第二章 はらわた

「エリックさん」

「無茶するからだ。一人で山を下りるなんて」

 ベッドに横たわったニネットがつらそうに頷いた。

 村人たちと共にネージュに戻ったエリックを出迎えたのは、憔悴しょうすいした様子の妻だった。間違いなく連日の疲労のせいだ。手足に麻痺のある彼女にとって、山道はかなりの負担になるはずだ。支える者のいない一人きりの道のりであればなおさらだ。

「熱はあるかい」

 エリックは尋ねながら、ニネットの額と首筋に順に手を当てた。うすく汗をかいているものの、「いえ」とニネットが首を振るように、熱っぽさはあまり伝わってこない。

「少し、我慢してくれ」

「んっ」

 シャツの襟ぐりから手を滑り入れた。体熱を調べるには腋窩が良い。そこでもやはり熱はないようだった。手を抜くと、羞恥心ゆえだろう、ニネットの顔が赤らんでいることに気づく。罪悪感が込み上げた。

「悪かったね。夫婦とはいえ、むやみに触れるべきではなかった」

「いえ、少し、驚いただけですから……」

「当たり前だな、こんなこと。私が悪かった。気をつけるようにするよ」

「……ごめんなさい」

 ニネットが視線を俯かせて言った。彼女はこうして身体に触れられることを好まない。エリックが妻と床を共にすることが少ないのもこのためだった。

 とはいえ、エリック自身も色を好むわけではないし、それゆえに彼女を愛しているわけでもなかった。人を真に愛するために肉体は不可欠ではないと、エリックは信じているし、知ってもいる。二人の間に通いあう水脈みおは、肉欲より生まれるそれよりもはるかに澄んで、はるかに強固なものだからだ。

「君が謝ることじゃないよ。悪いのは私だ」

 エリックはかぶりを振って続ける。

「だがすくなくとも、熱はないようだね。きっと疲れがたまったんだろうな」

 エリックが診たところ、身体には問題がなさそうだが、精神的に参っているのだろう。ニネットの表情は暗かった。けして騒がしくはないものの、ふだんから明朗な彼女だ。余計にその様子が不安に思えた。

「弱ったことに、今日は定例の会議だ。昼にはできなかったからね。結局、議題は竜のことだろうけど、どちらにせよ長くなるだろうな。君はよく休んでおくんだよ」

 エリックの言葉にいちおうは頷いたものの、やはりニネットの反応は鈍かった。立ち上がりかけていたエリックは、ふたたびベッドの脇にひざまずいた。

 伏せがちな青い目。不規則に上下する胸。連日の無理だけではない。このように体調を崩してしまったこと自体が、彼女を苦しめているのだと気づく。

 不自由な身体という引け目があるからこそ、ニネットは人一倍の責任感を背負い込んでいる。それなのに、やはりその不自由さゆえに村の助けになることができない。メイヤー家の長女なのだとニネットは言う。彼女にしてみればきっと、これほど情けないことはないのだろう。

「……ニネット。私の師はね、誰にも天命があると言った。果たすべきこと――神に与えられた使命、ということだ」

 エリックは妻におだやかに語りかけた。

「私は、そうだな……正直なところ、神というものを信じてはいない。けれど、師のことは信じていた。だからその言葉は信じている。君は君だ。無理をして他の誰かを演じる必要はない。君は、君がやるべきと思うことをやるんだ――君が心から望むことを」

「……はい」

 ニネットはエリックを見つめて微笑んだ。弱々しくともたしかなかがやき。そこには生来の明るさのへんりんが戻ってきたように見えた。エリックはその頬に手をのばしかけ、髪を撫でるにとどめた。麦色の髪。こまやかなその感触が指先に長く残った。

「それじゃあ行ってこよう」

「お気をつけて」

 妻の言葉を背に、エリックは部屋を出た。

 その晩の村会議は夜明け前まで続いた。議論が紛糾した理由のひとつは、議員以外にも数名の村の上席が出席したからだった。彼らは利害を一致する村のいくつかの家族、いわば派閥の代表だった。派閥にはそれぞれの狙いや思惑があり、ネージュの共有財――竜の分け前について言い分があった。

 肉を喰えば喉が渇き、腹がくちた獣は安寧な寝床を探し回ろう。獣の飢えには際限がなく、それは人といえど例外ではない。けして公には出せぬ議事録を取りながら、エリックはまざまざとそれを思い知らされた。

