クリストフの案内でエリックは発病者の家を訪れた。彼が告げたように、みな同様の症状を呈していることがわかった。すなわち高熱と止まらない咳。聞き取れば他にも、割れるような頭痛や喉、筋肉の痛み、全身の倦怠感などが共通していた。症状が現れ始めた時期も重なっているため、やはり同じ病の可能性が高かった。

「何かわかったか」

 三軒目を出たところでクリストフが尋ねた。どの患者にもエリックは病名を告げなかった。体力を失わないように十分な食事と休息を与えること、外出を控えることを家人に告げるだけで、特別な治療や薬の処方などの解決を期待していた彼らの目には落胆が浮かんで見えた。医者を名乗ってはいるが、所詮は都から来たよそ者なのだと。

 しかし少なくともクリストフとフランクはまだ、エリックを頼みにしている。自らをさらけ出して彼が告げた言葉を信じてくれている。その期待に応えられないことが心苦しかった。

「正直なところ、わかったことはとてもわずかです。症状や状況から見て、おそらく何らかの流行病であることは間違いがない。ですが、これが疫病だとしてもあまりに手がかりが少なすぎる。まだ判断がつきかねます」

「ペストではないのか?」

「言い切れません」

 高熱に咳、全身のあちこちに発する痛み。三人の患者が呈していたのは、どれも特徴的な症状とはいえなかったからだ。

 たとえばペストであれば、高熱が続いた後に腋窩や鼠蹊そけい部のリンパ節が腫大してくる。痘瘡であれば一旦解熱げねつした後に、病名の由来にもなったあの悪名高く特徴的な発疹が、頭部を中心に現れる。三人の患者には見られなかった症状だ。ペストも痘瘡も最近では見なくなった病で、このように山奥の小村に突然現れるとは考えにくいが、だからといって可能性を除けるわけではなかった。記録によればリンパ節の腫大や発疹はどちらも発熱から数日後に現れる症状で、患者の証言からすればまだ確認できる時期ではないはずだからだ。

 ペストや痘瘡以外にも、近年、大都市において頻発している疫病がある。まずコレラだが、これは下痢がまったく見られないため可能性から外してもよさそうだった。コレラは特徴的な疫病で、発熱は見られずむしろ体温が低下するところからも、おそらく今回の病とは関係がない。残るはチフスだが、ペストや痘瘡と同様にこれもまだ可能性を排除しきれない。高熱や頭痛はチフスの初期症状だが、この病に特有の発疹は確認できないからだ。この発疹もやはり発熱から数日後に現れるとされる。

 つまり、病を突き止めるためには、病状が悪化して特異な症状が出るのを待たねばならないということだ。おそろしく転倒しているがそれが現実だった。これらを伝えられた二人は少なくとも表面上は納得したようだった。実際にどう受け取ったかはわからなかったが、ともかく残りの家も訪れることになった。

 しかし四軒目、五軒目も患者たちの様子は大同小異で、これといった手がかりは得られなかった。高熱と咳という、疫病としてはありふれた症状。病が奇妙な様相を見せたのは、予想通りと言うべきか、発病の早かったジャンだった。

 ジャンの家に着くと、クリストフとフランクが妻のローラに診察の許可をとりつけた。診察に付き添うのはクリストフで、フランクは寝室には入らずに外で待つと言った。病に苦しむジャンを見たくないらしかった。

 自身も病人のように憔悴したローラに案内されて、エリックはクリストフと共に寝室に入った。一歩踏み入れた途端に強烈な悪臭が襲ってくる。ベッドの傍らには木桶が置かれ、悪臭の源はそれだった。木桶に溜まった液体は薄い黄褐色。ほとんどが水分に見えた。吐瀉物と、おそらくは水様の便。

 エリックはベッドの傍らに立った。ジャンは薄い獣皮の毛布をかけられていた。その膨らみは人のそれとは思えないほど薄っぺらで、エリックに思いがけない衝撃を与えた。あの頑健だった身体がこれほど痩せ衰えてしまうとは。

 顔を覗き込むと、ジャンは緩慢ながらもエリックと視線を合わせた。頬がこけて皮膚に皺が寄り、眼窩は落ち窪んだ、幽鬼のようなありさま。常ならば罵倒の一言でもかけられるところだが、今のジャンの目は反射として動くものを追っただけのようだった。意識もたしかではないのかもしれなかった。エリックは彼と最後に会った時のことを思い返す。この三日でというには、あまりにも急激な変化だった。

「いつからこのような?」

「昨日の晩からです。それからずっと。もう何も、その、出なくなっても吐き続けて。食事も水もまったく。ひどく熱が出たと思ったらこんなふうで。主人があなたにつらく当たっていたのは知っています。あなたが主人を嫌うのはわかる。でも、どうすればいいかわからなくて、私には。私には何ができるでしょうか」

 エリックの問いに、ローラはとめどなく喋り続けた。一度堰を切った後はどこまでも漫然と垂れ流されていく言葉。落ち着かない視線と抑揚。不安と恐怖が彼女から冷静さを奪っているのがわかった。「ローラ、落ちつけ」傍らに立ったクリストフが彼女の肩を支えた。

「わかりました。これまで大変だったと思いますが、まずはよくお話をお聞かせください」

 エリックも彼女を宥めるつもりで、強いてゆっくりと話しかけた。

「そして、それからできることを考えましょう。これまでのことは関係なく、私も力を尽くしますから。まず、最初は熱と咳が出ていたのですよね」

「そう、突然昨日からこんなふうに。まさかこんなことになるなんて。私、そんな、思ってもみなくて」

「熱はいつからでしょうか」

「たしか、三日……三日前。いや、四日前には、すこし調子が悪そうにしていたと思います。咳もしていたかもしれません。主人はあの、竜の、仕事で疲れが溜まっているだけだと。おれも歳かもしれないと、そんなふうに言って……」

