翌朝はやく、村人たちは山に入った。ネージュからはおおよそ二リュー。三時間強の道のりのあと、竜の骸は昨日と変わらぬ姿でそこにあった。

 小山のような胴と切り離された四肢。太い尾に二枚の翼。どの部位も半ばまで肉が剥き出しになり、凝血や土埃で汚れているが、昨日と同じく、屍肉にたかる獣ですら寄りついた跡はなかった。どうやら見張りは必要なかったらしい。村人たちがささやき交わす。

 村のことを思うならば、彼らと同じように喜び安堵すべきはずなのに、エリックが覚えるのは底冷えするような薄気味悪さだけだった。濡れ布を掛けたような森の静寂に、その印象は余計にきわだった。

 作業の前になって問題が持ち上がった。男たちを集めていざ解体に取りかかろうというところで、エディスが再び祈祷をすると言い出したのだ。竜の前に立ちふさがった老婆に、クリストフは諭すように声をかけた。

「エディス様。儀式は昨日なされたではないか」

「主が望まれている」

「時間は一刻も惜しいのです。この暑さだ。屍体がいつ腐りはじめてもおかしくない」

 クリストフの言はもっともだった。なんの意味があるかもわからない儀式に、貴重な時間を割くわけにはいかない。さりとて、エディスに真っ向からはんばくすることもできず、彼としてはそれが精一杯の抵抗だったのだろう。

「この竜は主が我々に賜られたもの。神意にのつとるかぎり、きずつくことなどありませぬ」

「しかし……」

「クリストフ。エディス様は正しい、お前は謙虚になるべきだ。もし主の計らいがなければ、俺はあの晩死んでいた。そして、そうでなければ、この骸を俺たちが手に入れることはできなかったんだからな」

 ジャンはそう言うと、倒木について話した。竜が墜ちるのを見たとき、目の前に折れた大木が倒れてきたというのだ。もし数歩でも位置がずれていれば自分は死んでいた。そうならなかったのは、この骸を自分に見つけさせるための神の差配だったのだと。

「主より下賜かしされたものに手をつけるんだ。十分な感謝を果たさねばらなん」

 エディスを除けば、ネージュでもっとも信心深いのがこの男だった。山という気まぐれで仮借ない存在を相手どる猟師ゆえの、深い信仰心か。おそらくはそうした点もまた、自分と相容れない要因なのだろうとエリックは感じていた。

 村でも発言力のある二人に迫られ、さしもの村おさも折れるしかなかった。

「わかりました。では、お願いしました」

 苦々しい譲歩だっただろうが、頭を下げるクリストフはそうした内心をうかがわせなかった。村を率い、村人たちの利害を調停していくためには、信念を曲げるべき時もある。それが巧みであるからこそ、彼は村おさとしてみなの信頼を勝ち得ているのだ。

「参ったな。またしばらく待たされそうだ」

 エリックは隣の妻に小声で話しかけた。

「そうですね……」

 返事は上の空だ。エリックはいぶかしんで、

「なにか気になることでも?」

「ええと……作業の進み具合は、どのくらいかと思って。昨日の午後からはあまりこちらにはいなかったですから。頭を――外したあとで、そこからは変わりましたか」

 ニネットは他の女たちと共に働いており、解体の進捗は見ていなかった。

「そうだね、四肢は切り離したが、そこからはずっと鱗を剥がしていただけだ。あまり変わってはいないよ。それに、鱗はまだかなり残っているから、今日じゅうに全部終わるかどうかというところだろうな」

 そこでエディスの儀式に目をやる。

「時間が許せば、せめて内臓までは取り出したい、という話だったんだけど。身体の中では、はらわたがいちばん腐敗が早いからね」

「難しいんでしょうか」

「どうやら胴体の鱗は相当に頑丈みたいでね。剥がしきるには時間がかかりそうだ」

 皮肉めいた言い方になるのは抑えられなかった。村人たちに馴染めない原因も、幾分以上に、このような自分の頑迷さにあるのだ。自覚しながらも、容易には変えられないからこその性向であった。