 村外の者や、ひいては領主に竜のことを知られぬための方策も重要な議題となった。

 特に厄介なのは近隣の村の者たちだ。定期的に訪れる官吏や行商人は来訪が予測できるが、偶然近くの山にやってきた猟師などは、どうやっても避けようがないからだ。さりとて、一晩中火を焚いて見張るというのも現実的ではないし、その行為自体が骸の存在を喧伝してしまうこともありえた。結局のところ、竜のことを漏らさないためには、迅速に作業を終わらせるしかないのだった。

 やがて会議が解散すると、議場にはエリック一人が残された。疲労と眠気が全身に重くのしかかり、額を強く揉んだ。二時間もすればまた山に入らねばならない。エリックはランプと月明かりだけを頼りに、未明まで議事録の整理と偽造の作業を続けた。


 異臭が鼻についた。

「誰がやった」

 やはり船に似ているとエリックは思った。長い首は折れたマスト。広げられた膜翼は打ち棄てられた帆。竜骨を天に向けてくつがえされた肉色の難破船。四肢と翼をもがれ、鱗を剥がれ、それはもはや生き物と思えなかった。

 いまださんときらめく、その眼以外は。

「誰が、やった」

 クリストフの静かな怒声が朝の濡れた森に響いた。答える者はいなかった。答えられる者はなかった。誰もが目の前の事態を測りかねていた。エリックもその一人だった。

「おお、なんてことを」

 村おさの次に言葉を発したのはエディスだった。僧衣に身を包んだ老婆は、竜の骸の前によろよろと進み出て、ひざまずいた。とりすがるように竜の骸へ手を伸ばす。まるでそれが彼女の祈る神そのものであるかのように、厳かに頭を垂れ、「おお、おお」と唸った。しわがれた声は呪詛じゅそのように響いた。彼女は幾度も、幾度も、くり返し骸に向かって頭を垂れた。エリックは老婆から顔を背けて竜の方へと目をやった。

 座礁した竜の骸。宝船。ネージュに富をもたらす神なる奇蹟。

 その腹がぱっくりとけていた。

 一度では目的を達せなかったのだろうか。竜の皮膚には手荒な傷が幾筋も走る。それらを継いだ稲妻のような鉤裂が、ついに竜の腹を破っていた。血の気のない乳白色の胃袋が地面にべったりと広がる。傷口から引きずり出された腸は濁った泥色で、大蛇のようにうねっていた。乱暴に腹を開けたせいか、胃腸はあちこちで破れて中味をこぼれ出している。まだ肉のこびりつく溶けかけの獣骨。塊状になった毛皮の断片。粘度の高い黄色の液状物。エリックは鼻を手でおおった。臓腑の腐敗臭がはらわたから漏れ出した糞便のそれと混じり合って、耐えがたいものになっていた。口を開けたときのあの臭いとさえ、比べものにならない激烈さだった。

 誰がやったのか。この場でその問いに答えることは無理だろう。だが、その目的であれば、エリックにも一瞥いちべつして察しがついた。

 肋骨の奥には肺と心臓。横隔膜によって隔てられた腹腔内には胃とそれにつながる長い腸。獣の身体の作りは、こと内臓にかぎっていえば驚くほどに人間に似ている。そして、大きさの違いや細部にさえ目をつむれば、露出した構造を見たかぎり、竜もまた同じようだった。しかし、そうであるなら、竜の骸には足りないものがあった。

「肝だな」

 ジャンが言った。エリックも同意見だった。何者かが村人たちに知られぬうちに、竜の腹を破り、はらわたを掻き出して、その奥から肝を抜き去ったのだ。口にすれば万夫不当の力を得るとも、業病ですら一切れで癒やすとも謳われる竜の肝だ。その動機は十分に理解できた。

「クリストフ」

 エディスが立ち上がり、村おさを振り向いた。鬼気迫る表情。

「この肉は御主おんあるじみずから、直々に賜られたもの。それをこともあろうに盗み出すとは、これは冒涜ぼうとくに他なりませぬ。この恐るべき涜神者とくしんしゃを捕らえ、御身の前へ引き立てることこそ、神のしもべたる我々のなすべきこと。クリストフ。わかりましょうね」

 自分で自分を煽るかのように、エディスの声はどんどん荒くなった。口角に泡が散った。振り乱れた白髪はくはつの向こうで、彼女の真っ黒なひとみが周囲をめ回した。

 村人たちもようやく事態を理解し始め、エディスの言葉には怒気混じりの賛同が上がった。彼らの怒りはエリックにもよくわかった。これほど苦労して手に入れた財産を、誰かが横からかすめ取っていったのだ。特に解体に参加した男たちの怒りはひときわだった。彼らの勢いに押されるようにしてクリストフが頷いた。

