最初期の入植者であるダリウス家はメイヤー家と同じく村の外れにあるため、さほど離れていない。ほどなく男たちの姿が見えてきた。

 フランクとアラン、互いに大柄な男二人が家の前でにらみ合っていた。フランクの後ろには治療所で手伝いをしてくれている若者たち。対するアランは、脱走した男たちに囲まれている。服も薄汚れ、伸びきった髭のせいで彼らはずいぶん小汚く見えた。

 そこに混じってジャンの息子の姿があった。奇妙な取り合わせに見えたが、彼にすれば、アランは父親の仇を討ったことになる。荷担する動機もあるのかもしれなかった。どちらにせよ、彼はあの一件以来エリックたちとは袂を分かっていた。

「好き者のお兄様がいらっしゃったようだぞ」

「黙ってろ。首をへし折るぞ」

「やってみろ」

 フランクが機敏に掴みかかった。襟首を締め上げられたアランは一瞬ひるんだ顔を浮かべたが、フランクがそれ以上何もしないのを見ると、彼の手を振り払った。フランクは抵抗せず、アランは満足げな薄笑いを浮かべた。

「ハッ。そんなにカッカするなよ。俺は父親を引き渡してもらいに来ただけだ。別にお前と争おうっていうんじゃない。そんなよそ者に診せるのなんてご免だからな」

 アランの視線がこちらに向けられた。エリックは挑発を無視してフランクに近寄った。それだけで人を殺せそうな目。拳が握り締められる音が聞こえるようだった。フランクが怒りを抑えている理由は一つだ。

 エディス。黒衣の老婆が、男たちに囲まれて立っていた。

 会議以来、ジャンの息子を筆頭としたエディスの信奉者たちは増え続けていた。疫病への恐怖が彼らを信仰に駆りたてる動機となっていた。

 アランはアンリから現在の村の様子を聞いていたのだろう。ジャンの息子を介してか、彼らはエディスの側についたのだ。そうなればフランクにも簡単には手出しができない。村おさの長男にして後継者である彼がエディスと敵対すれば、ネージュは完全に二つに割れてしまう。疫病が収まった後にも禍根を残しかねなかった。

「モーリスさんがそう望むのであれば、そちらに行かれることは構いませんよ」

「エリック!」

「いいさ。私を信用したくない気持ちもわかる。以前の君のようにな」

「物分かりがいいつもりか。この人殺しめ」

 ジャンの息子が噛みついてきた。ジャンに関する彼の恨みは消えていない。

「私をどのように呼ぼうと勝手ですが、そう言うのであれば、隣の男もそうでしょう。私の知るかぎり、その男は既に三人の人間を殺した殺人者だ」

 二人の顔がさっと色づいた。

「ですから、お父上が隔離所を出ることは構いませんが、あなたは相応の罰を受け、罪を償うべきだ。あの夜とは話が違う。あなたはネージュの村人を殺したんだ。罪もない人たちを」

「知ったことか。どうせ領主には伝えられないんだ。よそ者のお前に俺を裁く権利はない」

 フランクはともかく、よそ者と侮ってきたエリックから糾弾を受けるとは思わなかったのだろう。アランの反論は感情的で、自らの罪悪感を吐露しているようなものだった。

「ならば私がやろう」

 全員が声のした方を見た。額に汗を浮かべたダニエルと共に、クリストフが立っていた。連日の騒動に老齢の村おさの顔にも疲労が色濃かった。それでも重ねた年月と決断の重みが、彼の立ち姿に揺るがぬ威厳を与えていた。クリストフは穏やかに語りはじめた。

「モーリスの奴が駆け込んできた時は夕食中だった。妻が産気づいたと言うが、生憎、私は産婆ではない。私ではなく母に頼めと言った。そう、母がまだ生きていた頃だった。それでもモーリスが不安そうにするから、仕方なく夕食の席を離れ、奴の家まで行った。次の日の昼まで付き合ったんだ。よく覚えているよ。雲のない春の午後だった。知っていたか。モーリスが頭を下げて頼むものだから、赤ん坊は母ではなく私が取り上げたのだ。大きな、男の赤ん坊だった。私がその子を取り上げて名前を贈った。祖父の名だ」

