ノックが扉を揺らしたのは、会議から二日が経った朝だった。窓を見ればまだ日は昇っていない。エリックは既視感に体が強ばるのがわかった。骸が見つかって以来、朝の報せが良いものだった試しがなかった。

「エリックさん……」

 傍らを見る。ニネットがエリックの胸にうずめていた頭を上げた。

「眠っていていい」

「でも」

「大丈夫だ。大丈夫」

 ニネットの頭の下から腕を抜く。麦色の髪が幾筋か、汗ばんだ腕に蜘蛛の糸のようにまとわりついた。それを整えてやるとニネットはちいさく頷いた。「なにも心配はいらない」ささやく言葉は自分自身に言い聞かせるためだった。呪いめいた既視感も、彼女さえいれば恐ろしくはなかった。自らの進む道の確かさを信じることができた。今度こそは。

 エリックが寝室を出て玄関に辿り着くまでに、もう一度、切迫したノックが響いた。

「なにがあった」

 戸口に立ったのは村の青年。細面に気弱そうな表情を浮かべている。

「フランクが、その、医者を呼んで来いと……」

「だろうな。それで今度は」

 誰が、と尋ねかけてやめた。フランクがでエリックを呼び出すはずがなかった。野火のように広がった疫病が村を焼き尽くす中、いまさらただの村人が一人倒れたくらいでエリックが出ていく必要はなかった。フランクも、彼を中心として隔離所を手伝ってくれている若者たちも、すべきことは十分に心得ているはずだった。

 ならば、

「村おさか」

「え? あ、いいえ。クリストフ様の所には別の者が行きましたが」

 青年は問いの意図をはかり損ねたようだが、ともかくクリストフが発症したわけではないようだった。エリックはひとまず胸をなで下ろした。だが、だとすると何が。

「まあいい、荷物を取ってくる。少し待っていてくれ」

 鞄を取りに戻ろうと振り返る。

「エリック」

「ニネット、寝ていていいと」

「ほら。きっと必要だと思って」

 そうやって笑顔と共に掲げられた手には革の鞄が提げられている。緊急時に備えて簡易な医療道具を詰めてあるものだ。ニネットは居間を横切ると、ずっしり重い鞄をエリックに手渡した。

「ありがとう」

「ダニエル。村一番の健脚だからって、いつも使いっ走りばかりさせて。弟が迷惑をかけているわね。ごめんなさい」

「い、いや……俺はこのくらいしかできないから……」

 エリックの肩ごしにニネットが言うと、青年は目を泳がせる。

「それで、ちょっと夫に話があるの。時間をもらえる? 先に行ってくれていいから」

「はい。では先に、あの、ダリウス様の所です。エリックさんは後から」

 そう言い切ると、小走りで去っていく青年。ニネットは小さく手を振って彼を送る。なるほどこれが彼女の言うメイヤー家の長女としてのふるまいか。妻の思いがけない如才のなさに目を見張るエリックに、ニネットはくすくす笑った。悪戯が成功した子どもの笑顔だ。

「上手くやったものだ」

「夫を見送るのも妻の務めですから。ね」

 彼女はそう言うと、真剣な顔をした。エリックの手をとって自分の手を重ねる。

「エリックさん。わたしはあなたを信じています」

 そのまま額を胸に押しつける。

「きっと……どうか、みんなを助けて……」

 重ねた手とわずかに震える小さな肩から、彼女の万感の思いが伝わってくるようだった。ネージュの村人としての願い、メイヤーの娘としての誇り。エリックの妻としての愛。そしてその中にはきっと、みずからが犯した罪への悔悟も含まれているだろう。

