ジャンの死から十日あまり、災禍はネージュの過半を呑み込んでいた。

 またたく間に発症者の数はふくれ上がり、同様に死者も増え続けた。

 村では連日、葬儀が執り行われた。初めの幾日か、村人たちは正午になるとその日の分の死者をまとめて弔った。しかし列席者は日ごとに減り、やがて葬儀も形骸化した。発病した者やその家族は当然列席できなかったし、なにより村人たちはみな葬儀にんでいた。棺の中の屍は否が応でも自らの行く末を想像させた。その棺さえやがては払底ふっていした。人びとは野良着のまま土に埋められるようになった。もちろん、広場での献花などとうに止めていた。

 クリストフが発症すると状況はさらに悪化した。エディスとの最悪の形での決裂もあり、葬儀すら行われなくなった。同じ頃、墓地も足りなくなった。当初一人ずつ埋められていた者たちは、一カ所にまとめられることになった。毎回墓穴を掘るのも重労働で、男手を動員して巨大な穴が掘られ、屍体はそこに投げ込まれるようになった。もはやそれは埋葬ではなく廃棄だった。連日増える屍体で墓穴は埋まったが、容量にはまだまだ十分な余裕があった。

 エリックも埋葬に立ち会うのをやめた。死者よりも生者のためにこそ働かねばならなかった。

 かつての議場に設えられたベッドの合間をエリックは歩く。村会議以来、治療所および隔離所と位置づけられたメイヤー家には、次々と発病者が運び込まれてきた。呻き、叫び、高熱にうなされたあえぎ。胃液しかない胃の中味を無理やり絞り出す嘔吐えづき。垂れ流された汚物が木桶の底を叩く音。部屋には爛れた皮膚から染みだす膿汁の甘ったるい悪臭が滞留し、それに排泄物と血の臭い、吐瀉物の臭いとが混ざった。

 食事と水を運ぶ。濡れた布で病者の身体を拭う。汚物を溜めた木桶を替える。エリックの日々の仕事はそれで尽きた。発病者の家族が手伝ってくれることも、村の若者たちが手伝ってくれることもあった。しかしそんな彼らもまた、翌日やその翌日には看護を受ける側に回ることがしばしばだった。疫病はたやすく人から人へと飛び火し、その身をどす黒い炎で焼き焦がしては墓穴へ送り込んだ。

 治療というにはあまりに頼りない処置。しかしかつて黒死病ペストの時代、修道院などで看護を受けた者と、何もなさず放置された者とでは、それだけで死者の数が異なったという。もちろんこの処置は病の隔離としての機能も果たしている。まったくの無駄ではないはずだった。その一念でエリックは仕事を続けていた。

 ひときわ酷い呻き声が聞こえた。エリックがそちらへ向かうと、男が一人天井を仰いでいた。ベッドから垂れた腕にはまだらの発疹が広がっていた。凝血により黒々としたそれは、この疫病の末期に見られる症状だった。

「……なにが、間違っていたんでしょうね」

 足音でわかったのだろうか。男は意外にも清明な意識をしているようだった。エリックが額や脇を冷やしていた布を取り替えると、彼はふたたび呻いた。

「とうにお気づきでしたでしょう。あなたなら」

「は、は。それは、買いかぶりすぎだ」

 男は謙遜したが、彼ならばいち早く気づいていたはずだ。エリックがそうだったように。そしていまや村人たちも気づいている。ただ口にしてはいないだけだ。

 

「どちらにせよ防げなかった。ずっと前にすべては終わっていたんです」

 口にしてみれば思いのほか、未練を感じさせない声音になった。

 あの肉を喰らった時には、骸に触れた時には、見つけた時には――あの竜が落ちてきた時から、もう決まっていたのだ。この惨状は、疫病は、ネージュの終わりは避け得ないものだったのだ。実際のところ、この隔離も無意味に違いなかった。シチューの味を思いだす。村人たちの中でも作業に参加していた者たちは発症が早かった。かといって、作業に携わっていなかった者も宴には参加していた。

