若者たちが先に山を下りていき、帰り道はエリックとフランクの二人になった。言葉を交わすことなくひたすらに足を動かす、あの朝と同じ気詰まりな時間。しかしその距離はさらに離れたようだった。それも一時間ほどで、二人は死骸の場所に戻った。

 残った男たちは解体を続けていた。引き出したはらわたを腑分けし、腐敗の進んでいるものは深く土に埋める。問題のない部位はかめや瓶に分け、大半は塩漬けにして保存する。内臓の過半はそうして処理済みだった。どれも竜の巨躯に比例して並外れた大きさで、特に心臓は見ものだった。

 かつて伝説を駆動したその心臓は、甕には入りきらず布に包まれていた。肉厚な左心室だけで膝を丸めた子どもほど。全体では血色の大岩と見えた。そこから伸びる若木のような太さの大動脈。右心からは大静脈。さらに左右の肺動静脈がそれぞれ繋がる。主要な血管も位置も人間や他の獣と変わりないが、ただ桁外れに大きく強靭なのだ。なるほどたしかに、これを口にすれば超常の力を得られてもおかしくはない。

 エリックたちが到着してからも解体は続けられていたが、盗まれた肝や犯人の話題で男たちは気もそぞろで進捗は悪かった。矢継ぎ早に浴びせられる彼らの質問に答えながらも、フランクはどこか上の空のように思えた。

 やがて、フランクの指示で報せを受けた残りの村人がぽつぽつと戻ってきた。その中に父親の姿を見つけたフランクが声をかけた。

「親爺。こっちだ」

 クリストフがやってきた。隣には同じ組だったらしいダリウスを伴っている。もう一人は村の鍛冶屋で、挨拶をすると骸の方へ去っていった。

「あいつはアランたちが村に連れて行った。今はダニエルの家のはずだ」

「話は聞いている」

 話しはじめたフランクをクリストフが遮った。

「ダニエルもいつまでも盗っ人を家に置いておきたくはないだろう。ダリウスのところの納屋を使わせてもらうことにしよう。どうだダリウス。お前だって嫌には違いないだろうが」

「構わんよ。どうせ今は連中のせいですっからかんさ」

 ダリウスは忌々しげに答えた。春以来、彼は収奪をまぬがれた蓄えを村のために開放していたが、それすら底を尽きはじめているのだろう。「助かる」クリストフはダリウスに頭を下げた。フランクに向き直る。

「そういうことだ。これからどうするかは会議にかけねばならん」

「わかった。あいつらにはそう伝える。あんなコソ泥ひとりいなくなろうが、隣村の奴らはどうせ気にもしない」

 クリストフは頷き、作業の進捗を尋ねるために村人たちの輪に戻っていった。最後にフランクの付け加えた侮蔑が、自分自身に言い聞かせるようであったのは、エリックの錯覚だったろうか。去っていく父を見つめる彼の表情からは窺い知れないことだった。

「よくやった」

 かけられた声にフランクが振り向いた。

「ジャンの爺さんか。別に俺が見つけたっていうわけじゃねえよ」

「だとしても、見つけた奴らに指示を出したのはお前だ。よくやった」

「なんだ、あんたが人を褒めるなんて珍しい」

 声をかけてきたのはジャンだった。フランクはおどけるように返していたが、先ほどまでの思い悩む雰囲気はなくなっていた。ニネットによれば、フランクは昔からジャンのお気に入りだったらしい。

「クリストフはいい息子を持った。お前は神の御意志ごいしに報いたんだ――」

 突然、ジャンが激しく咳き込みはじめた。肺の奥から来るような空咳をくり返す。

「おい、どうした」

「大丈夫ですか」

 エリックは駆け寄り、その背に手をふれた。

「やめろ」エリックの手はすぐに振り払われた。「触るな」まだ小さく咳き込みながらも、ジャンの目が苛立たしげにエリックを見た。唾を吐くように言う。

「ただの咳だ。お前に診てもらう必要はない」

「ですが」

 ふれた背中は熱をもっているように思えた。加えて、目は赤く、額はうっすら汗ばんでいる。顔色もよくない。そうしてまじまじと見れば、常の険しい表情もどこか力なく、取り繕って感じられないか。