「もちろんです。神慮に応えられぬだけではない。犯人を見つけなければ、骸のことが村の外に知られるかもしれない。それだけは避けなければならない」

 エリックはクリストフの巧妙な口ぶりに感心を覚えた。彼はあえて村の外と表現することで、疑いの目を外部に向けるつもりなのだ。

 実際には、ネージュ内の犯行を否定することはできない。むしろエリックにはそちらの可能性の方が高く思えたし、クリストフも同じ考えのはずだった。

 わざわざ腹を開けて肝だけを盗み出すというのは、外部犯にしては大胆すぎるし、逆に言えば的確すぎるからだ。そもそも、ここまで解体の進んだ骸は、一瞥しては竜のものだとは言いがたい。五体の揃った骸を見て竜の実在を確信している村人たちはともかく、外部の人間が現状の骸を見て、肝を引きずり出すほどの伝承への確信を得られるとは到底思えなかった。

 だがそれでも、ここで村おさが村人たちへの疑いを口にすれば、村内に疑心暗鬼の種を撒くことになる。そうして村の結束が緩めば、本来の目的である骸の解体すらも覚束なくなってしまうだろう。

 クリストフの判断は功を奏し、ざわつき始めた村人たちが犯人として挙げるのは、村外の人間の名ばかりだった。まずは安心といえそうだった。

「みな、落ち着け。こうして憶測を口にしていても仕方がない」

 クリストフは周囲に呼びかける。

「ジャン、どうだ。なにかわかるか」

 そうだな、と水を向けられたジャンが答えた。彼は屍体に歩みよると、開かれた腹腔を覗き込んだ。さすがは練達の狩人というべきか、凄まじい臭気にも顔色一つ変えていない。しばらく検分すると、いつもながらの険しい表情で言った。

「初めての獲物を扱うにしても、かなり手際が悪い。腹を開ける時のナイフもそうだが、肝を抜き出すのにも苦労した跡がある。同業者ではないらしいな」

 同業者。つまりジャンと同じ猟師ということだ。たしかに、内臓を傷つけてしまっていることといい、手慣れた印象は受けない。だがそうなると、猟以外でわざわざこのような場所を訪れる者がいるのだろうか。やはり外部犯の可能性は薄そうに思える。

「それ以上はわからない。だが、お前の言うとおり、外に漏れるのは不味いな」

「よし。解体は一旦中止する」

 クリストフの決断と指示は早かった。数名の男手を監視役として残し、それ以外は女たちの大半も含めた村人総出で盗っ人の捜索に当たることになった。山狩りだ。

 内部の犯行の可能性が高いだけに、エリックには結果が出るとは思えなかったが、どのみち村人たちの怒りのはけ口は必要だった。エディスの儀式しかり、今回の件しかり、村の団結と利益のためなら無意味と思えることでも率先して行う。エリックには義父の村おさとしての信念がわかってきたような気がした。

 山狩りに行かない居残りたちは、ジャンの息子がまとめることになった。通常より驚くほど遅いとはいえ、竜のはらわたは既に腐敗がはじまっている。それらを抜き出し、可能であればその他の部位も解体を進める。そのためには獲物の解体を指揮できる人間が必要だった。

 村人たちの輪に混ざる。エリックは山狩りに加わることにした。解体を手伝えるほど体力も能力もないからだ。とはいえ、ネージュの危機は村人全員にとっての危機。真実から目を背ける行為であっても、これからのネージュに村人同士の結束は不可欠であり、時にそうした結束には虚構が必要とされる。エリックも村の一員であることには変わりはないのだ。

 そう、一員だ。エリックは思った。自ら望んだわけではない。しかしなりゆきとはいえ領主を欺くことを決めた時点で、ここにいる全員と道行きを共にすることは決まっていたのだ。そう思うと、運命の皮肉に笑みさえこぼれるようだった。このようないびつな状況で、ようやく村人たちに連帯を感じはじめるとは。

 クリストフとジャンが村人たちを三人ずつに分けた。三人であれば、抵抗に遭っても二人が押さえ、一人が応援を呼びに行けるという算段だ。周囲を見わたせば、怒りと覚悟に満ちた硬い表情が目に入った。わずかな怯えすらもそこからは見てとれた。

 みな同じ罪を背負っているのだとエリックは思う。自らの背にもそれが担われていることを意識する。領主への偽りではない。そうではなく、この重みはもっと曖昧で、根源的で、感覚的なもの。

 。罪は味わいとしてある。竜を殺し、その身からそぎ取った肉の味として。

 ぶるりと身体を震わせた。見上げれば、雨になりそうな雲だった。

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