 エリックは握られた手をそっとほどくと、妻の小さな身体をその細腕ごと抱きしめた。落ちた鞄がどさりと音を立てる。

「大丈夫。きっとよくなる。かならず私がきみを助ける」

 胸の中でニネットが頷くのがわかった。

「行って、エリック」

「ああ」

 エリックは最後に一度強く妻を抱擁し、もうふり返らなかった。胸に残るあたたかさが、すべての恐れを拭い去ってくれると思った。


義兄にいさん、急げ!」

 ダリウスの家が見えてくると、家の前で待っていたフランクが声を張り上げた。すでに息が上がっていたエリックだが、義弟の険しい表情に足を速めた。

「遅いぞ。ダニエルには急がせたはずだが」

「私の体力では、これが限界だよ……病人は? 家の中じゃないのか」

 家に入らず歩いていくフランクを追いながら、エリックは尋ねた。

「あいつ話していないのか。ダニエルの野郎。これだから」

 苛立たしげな声音。「こっちだ」フランクは早足でエリックを先導する。

「病人じゃなく、怪我人だ」

「怪我人だって?」

「そうさ」

 フランクは短く答え、家の裏手に向かった。どうやらダリウスの納屋に向かうようだった。行き先から導かれる予想にエリックは眉をひそめた。宴の晩に隣村の男を殺した若者たち。フランクとは浅からぬ因縁のあったらしいアランという青年を筆頭に、数人が納屋に幽閉されているはずだった。

 では今度は彼らが?

 よほど尋ねたかったが、神経を尖らせているフランクを刺激するのもためらわれ、エリックは大人しく従うことにした。どちらにせよすぐにわかる。フランクの家を回ってすこし行くと納屋に着いた。

 納屋の様子はあの晩と変わらなかった。若者たちを閉じ込めている都合で、本来は中に仕舞っているはずの農具が外壁に立てかけられたり、釘頭に掛けられたりしている。鍬にシャベル、耕馬用の鋤刃。麦刈り用の大鎌。それに、竿

 反射的に足が止まった。忌まわしい記憶がよみがえる。腹を破られた男。穴の底に横たえられたその屍体。シャベルで掬い入れた土の重み。棺など用意されるはずもない男の屍体には、せめてもの手向けのように汚れた屍衣が掛けられて、その凄絶な表情を被い隠していた。エリックに助けを求めるような、あるいは責めるような、その末期の表情を。

「どうした」

 納屋の前で、フランクがエリックを振り返った。咎めるようなまなざし。

「いや……」

「しっかりしてくれよ。アンリの奴、エリックさんにしか話したくないと言いやがってな。告解ならエディスのばばあにでも聴かせりゃいいんだ」

 アンリ。誰だ、とエリックが尋ねる前に、フランクが扉を肩で押し開けた。

「様子はどうだ」

「ああ。すこし落ち着いた、と思う。息は荒いけど……」

 納屋の隅でひざまずいていたダニエルが、おどおどと言った。

「ほら、エリックさんが来たよ。話はできそうかいアンリ」

 ダニエルは横たわった相手に声をかけた。エリックは彼の隣に並ぶと、怪我人の様子を覗き込んだ。アンリ。ダニエルが付き添っているのは背の高い青年。あの鍛冶屋の息子だった。

 まだ少年の面影を残すあどけない顔を青ざめさせ、彼は息をあえがせていた。なぐられたのだ。後頭部からの出血がべっとりと髪を汚していた。エリックはダニエルと場所を替わり、持ってきた鞄を開いた。手当をはじめる。

「ああ……エリックさん……」

 アンリが細く目を開いた。焦点が合わない。意識が混濁しているのがわかった。

「今は無理をしなくていいよ、アンリ。ほら頭を上げて。手当をしよう」

「そうはいかない。エリックを連れてきたぞ。話してくれるな」

「おい」

 咎めるエリックを義弟は正面から睨み返す。

「こいつが唯一の目撃者なんだ。何があったか――まあ、だいたい想像はついているが、本人の口から聞かせてもらわないとな。なあアンリ。なぜアランを逃がした。あいつらはどこに逃げた」

「彼は怪我人なんだぞ」

「だからなんだ。こいつは人を死なせたんだぞ」

 吐き捨てるように答えるフランク。絶句したエリックに彼は説明をする。

「ダリウスの爺さんだ。納屋の前で死んでいた。今は家の中に運んだよ。……アンリもその傷じゃどうせ長く保ちやしない。俺はせめて最期に言い訳くらいは聞いてやるって言ってんだ」