「神をないがしろにするような、よそ者の語る医術など信用できるものか」

 剣呑そのものの眼差しでジャンは言った。

 この世の創造や奇蹟が神のわざならば、それをかの殿堂より学び取る人のわざこそ医学だ。ゆえに神の為された世界を読み解き癒やす、医療はそれだけで信仰に一致する。史上あまたの医学者はそうして、敬虔けいけんでありながらも、あるいはそれゆえに医学を修めてきた。

 しかしそれが神の火をかすめとる行為であるのも事実だ。ジャンのごとき信仰者にとって、真実とはいまだ神の掌中にしかないものなのだ。そしてまた、エリックの内に信仰の火のないことも間違いがなかった。諦念と共に、しかし医療者のはしくれとして、せめても口にした。

「私を信用いただけないのは残念ですが、こうも続いての作業です。疲れが祟ることもあるでしょう。懸念も晴れたことですし、今後のためにも今日はよくお休みください」

「言われずともそうするさ」

 老猟師はフランクと連れだって去っていった。

 エリックは二人を見送りながら思った。お前の医術は信用できないというのは、信用できるならば診察を受けるということだ。先ほどのジャンの言葉は自分の不調を暗に認めるものだった。彼自身にも自覚はあるのだろう。頑健な男であるが、ジャンとてすでに老境にさしかかる歳である。こうして連日、陣頭で作業の指揮をとっていて、疲労が堪えないわけもない。

 ようやく村人全員が揃ったのは、夕暮れも間近の時刻だった。残りの作業は明日に回されることになり、クリストフの号令で解散となった。村人たちは山を下りはじめた。空は厚い雲に覆われていたが、結局、雨は降らなかったなとエリックは思った。


 家へ着いた頃には、あたりは真っ暗だった。掲げたランプを玄関扉の横に吊して吹き消す。明かりは細い月の光だけになった。ふだんのネージュでは誰も出歩かないような時間帯だが、ここ数日はこのくらいの帰宅が当然になっていた。エリックが扉を開けると、ニネットが食卓について待っていた。

「いい匂いだ。今日は豪勢だね」

 上着を脱ぎながらエリックは言った。食欲をそそる香りが部屋じゅうに漂っていた。食卓にはかぶとキャベツのスープ、ライ麦のパン。挽肉とジャガイモの重ね焼きアシ・パルマンティエ。さらに杯には葡萄酒ががれている。濃い色からして水で薄めた安物ではなかろう。食器が卓上のランプを反射してかがやき、エリックはそれが、結婚の際にニネットが家から贈られた銀器であると気づいた。彼はぎょっとして妻を見た。これまで彼女がそれを食卓に饗するのは、教会の定めた祭日を祝うときだけだったからだ。それがなぜ――

 引き結ばれた唇には決意が、彼を見返す強い眼差しには不安がはりつめていた。針でひと突きすればすべてが決壊するような、これまで見たことのない妻の顔。幾層にもわたる複雑な感情の綾が、ランプに照らされた陰翳としてそこに浮かび上がっていた。ただそこからは、生来の明るさだけが欠け落ちていた。

「体調はよくなったかい」

 椅子を引きながらようやく口にできたのは、だから迂遠な問いかけだった。

「エリック、食べて。冷えてしまいますから」

 ニネットはエリックの問いには答えなかった。

「ああ、そうするよ」

 エリックは促されるがまま料理に手をつけたが、食事を楽しむ余裕はなかった。ニネットから目が離せなかったのだ。彼女の目は食卓のグラタン皿に落ちていて、やがて意を決したようにそれを自分の器に取り分けた。焦げたチーズの割れ目から香ばしい湯気が立ちのぼり、ニネットの表情をひととき隠した。