「桶の中味はすべてローラさんが替えましたか?」

「ええ。息子がいる時は、息子も手伝ってくれていましたが」

 エリックの質問の意図をはかりかねてか、ローラは戸惑ったように答えた。ジャンの息子は今日も作業に駆り出されている。肉の保存やその他の知識と技術は、村ではジャンと同様に猟師である彼に優る者がいなかった。

「では、便の様子はずっとこんなふうでしたか。たとえば、色などは?」

「はい。ずっと同じ、こんな色でした」

 なるほど、と答えてエリックは考え込む。やはりまったく符合しない。

 大量の嘔吐と下痢は明らかにコレラの症状だが、コレラは発熱を引き起こさないし、咳も出さない。加えてコレラによって引き起こされる下痢には「米のとぎ汁様」と呼ばれる特徴的な白い色が現れる。どれもジャンの症状とは一致しないものだ。

 それからエリックはローラの許可を取って、ジャンの身体を診ることにした。毛布をよけて服をめくり上げる。皮膚がたるみ、痛々しく痩せこけた身体が現れた。

「どういうことだ……」

 エリックが思わずうめいたのは、ジャンの身体に生じた発疹のせいだった。豆粒大の赤黒い発疹が、腹部から胸にかけてと右肩から上腕にかけて、帯状に走っており、それ以外の部分にも点々と見受けられた。発疹はコレラではなくチフスや痘瘡の特徴だ。だが、チフスや痘瘡では下痢や嘔吐、咳といった症状は見られないはずだった。また、ジャンの身体に生じている赤黒い発疹は、チフスや痘瘡によって生じるものとは異なるように見えた。前者はより広範囲に広がり、後者のものは膿んだ白い発疹になるはずだった。

 この病の症状は、エリックの知るどの疫病のそれとも異なっているのだ。

 それが彼の無知であるならばまだいい。だが――

「どうだエリック。なにかわかったか」

 クリストフに尋ねられ、エリックは首を振った。

「ですが、もしかするとこれは、」

 その先を口にすることはできなかった。突如ジャンの身体が痙攣を始めたからだ。見開かれた目、固く食いしばった歯。全身の筋肉が鋼のように硬直して四肢がびんと伸びる。ローラの高くかすれた悲鳴で我に返った二人は、ジャンの身体に飛びついた。エリックは下半身、クリストフは上半身を押さえた。信じられない力でジャンは暴れた。意識ある人間ではけっして発せられない、自らの骨すらへし折る力だ。クリストフが叫んだ。

「フランク!」

 あまりに激しい痙攣は、到底二人では押さえきれるはずがなかった。クリストフが叫ぶとすぐさまフランクが寝室に飛び込んできて、「このっ」暴れるジャンの身体を押さえにかかった。

「えぷ」

 奇妙な水音。ジャンだった。食いしばられた黄色い歯の合間から、熟れた果実を握り潰したように、濁った血が噴き出してきた。黒っぽい血が、彼が暴れるのに合わせてあたりに飛び散った。「くそ」と悪態をついたのはフランク。彼はジャンの吐血をまともに浴びていた。彼は渋面のままジャンを押さえ続ける。

 長い数分だった。ようやく痙攣がおさまったところで、フランクが手を離した。エリックもかけていた体重をゆるめた。筋肉が強ばってなかなか手を離せない。全力疾走をしたような疲労感が全身を襲う。

「ジャンは大丈夫なのか」

 フランクが服の袖で乱暴に顔を拭いながら言った。

「……まだ息はあります」

 エリックは脈拍と呼吸をたしかめ――息を飲んだ。

 ぷつ、あるいは、ぷちり。音が聞こえたと思った。ジャンの見開かれた目頭に、わっと血の玉が盛りあがった。それは見る間にふくらんでゆき、流れになり、鼻梁の脇をとおって、皺だらけの頬の上を伝い落ちた。真っ赤な染みがじわじわとベッドシーツに広がっていく。

 

 およそ現実の出来事とは思えない光景に、その場の誰もが言葉を失った。その間にも血はとめどなく流れつづけ、やがてローラがすすり泣きはじめた。背中を丸めて夫の足元にしがみつく。狭い寝室に嗚咽が響く。しゃくり上げながら彼女が呟くのは神の名だった。

 そうしてこの世にあらざるものに縋りつくことができたならどれほどよかったかと、エリックでさえそう思った。言うまでもなく、疫病はこの世の脅威だ。竜の骸がそうであったように、我々が生きるいまこの場所にそれは確固として存在し、その実在を認めなければ医学は永遠に病に抗うすべを持てない。

 だが、それでも。そうだからこそ、エリックは恐れた。

 疫病は古来より、神が人に下される鉄槌の顕現であるとされてきた。音も姿もなく無数の人間を打ち倒す、無形の恐怖であり、人びとは神罰以外にそれを語る言葉を持たなかった。神の権威が衰えつつある今とてそうなのだ。

 そしてこの病は、こうして、既知のあらゆる疫病とは異なる凄絶な症状を呈した。エリックが目にしているのはこれまで人類が、医学が出会ったことのない未知の疫病なのだ。ならばどうだ。史書も医学も沈黙するならば、それは果たしてこの世ならざる言葉として、神の意志として、語る他にないのではないか。

 なにより、そのような災禍を前にして、医者ですらない自分一人に、できることはあるのだろうか。血に染まっていくベッドを見つめながら、エリックは、痛いほどの喉の渇きを感じていた。

 ジャン・デュバルは翌日の明け方を前にして死んだ。

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