「そんな言い方はないだろう」

「そうだ。ひどすぎる」

「……いいんです」

 フランクを責めるエリックとダニエルをアンリの言葉が止めた。

「おれが、間違っていました。あの、聞いてくれませんか。エリックさん……」

「ああ、聞こう。聞かせてくれ」

「ありがとうございます。その、おれが、アランたちと会っていて……ダリウス様は気づいていたんです。それで、止めようとして……間に合わなくて」

 フランクと目が合う。彼は先を促せ、とエリックに目線で告げた。

「どうして彼らと会っていたんだ」

「たぶん……怖かったんです……」

 途切れ途切れにアンリは語った。

 アランは幼い頃から、兄弟のいないアンリにとって兄のような存在だった。仕事で失敗して父に怒鳴られ、自分は鍛冶屋に向いていないのではないかと悩んだ時にも、熱心になって話を聞いてくれた。自分といっしょになって父親と話してくれた。

 だがアンリは宴の晩、そんな兄同然のアランの行為にすくみ上がってしまった。「あの夜、酔ったアラン兄さんは……悪魔みたいだった。笑いながら……」アンリの床土に汚れた頬を涙が伝った。アランたちが捕まったのは自分の裏切りのせいだと思った。罪悪感から、彼は何度も納屋に足を運んだ。食事を差し入れし、彼らに最近の村の様子を教えた。

 そして今日。アンリはアランに、この二日で発症がわかった人間の名前を告げた。それを聞いたアランは、縄をほどいてくれと懇願した。アンリが告げた中には、アランの父の名前もあった。一目顔を見てくるだけでいい。それですぐに戻ってくると。身も世もない彼の態度に、つい、ひとときならばと縄をゆるめてしまった。

「それで、殴られて……止めようとしたダリウス様も……」

 そこまで言うとアンリは目を瞑り、深いため息をついた。身体から力が抜ける。

「アンリ!」

「いや、まだ息はある。かすかだが……」

 悲鳴を上げたダニエルにエリックは告げた。だが本当に、かろうじて息をしているだけだ。後頭部の傷は深い。ここから快方に向かうことは考えにくかった。命の火が消えかけているのが見えるようだった。

義兄にいさん。アンリのことは任せたぞ」

 納屋の出口に向かったフランクがそう言う。

「どうするつもりだ」

「行き先はわかってる。俺があいつを殺す」

 エリックが声をかける間もなく、フランクは納屋を飛び出した。

「なんてことを――ダニエル。君は村おさを、クリストフ様を呼んできてくれ。治療所だ。ああなったフランクを止められるのは父親しかいない」

「わかりました。エリックさんは……いえ、すみません。では」

 すこし躊躇った後、ダニエルが納屋を出ていった。家を疫病の隔離所として開放した都合上、クリストフはここしばらく、別の村人の家で寝起きしていた。患者と接触することで、万が一にも村おさに病が移ることを避けたかったからだ。

 エリックは納屋の床に横たわる青年を見つめた。彼はなぜ自分を呼んだのだろうか。医者だからではない。実際、エリックには彼の傷にできることがなかった。ただ話を聞くことしかできなかった。あの山狩りの時わずかに会話しただけの関係だ。彼の名前すら、エリックはさっきようやく知ったのだ。なのに彼は自らが犯した罪について、最期にエリックに打ち明けることを望んだのだった。

 告解。先ほどのフランクの言葉がよみがえった。『エディスのばばあにでも聴かせりゃいいんだ』エリックは力なく笑みを浮かべた。その通りだった。そんなものを聴かせるには、エリックはまるきり間違った相手だった。

 青年のかぼそい息がまばらになり、消え入るまで、それほどの時間はかからなかった。エリックは立ち上がった。納屋を出ると、見知った顔が待っていた。「デボラ」ダリウスの家に嫁いだニネットの妹だ。ニネットとは違って顔だちも性格も母親によく似ていた。

「アンリは……そう。駄目だったの」

 エリックは沈痛に頷いた。

「ダニエルは父さんを呼びに行くって言っていたけど。あなたは? 兄さんのところ?」

「ええ。それで……」

「アンリのことでしょ。やっておくわ」

 エリックは頭を下げる。気にしなくていい、と彼女は軽く手を振った。嫁いだ先の家長を喪くしたばかりとは思えないほど、その態度は淡々としていた。とはいえ、それも不思議ではなかった。今のネージュでは、死があまりに身近に、ありふれたものになってしまった。元からの性向を抜きにしても、無感動になってしまうのも無理はない。

 立ち去るエリックの背後で彼女はつぶやいた。

「この村も、もう終わりね」

 そうではないと反論する気力も、根拠も、今のエリックにはなかった。

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