二人の婚姻が認められるまでには時間がかかった。エリックは大学を辞さねばならなかったし、よそ者であるエリックの村での仕事について、村会議の決定を待つ時間もあった。二人の家や家財も用意しなければならなかった。結局、二人が暮らしはじめたのは出会いから一年以上経った後のことだ。しかしそれに反して、よそ者であるはずのエリックとニネットとの婚約自体は、思いのほかすんなりと許しを得られた。

 いくつかの理由はエリック自身にあった。畑仕事や伐採は不得手とはいえエリックには十分な学と財産があり、一旦決まってしまえば、教師という仕事は村における天職だった。開明的なクリストフは子どもたちに読み書きを教える機会に前向きであったし、村会議の優れた書記や式典の司会も必要としていると言った。

 もちろんエリックが医術の知識と腕を披露する機会に恵まれたことも、クリストフたちの心証に良い影響を与えたはずだ。今でもジャンのように頑なではない村人たちからは、治療を乞われることも多かった。さらに妻であるニネットは、出会った時がそうであったように、元々、村の子どもたちを預かる役目を担っていた。教師の妻としてはこれ以上ないことだ。

 だが、そうした前向きな理由とは裏腹に、ニネット側の事情はさらに込み入っていた。誰も口に出すことはないが、エリックはそれらが、婚姻の予想外な快諾の最大の要因だったのだろうと推測していた。

 そもそもニネットはエリックと出会った時点で、ふつうなら既婚の年齢だった。容姿には問題がなく人格にもきずはない。メイヤー家の長女であれば村での家格は最高だ。事実、ニネットの妹はダリウスの息子に嫁ぎ、既に二人の子どもを産んでいた。

 ゆえに理由はやはり身体だったのだろう。幼い頃にかかった熱病のせいで、彼女の手足は上手く動かなかった。日常生活を送るには支障がないとはいえ、長い労働は身体に障るし、突然の発熱によって寝込むこともある。メイヤー家の生業である林業は健康な女ですらもってのほかだし、畑仕事でさえも人並みにはこなせなかった。

 だが、ネージュで女に与えられる仕事はそれ以外にないのだ。どこの農村でもそうだが、妊婦も鍬を握り、母は乳飲み子を畑の脇に置いて麦を収穫するものだ。メイヤーの娘ゆえに名目上、子どもたちの世話を仕事として与えられていたものの、どの家も嫁としては貰いたがらなかったのは想像がついた。あるいはここが都であれば事情は異なったかもしれない。しかし、けして豊かではないこの開拓村では、手足に障害のある娘がこれほど素直に育つことができただけでも十分に幸運だといえただろう。

 だから、エリックの申し出はクリストフにとっては渡りに船だったのかもしれない。財産という意味では申し分なく、ニネットの障害やしばしば訪れる発作にも、医学の心得があるエリックなら村の誰より適切に対処できた。教師としての身分も、ニネットがこれまでの仕事の延長として手伝えるよう、おそらくはクリストフが言い出したことだった。

 かくしてさまざまな奇縁が重なり合って、二人の運命は結びつけられた。村人たちはエリックを奇矯な男だと思っただろうし、そんなよそ者にしか嫁げなかったニネットを憐れんだかもしれない。村人たちの過半からうわべだけの祝福を受けて式を挙げた二人は、しかしそれでも幸せだった。その心は彼らの下世話な想像など及びもつかない強さで結ばれていた。

 そう思っていたのはエリックだけだったのか。

 互いに深く想い合っていると信じていた。喜びも苦しみも分かち合えると思っていた。他人のくだらない憐れみや嘲笑など届かない、深く澄んだ水脈みおにより二人はつながっているのだと。すべてが解りあえるのだと。

 肝を盗んだ理由はわかった。その心情も理解できた。しかしエリックにはもう、彼女が何を見ているのかがわからなかった。あるいは、だからこそなのだろうか。

 脳裏に思い浮かぶのは、乱暴に切り裂かれた竜の腹。手慣れない傷跡。夜闇、鍬を振るうのさえ覚束ない手にナイフを握り、腹水にぬめる臓腑を掻き出すのは困難を極めたに違いない。破れた腸の臭いは耐えがたく、骨身にまで染みついただろう。凝血のこぼれる竜の肝を抱え、足を引きずって独り歩く真夜中の山は、どれほど寒く暗かったことか。