「本当だと思いますか」

 ニネットが何かを口にした。

「ん、ああ――悪い。聞いていなかった。なんのことだい?」

「いえ、なんでも。すこしお母さまと話してきます」

 ニネットは首を振ると、女たちの方に歩いていった。なんとはなしに目で追えば、後ろ姿のひきずった右足がいつもより痛々しい。先ほどのぼんやりとした様子はそのせいだったのだ。エリックはようやく思い当たり、自分の愚かさに舌打ちした。妻の疲労を気にもかけず、まるで自分のことばかりを。

 エリックが彼女を追いかけようとしたところで、

「それでは集まってくれ」

 クリストフの声だった。ふり返ると、間の悪いことに、エディスの儀式が終わったようだ。村おさのもとに男たちが集まっていく。ニネットの去った方にふたたび目をやったが、すでに妻の姿はなかった。昼食になるまでは会えないだろう。後ろ髪を引かれながらも、エリックは男たちの中に混ざった。

 エリックは昨日と同様に頭部の担当になった。フレデリックは勝手な行動が報告されて尾に回されたらしい。彼と同じポジションでなくなったことに、エリックはひそかに安堵を覚えていた。悪人というわけではないが、どうも相性の合わない男だった。道化めいていて、しかし愚かではなく、柳のように正体を掴ませない――

「っ……」

 剥がした鱗を麻袋に入れようとしたとき、痛みを覚えた。袋から引き抜いた指先に血の玉がふくらんでいく。鱗の縁で切ったようだが深くはない。しばらく圧迫すれば止まるだろう。エリックは作業の手を止めて止血をはじめた。

 傷を押さえる手は肉刺まめだらけだった。昨日から慣れないナイフを扱っていたせいだ。ネージュでの教師の仕事に肉体労働は少なく、時折、畑を手伝うことがある程度だ。教師への対価は村の蓄えから出るため、農具を握る必要はほとんどなかった。そうした普段からの生活の違いが体力の差として出ているのだろう。疲労を感じさせない他の男たちの働きぶりを見て、エリックは苦笑した。たいしたものだ。

 傷を見ると、そろそろ止まったようだった。それにしても、加工ひとつしていないのに見事な切れ味だった。鋭利な傷跡を見て、エリックは麻袋から鱗を一枚取りだした。竜の鱗は大きさのわりに一枚一枚が驚くほど軽く薄く、斧ですら傷つけられなかったとは到底思えない。金属よりも硬く革よりも軽い。たしかにこれならば鎧としても、あるいは刃物としてすら、すぐれた武具になるだろう。

 さらに緑青色の表面には微細な溝があり、てのひらの上で転がしていると、光の当たる角度により表情を変える。貴石にも見劣りしない美しさだった。一級の武具の素材であると同時に王侯もうらやむ宝飾でもある。竜がここ数百年姿を見せていなかったのも、案外人間の手により狩り尽くされてしまったからかもしれない。知識のないエリックでさえ、それほどの値打ちが見てとれた。

「魅入られますね」

「またあなたですか」

「ご迷惑でしたか」

 フレデリックだった。

「そうとは言いませんが。なにか御用ですか」

「呼びに来ただけですよ。昼食だそうです。よければご一緒できないかと」

 エリックはフレデリックの顔を見た。整った顔に顎髭。唇には常のようにうっすらと笑みの気配を漂わせている。この男にとってエリックを昼食に誘うことにいかなる利があるのか。本当に考えの読めない男だった。

「いえ。せっかくのお誘いですが、妻が来ていますので。彼女とるつもりです」

「それはそれは。残念だ」

 言葉と裏腹にあっさりと、フレデリックは引き下がった。

 そういえば彼はまだ独身なのだった。去っていく背中を見てエリックは思いだした。あの若さで村会議員で、家柄も容姿も良いのだから、村の女たちからの評判はいいはずだが、本人がああでは仕方がない。

 エリックも作業をやめて道具を片付けると、男たちの輪に入った。クリストフがみなに進捗を報告させている。エディスの邪魔が入って開始は遅くなってしまったが、慣れてきたのもあってか、解体作業自体はスムーズに進んでいるようだった。このままなら今日の夕刻までに大半の鱗が剥がしきれる目算だった。

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