 すべてを諦めてはいない。けれど前よりもはるかに、諦めるのが上手くなっていた。

「はは、そうかもな。……でも、あなたに関しては、私は当たっていた。あなたはやはり、目の開いた人だった。エリック、あなたは……私とは違ってね」

彼はおどけて笑った。男の白濁した目が光を失ってからもう数日になる。

「……ニネットさんは、お元気で?」

「はい。無事に」

「よかった。一応、これでも幼馴染みなのでね。彼女のそばにいてあげてください。あなたの思うより、彼女はあなたを愛しているはずだから……」

 きれぎれにそう言うと男は長いため息をついた。

 思いがけぬ言葉に戸惑ったが、エリックはすぐに「ええ」と答えた。やわらかな身体の温もりがよみがえる。あれから毎晩のようにニネットは夫を求めた。エリックも彼女に応え、それはネージュを襲うこの現実に立ち向かう力をくれた。

 ふと男のほうを見た。

「……フレデリック?」

 彼はもう返事をしなかった。これまで看取ってきた誰よりも穏やかな最期だった。

 まさか彼にまでニネットのことを託されるとは思わなかった。数日前に亡くなった義父の言葉を思い返しながらエリックは部屋を出た。また屍体を一つ、運び出してもらわねばならなかった。


 穿たれた墓穴は塞がれることがなかったから、腐敗して溶けた屍体が猛烈な臭気を放っていた。蛆が怒濤どとうと化し、丸々と肥えた蝿が立ちこめて、猛禽たちが上空を旋回する。西からの残照が、悪夢のような光景に絵画めいた陰翳を与えていた。

 フランクがそこにフレデリックの骸を投げ入れる。屍衣がわりの汚れたシーツで包まれた骸は、不格好に転げながら穴の底に落ちていった。その様子をフランクは無言で見つめていた。エリックが屍体の運搬を手伝いの若者に頼もうとすると、彼がやってきて自分が行くと言い出したのだった。

「どうして仲が悪かったんだ」

 思わずそう尋ねた。フランクは振り返らないまま、

「……色々あった。色々な。だが、死んで欲しいと思ったことはなかったさ。フレデリックの奴もそれ以外も。誰だって、そう思ったことはなかった」

 誰のことを言っているのかわかるような気がした。アランが死んだのは一昨日のことだ。

「知りたいか?」

「……いや」

「それがいい。死んだ人間のことなんて知る必要はない」

 そう言ってフランクは立ち上がり、隣に立つエリックを見た。

義兄にいさんは逃げないんだな。都にはいくらでも伝手があるだろ」

「私が都に逃げ帰っても許してくれると?」

「もう、許すも何もないだろ。ネージュは終わりだ」

 ぎりぎり統制がとれていたのは、あの決裂の日、クリストフの発病までだった。かろうじて、この災厄を乗り切ればという希望があった。骸がもたらす富さえあれば、もういちどやり直せるはずだと。クリストフの存在は、文字通りネージュの支柱だったのだ。

 しかしもはやそれも失われた。少なからぬ数の村人が村から逃げ出していた。クリストフという求心力を失い、村人たちも櫛の歯が欠けるように減っていく。逃げ出した者たちが竜のことを人に告げるかはわからないが、持ち出したものを下手に金に換えれば、いずれ領主の耳に届くこともあるだろう。疫病を乗り越えてさえ、ネージュには未来が残されていなかった。

「まったく、エディスのばばあにはやられたね。まっさきに死ぬと思ったんだが」

 現在のネージュは、エディスとフランクの二派にはっきりと割れていた。ただしそれは、等割にはほど遠かった。村人の大半はエディスの下にあり、彼女はいまや実質的なネージュの支配者だった。村はずれのあばら屋では日夜、老婆を囲んだ村人たちが神に許しを乞うている。