 挽肉とマッシュされたジャガイモ。こんがりと焼けたチーズ。銀のスプーンでひとすくい、ひと掬い。ニネットは急くようにそれを口へ運んだ。溶けた脂が唇の端から垂れ、ピンクの舌が舐めとった。脂のふれた肌が真っ赤になった。涙がその上をつたった。

「おい……」

 挽肉とジャガイモの重ね焼きアシ・パルマンティエ。ピュレとチーズで封じられた熱が彼女をいていた。肌を、舌を、口腔を灼かれながら、しかし彼女は次を掬った。激痛に両眼からは涙があふれ、彼女はそれでもそれを口に運び続けた。

「――おい!」

 我に返ったエリックは彼女の腕をつかんだ。スプーンを払いのける。

「なにをしてる!」

 彼女を責めたいわけではないのに、とっさに口をつくのは悲しいくらい凡庸な台詞。それも怒声。そんな自分に歯がゆさを覚えながら、エリックは食卓を回って妻のそばに行った。

「火傷は。見せてみなさい」

 彼女はふるふると首を振った。「大丈夫。なんでもないの。ほら、お食事の続きを」

「馬鹿なことを言うな。これを飲んで」

 水差しを取って来て、ニネットに手渡そうとする。彼女はそれを拒んだ。

「なあ。どうしてこんなことをするんだ」

 ようやく尋ねられた言葉には困惑が混じった。

「なにがあった。教えてくれないか」

「大丈夫……もう大丈夫だから」

 けれどニネットは力なく首を振るだけ。涙を流しながら、彼女は哀願するようにエリックを見た。煙たく灰色がかったブルー。いとけない子どものようで、その実自らが落とした影の映りこんだ色。ただまっすぐにその目は告げた。

 彼女の浮かべていた表情、あの複雑な陰翳の意味を。

 エリックは悟った。ニネットに何が起こったのか――いや、

「……わかったよ。何も訊かない。だから、お願いだからこれを――口に含んでゆっくり飲もう。火傷を冷やさなければ」

 ニネットは頷いて、エリックから水差しを受け取った。口をつけて飲み下した。

「よし、いいね。よくがんばった。後は私が片付けるから」

 そう言ってエリックは彼女を寝室へと促した。先ほどまでと変わって大人しく従ってくれたのは、彼がすべてを悟ったことを彼女もまた知ったからなのだろう。

 ちいさな背を寝室の暗闇に見送ると、困惑と混乱と、骨に染みいるような疲労がやって来て、エリックは椅子に深く沈み込んだ。一人きりになった食卓を眺めれば、寝室に入る前にふり返った、ニネットの言葉が思いだされた。

「食べて」

 彼女の言ったそれは目の前にあった。冷えてしまったアシ・パルマンティエ。ニネットの得意料理。彼女が涙を流しながら、自らの身を灼きながら口にしたその品。エリックはスプーンを手に取って一口を掬った。チーズとマッシュポテトは冷えて硬く、肉は崩れて、脂はすでに白く凝固していた。それでも口にした。

「そうか……」

 寝室へと歩いていくニネットの後ろ姿を思いだし、エリックはうめいた。

『盗まれた肝のことです。どんな病でも、治すことができるとか』

 それはきっと真実の一端でしかない。竜の肝は万病を癒やす。あらゆる病を治し、そのですら跡形もなくすことができる。だが、その力は病だけにおよぶものではないのだ。それはたとえ不慮の怪我でさえ、たちどころに癒やしてしまうにちがいない。重大な――たとえば、口腔と咽にわたった重度の熱傷であろうとも。

 あのときのニネットの不可解な表情。おそらくいま、エリックは彼女と同じ顔をしているのだと思った。それは罰を待つ咎人とがびとの表情だ。

 けれど、とエリックは思う。

 神を信じられぬ己を、ならば何者が罰してくれるというのだろうか?

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