 懐かしむような昔語り。言葉を切るとクリストフはアランを見た。ため息をつく。

「こうなることが分かっていれば、あの時、水に沈めて殺しておいたものを」

 クリストフの口調は変わらずに穏やかで、まなざしには慈愛すら感じられた。

 だからこそ、その言葉はいかなる恫喝よりも恐ろしく響いた。

「まさか私にはお前を裁く権利がないなどと、言いはせんだろうな」

 クリストフは冗談でも言うように尋ねた。アランの紅潮した頬が青ざめ、みるみる土気色になった。自分が産湯を使った時からこの村のおさだった男の、それは本気の憤怒だった。

「俺は……」

 彼が反論を口にする前に、フランクがその腕を掴んで蹴倒していた。後ろ手に拘束すると、背中に膝を乗せて押さえつける。一瞬の制圧に、周囲の男たちは誰も反応できなかった。フランクは父親を振り返った。

「俺がこいつの始末をつける――それでいいか?」

 途端、アランが暴れ出した。フランクはさらに膝に体重を込めた。押し潰されたアランがうめく。彼は片方の手でアランの後頭部を掴むと、容赦なく地面に叩きつけた。鈍い音。

「やめ、やめろ――糞ッ、ぐ――」

 鈍い音。二度、三度。徐々に湿った音が混じる。鼻血が飛び散って土を汚す。罵声からは力が失われる。言葉でも力でも、エリックを含めて誰ひとり、フランクの凶行を止めることができなかった。

 唯一それが出来たはずのクリストフは、息子の行為に無言で肯定を与えていた。表情の変化といえば、やや不快げにしかめられた顔だけだ。

「縄を取ってこい」

 アランが動かなくなったところで、フランクがダニエルに指示を出した。対するダニエルは固まったままだ。「おい」細面は青ざめていた。目の前で振るわれたなまなましい暴力。その恐怖が彼を完全に捕らえてしまったように見えた。

 フランクは舌打ちをして立ち上がると、別の若者に縄を取りに行かせた。彼が膝をどけても、アランは倒れたまま微動だにしなかった。まるで屍体のようだ。エリックの表情が目に入ったのか、フランクが首を振った。

「気絶しているだけだ。

 それから残った脱走者たちを脅しつける。

「大人しくするのが身のためだ。数が多いと手加減できないかもしれんぞ」

「裁きは公正だ。アランがお前たちを唆したことはわかっている。ならば考慮の余地はある」

 合わせるようにクリストフが言った。露骨な取引の申し出。彼らが本当にアランに唆されただけだとは、クリストフも思っていないはずだ。だが、もはやアランに弁解の機会はなく、真実が明らかになることはありえない。ならばアランを差し出し、自分たちも大人しく罪を認めれば殺すまではしない。村おさの老獪さだった。

「ならぬぞ!」

 しかし、それに割って入った声があった。

「……なんと?」

「ならぬと言ったのだ」

 エディスだった。蓬髪の合間から狂信の光が覗く。彼女は進み出るとクリストフの前に立った。睨め上げるようにして叫ぶ。

「思い上がるな! 裁きも赦しも、おぬしのものではないぞ」

「神のものだとでも」

「無論よ。罪への報いは、我ら信徒の流血によって支払われておるのだ。敬虔な者は救いと共に召し上げられ、背信者は苦しみの中で息絶える。おぬし如きがその罪を審判することは、断じてならぬことよ。神罰のみが罰なのだ!」

「その通り!」

 ジャンの息子が応えて叫んだ。

 エディスの言葉は以前にも増して道理を得なかったが、エリックは彼女の矛盾を指摘するのを躊躇した。それは村の崩壊に繋がりかねなかった。エディスとの決定的な対立を避けるために殺人への応報を盾にしたのだ。しかしそれすら否定するのなら、アランを彼女に引き渡す以外に敵対を避ける道はなかった。

