ、どうなったんだ?』
――……しっかり……!
『? 死んだのか?』
――……目を……開けて……!
『誰だ……?……泣きそう……?』
アレスには、声の主が誰か思い当たらなかった。
自分は生きているのか? それともまだ夢の中にいるのだろうか?
だが、失われていた感覚は徐々に戻り始め、身体中が軋むのを感じた。
――どこ……痛み……ますか?
遠かった声もまた、近く、鮮明になってゆく。
その時アレスは頬に優しく触れる冷たいものに気付いた。そして、どこか甘く清しい香りと僅かな光を感じた。
――!!
細い光が少しずつ広がりを見せ、闇を切り裂いてゆく。
「う……」
眩しさに呻き声が上がる。もう随分と光など目にしていないような気さえした。
――気が、付かれましたか?
心配そうな声が聞こえ、薄い光が陰る。
――まだ、どこか痛みますか?
「あ……う……」
言葉を発そうとした口中に広がる血の味に、彼は顔をしかめ口篭もった。
『頭が、手と足が……背中が……痛いんだ……』
――……。
声が声にならない。そう思った途端ほのかに花の香りがして、不思議な浮遊感が体を包んだ。あの、夢の淵の眠りのようだった。痛みは溶けてゆき、急速に意識が冴え渡ってゆく。
「どうですか?」
促されるようにアレスは恐る恐る瞳を開いた。ボンヤリとこちらを覗き込む人影が見えるが、遠近感がつかめず、なかなか焦点が合わない。硝子越しの瞳の、こちらを見詰める誰かがいた。
「大、丈夫だ……」
アレスは声を発した。
「あぁ……よかった……」
安堵の声を漏らし、その人はアレスの上から頭を退けた。
手をついて身体を持ち上げ辺りを見渡すと、石造りの床に瓦礫が散らばっているのが見え、更に体を起こし頭を上げ、まず目に付いたのはすぐ傍に跪く美しい娘の姿だった。
側のランプの小さな光だけの薄明かりの空間に、娘は柔らかな表情でアレスを見詰めていた。倒れ付した少年が再び瞳を開くように、言葉と意識を取り戻すように、娘は何度も呼びかけ、回復魔法を掛け、祈り続けていたのだった。卵形の小さな顔の肌は白く、色素の薄い髪は首の後ろでまとめられ、高く通った鼻にはまるでその美貌を隠そうとするかのように眼鏡が掛けられている。だがそんなものでその美しさを隠せる筈が無く、慎ましくも可憐な印象を受ける。
「あ……」
アレスは思わず見惚れてしまい言葉に迷う。娘は、少年の戸惑いの意味がわからず首を傾げた。
「?」
「え……と……おれ……あ、じゃなくて、助けてくれて、ありがとう。それで、あの……ここは……?」
「ここ、ですか?……――ここはこの遺跡の最深部です」
娘は丁寧な口調で答えた。
「遺跡? ここが?」
「そうです。……――もしかして、知らずに入って来られたのですか?」
アレスの言葉に娘は驚いたよう表情で聞き返した。アレスはこっくりと頷く。
「森で、迷っててさ。なんか白い馬が見えたと思ってそっちに行ってみたら、馬はどう見ても野生じゃないし、荷物とかも置いてあって……。ケッコ―長い間森ん中彷徨ってたもんで食料もそろそろヤバかったし、何か分けて貰えたらなぁと思ってさ。けど、人なんてどこ探してもいないし、側には人の入った形跡のある洞窟あるし……んで入ってみた」
「!!」
娘は表情を曇らせた。
「? どうかしたのか?」
「……申し訳ありません……」
「は?」
「私の所為で……貴方を危険な目に遭わせてしまって……」
搾り出すように言い、悲痛な面持ちのまま娘は俯いた。
「へ? って何が?」
「白い馬を見て、と仰いましたよね……?」
「あぁ。ってかアレ、あんたのだったのか?」
「はい……。私が……貴方をこの危険な遺跡に誘い込んでしまったのですね……」
娘の言葉にアレスは慌てて頭を振った。
「そんな……!! おれが勝手に入ってきただけだし、何より、あんたが助けてくれたんだ。謝られるようなことは何も!」
「いいえ。……貴方がここまで辿り付いて下さったからよかったものの、もし途中で……。本当に申し訳ありません……」
娘は真っ直ぐにアレスを見詰めた後深々と頭を下げた。アレスは慌て
「も、もぅいいって。おれ、平気だし、な? 気にすんなって」
宥めるように苦笑する。その言葉に娘は僅かに微笑んだ。
「すみません、本当に……。ありがとうございます……。えぇと、お名前をお伺いしても?」
「え? あぁ。おれはアレシュライ=カエサル。アレスだ」
言ってアレスは、こうやって自分の名を名乗るのがとても久々な気がしていた。
「アレスさん?」
「アレスでいいよ」
自分の名をその澄んだ声で繰り返す娘に、アレスは優しく言った。
「あんたは?」
「私は、セフィリア=ラケシスと申します。」
「セフィラ……カ?」
「セフィリア=ラケシス。セフィで構いませんよ」
娘は――セフィは微笑んだ。そのあまりの儚げなまでの美しさにアレスは思わず頬を赤らめる。
「それで、さ、セフィ。聞きたいことが……」
「はい。あ、少々お待ち下さい。よろしければ、場所を変えませんか?」
「?」
「あちらに。この場所よりはいいはずですから」
セフィは廊下を挟んだ隣の部屋を指した。今居る場所よりも随分と暖かそうな光が漏れてきている。
「わかった」
アレスが頷くと、セフィは片手にランプと血の滲んだ布を持ち、もう一方の手をアレスに差し伸べた。戸惑いながら、アレスはその手に掴まる。
「あれ?」
立ち上がり、ふと手袋と、手に固定した自らの剣が無いことに気付く。
「――手袋と剣でしたらあちらの部屋に運ばせて頂きました。――鞘もいっしょに」
セフィはそう言い足首までをすっぽりと覆うローブの裾を僅かに揺らしながら部屋の出口へと向かった。
「そ、か」
呟き、辺りに目をやると、明かりが乏しいため正確な広さはわからないが随分と広い部屋のようで床は大半の石板が剥げ、土が剥き出しになっているのが分かる。壁には光を失って久しいランプがいくつか。壊れてしまっているものもある。
―― 一体何の遺跡なんだろう?
――……それにしても……
アレスにとっては何故あのような娘がこのような遺跡の奥底にいるかということが、一番の疑問だった。
「……」
「どうかなさいましたか?」
セフィが出口の辺りで振り返り、声を掛ける。
「え? あぁ、なんでもない」
アレスは答え、セフィに駆け寄った。セフィは「そうですか」と頷き、アレスが側にくるのを待って再び歩き始めた。
部屋を出て左手はすぐに袋小路になっており、右手側は光が届く限りではどこへ続く道かは確認できない。
「こちらへ」
セフィは開かれたままだった正面の扉の中にアレスを招いた――。
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