 ありありと想像できた。それでもなお、わからなかった。なにひとつ。どんな思いで彼女がそれを為したのか――そうではなく、どうして、彼女はそれをエリックに伝えなかったのか。彼にはただそれだけがわからなかった。

 否定なんてするはずなかった。彼女の選んだことならば、彼女の苦しみや痛みを癒やすためならば、どんなに頼りなく汚れた糸だって掴めた。凝った血だろうと屎尿だろうと、手をひたすことができた。だからたとえそれが罪だとしても、烙印を共に背負いたかった。断罪の丘へ続く石だらけの道だって、二人で歩くならなにも怖くなかったのに。

 けれど、二人の背に焼きつけられた烙印はない。エリックの背にも、ニネットの背にも。竜の肝はいかなる傷も病もひとしなみに癒やしてしまうから。

 ニネットは無垢に、たった一人で歩いている。

 彼女の見つめる先を、エリックはもうなにひとつ知らなかった。


 四日目の作業はまだ日の高いうちに終わり、ついに竜の身体からはすべての肉が剥がされた。まだ所々に断片がこびりついているものの、巨大な骨格がすべて剥き出しになった。見ているだけでスケール感の狂う四肢の骨。逞しい胸部を守る肋骨に胸骨。おそらく肩胛骨けんこうこつに相当する戸板のような四枚の扁平骨へんぺいこつ。そこから前肢と同様に伸びる翼の骨格は落着によってへし折れている。棘を折り取られた脊椎は覆された船の竜骨キールと見える。竜の巨体をささえた太く頑強な骨格は、腐敗臭の漂う屍といえど、目をみはるに十分な迫力があった。

 こうして解体が全身に及んでもなお、頭部は最後まで残されていた。他の部位に比べると大きな筋が少なく、相対的に肉づきが悪いことも理由だったが、なによりは心情的な忌避感だっただろう。

 つまり眼だ。鱗を剥ぎ、肉を削ぎ、角を砕いて爪牙を折っても、最後まで竜を竜たらしめた金色の眼。見透かすように澄み、生きているようにかがやくひとみ。特大の貴石めいたそれが、眼窩に差し込まれた梃子で外し落とされたとき、ネージュの誰にもようやく、すべてが終わったと思うことができた。

 むろんこれだけの量の竜の骨である。高く売れるのは間違いがないそれらの解体と運搬の作業も残されていた。しかし、村人たちの間にはここで一息をつくべきだという雰囲気が持ち上がった。骨は腐敗しないので作業を急ぐ必要がない。連日の作業で誰もが疲労していた。この四日で止まっていた畑仕事も、収穫に向けて再開しなければならなかった。クリストフは、村人総出の作業はこれで終了する旨を村人たちに告げた。

「祭にしよう。いいですね、エディス様」

「勿論。主の恵みに感謝を捧げなければなりませぬゆえ」

 脇に控えたエディスが頷くと、村人たちが沸き立った。収穫祭のような祭事は慣例としてエディスが取り仕切ることになっているが、実務を行うのはクリストフたち村議で、今回のことも以前から村会議で検討済みだった。したがってクリストフの問いかけは、あくまで村人たちの前での確認にすぎなかった。

 収穫祭と同様、竜のそれも含めた肉や酒が振る舞われる、夜通しの宴になるだろう。クリストフの話によれば、既に何人かの若者たちが村の広場で準備を進めているとのことだった。収穫祭を前にして一足早い酒宴の機会に、ささやき交わすみなの声は期待に弾んでいた。

 村人たちが各々の荷を負い、山を下りはじめた。この四日ですっかり獣道ができてしまった森を抜けていく。その足取りは軽く、高揚が疲労などぬぐい去ってしまったように見えた。

 誰もが迷いなく山を下っていく中で、エリックは一人立ち止まった。心臓が一度脈打って、それから、竜の骸をふり返った。そうせずにはいられなかった。

 森に横たわる巨大な竜の骨。血と泥に汚れ、何もかも抜き去られた空虚な残骸には、エリックを見返す黄金色の眼さえも残されてはいなかった。ただ頭蓋骨の内側の虚ろな闇だけが、彼のまなざしを吸い込んで静かだった。冥府へ下りたオルフェもきっと最後にこれを見た。いずれ自らに追いすがる、その終わりの姿について。

 ネージュに着いたのは、日の落ちきる前だった。

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