 クリストフはどう判断するのか。エリックが見ると、村おさは痛みをこらえるように額に手を当てていた。ややあって呼吸を整えるように息を吐くと、彼は口をひらいた。

「エディス。貴女は間違っている」

 重大な一言だった。クリストフはエディスとの訣別を選んだのだ。

「これは神罰などではない。疫病だ。ペストや痘瘡と同じ、疫病だ。貴女が言うように、敬虔な信徒もそれ以外も疫病によって死ぬのなら、二者の線引きは誰がする。――それは貴女だろう。敬虔だのという身勝手な基準で、峻別しているんだ。救いと苦しみを、救われる者とそうでない者とを。

 顔を歪めながらもクリストフは言い募った。その声は吼えるように大きくなる。

「貴女は信仰を裏切った。この村を裏切った。思い上がり、神の代弁者を僭称せんしょうしているのは貴女だ。エディス!」

 告発だった。エディスはこれまで幾度となく、ネージュの障害となってきた。竜が墜ちてきて以来、その以前から。彼女が取り仕切る無用な儀式や、狂信的な因習が村の歩みを妨げてきた。開明的なクリストフにとってそれがいかに重荷だったか。誰もが感じていた彼の憤懣ふんまんが、ついに一気に溢れ出したのだった。

 村おさの糾弾は感情的なだけではなく理路も通っていた。仮に神を信じ、その加護の実在を前提にしたとしても、エディスの言い分は明らかに破綻していた。クリストフの言葉は全員を納得させるに十分だった。

 唯一の例外は当のエディスだった。彼女は何の痛痒も感じないように首を振った。

「愚かな。神の言葉を聞き入れぬとは……」

「たわ言だ。貴女の言葉は……何もかもが」

 感情を荒げたせいか、沼に杭打つようなエディスの態度のせいか。クリストフの言葉には重く疲労が滲んでいた。

「後は任せたぞ、フランク」

「ああ」

 議論はもう十分だった。エディスの言葉の矛盾は明らかで、あの狂信的なジャンの息子ですら反論をしてこないのはそういうことだ。クリストフはきびすを返してこちらにやってきた。その体がつまずいたようによろめく。

「クリストフ様」

 とっさにダニエルが飛び出た。抱きとめるように村おさを支える。

「ああ、すまない。疲れが出たようだな」

 クリストフは苦笑いしながらダニエルの腕から身を起こす。ダニエルが肩に手を回してそれを助ける。エリックは二人の様子をすぐそばで見ていた。だからその瞬間のクリストフの表情の変化に気づいた。忘れがたいほどはっきりと記憶した。

 。エリックは自分の口から意味のない音が漏れるのを聞いた。

 幾度となく目前で反復されてきた、もはや慣れきったとすら思っていた瞬間だった。だからすぐにそれが最後だとわかった。ネージュという駱駝らくだの背を折るための最後の一藁だと。

 

 クリストフは激しく咳き込み、唾液混じりの血がダニエルの顔に飛び散った。

「おい!」

 フランクが吼えた。だが、ダニエルは膝をつくクリストフを受け止めることもせず、ただ呆然と村おさの血を浴びて立っていた。「ああ……」目は見開かれ、恐怖に凝固していた。男たちの叫びや怒号の中で、エリックは緩慢にその視線の先を追った。

 エディスだった。老婆は黄ばんだ歯を剥き出しにしていた。

 笑っていた。

 色素の抜け落ちた唇が大きく動き、その中の闇を覗かせた。

「主はすべての罪を見そなわし、報いは必ず訪れる! 背信者は血を流す!」

 暗い洞穴のようだった。

「神罰は下れり!」

「エリック!」

 フランクが肩を揺さぶった。エリックはなおも、哄笑するエディスを見ていた。

「神罰は下れり!」

 開かれた竜のあぎとのようだった。

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