「……君は逃げようとは思わないのか」

「おれはここ以外を知らない。ここがおれの故郷で墓場だ。みんなそうだった。ネージュで生まれて、生きて死ぬ。まあ、できれば死に方ぐらいは選ばせてほしかったがな」

 フランクは山並みでも眺めるように顔を上げた。エリックもそちらを見た。西日が稜線を燃え立たせている。エリックは目を細めた。彼はフランクが婚約者の娘を亡くしたことを知っていた。彼女を看取ったのはエリックだった。

「なら、私も残るさ」

「どうしてだ」

 フランクの言葉通り、ネージュは滅びるだろう。それでも彼はここに残ると言った。

 ならばそれが十分な答えになる。

「私の家族はみなここにいる」

 フランクは虚を突かれた顔になった。

 それから声を上げて笑いだした。エリックは肩をすくめた。

 エリックの家は商家だが、家業は彼とは半分しか血の繋がらない妾腹の弟が継いでいた。母はエリックを産んで死に、そのせいもあって折り合いの悪かった父も数年前に死んだ。エリックは長男として十分な遺産を相続したが、一部を譲って弟とも縁が切れた。だから彼の言葉は文字通りの意味でもあった。

「そりゃいいな。たしかにそうだ。家族はここにしかいない」

 ひとしきり笑い終えたところでそう言うと、フランクの顔がゆがんだ。彼は咳き込みはじめた。エリックは駆け寄って肩を貸した。フランクは苦悶を浮かべて、全身を震わすように大きな咳をくり返した。彼が発病していることはエリックもうすうす勘づいていたから、さほどの驚きはなかった。これほど強靱な男ですら、病の前には膝を屈する他にないのか。支える身体は中味が抜けたように驚くほど軽くなっていた。

「悪いな、もう大丈夫だ」

「一人で立てるか」

 それほど激しい発作だった。口を押さえていた手には鮮血も見えた。フランクはしばらく呼吸を落ちつけていたが、エリックをふり向くと「おれもそろそろだな」と剛胆な笑みを浮かべた。エリックはなにも答えることができず、そっと目を逸らした。

 フランクは苦笑を浮かべたあと、ふと真顔になってエリックを見つめた。

「どうかしたか?」

「いや、すごいもんだな。竜の肝ってのは」

 エリックは目をみひらいた。

「……気づいていたのか」

「まあ、妙だろうよ。いちばん患者に近いはずのあんたが、ピンピンしてるってのも。肉を食わなかったわけでもないだろうしな」

 肩をすくめてフランクは言った。

 肝には病を癒やすだけではなく遠ざける力もあったのか。あるいは、肉を口にすることでしか病にかかることはないのか――エリックとニネットは肉を口にしたが、その後肝を食べたから病が癒えたのか。どちらかはわからないが、疫病が猖獗しょうけつをきわめても二人が病に冒されることはなかった。

「彼女に聞いたのか?」

「何日か前にな。姉さんは昔から、おれには嘘をつけなかった」

 フランクは遠くを見晴らすような目をした。そこには親しげな色が浮かび、幼い頃を思い返しているのだろうと知れた。

「恨んでいるか」

 ニネットはあの料理を作ったあと、残りの肝は森に捨てたと言った。まだ一片でも残っていれば大勢を救えただろうか。彼女がそれを盗みさえしなければ、この事態は変わっていたのだろうか。その答えはきっと是なのだ。

「まさか。おれが姉さんを恨むわけがない。もう終わったことだ」

 義弟の言葉にエリックは頷いた。そう。すべての機会はもはや過ぎ去った。神ならぬ者にできるのは、いまできることを為すだけだ。吹きすさぶ疫癘の風は、あのフランクからさえも、あらゆる激情を削り落としてしまっていた。

「家族のところに帰ろう、兄さん」

「ああ」

 エリックは歩きだしたフランクを追った。西日がその背中を赤く濡らしていた。

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