間近で見る竜の骸は、生き物の死骸というよりも、年経た樹木や岩によく似ていた。ただそこにあるだけで息苦しさを、目眩をすら覚えるほどの存在感に圧倒される。

 エリックは一瞬ためらってから、鱗に覆われたそのはだにふれた。

 ひんやりと硬かった。竜のそれは、外見の似たトカゲや蛇の鱗とは異質で、どちらかといえば魚のものに近かった。大きさは人間の手のひらほど。それでさえ、首回りのものは比較的小さい。竜の全身には、それらがびっしりとタイル状に敷き詰められていた。

 気づいたのは、表面を撫でてみたときだった。それぞれの鱗の一方、尾のほうの端が浮き上がっている。そのため、ちょうど魚の鱗がそうであるように、表面を撫でると一定の流れがあるのが感じられるのだ。

 あるいはと思い、エリックはフレデリックからナイフを借りた。切っ先を鱗の端に差し込む。持ち替えて、柄の尻を押すように力を込める。肉を断つ感触とともに、徐々に鱗の裏側に刃が入り込んでいくのがわかった。半ばまで突き立てたところで梃子てこを利用し、鱗を持ち上げる。しばらくナイフをこじって肉を切り裂いていく。最後に残った硬いすじを断つと、鱗はエリックの手の中に落ちてきた。周囲がざわめくのがわかった。

「なるほど、考えましたね」

 横で覗き込んでいたフレデリックが、感心した声を上げる。

「はい。要領は、魚の鱗を落とすのと一緒です」

 エリックは立ち上がると、背後の男たちをふり返った。剥がした鱗をかざす。それは初夏の陽光を反射して、鈍くも美しくかがやいた。達成感が胸をき上げる。

「いまの感触からすると、鱗の下は、おそらく普通の肉と変わりありません。鱗を剥がしてしまいさえすれば、肉切りナイフの刃でも通るでしょう」

 見わたした男たちの顔は心なしか上気して見えた。いや、事実そうだっただろう。なにしろエリックがいま掲げているものは、同じ重さの黄金に匹敵する品なのだ。それがいま目の前に、文字通り、数えきれないほど並べられている。期待に胸が膨らまないほうがおかしいというものだ。

「よくやってくれた」

 クリストフがエリックをねぎらう。

「見ていたな。やり方はエリックが見せた通りだ。始めよう」

 村おさの指示に従って、男たちは七つのグループに分かれた。基本的な方針はジャンが最初に言った通りだ。それぞれが頸部けいぶと四肢の付け根、尾と翼を担当して鱗を剥がし、刃が通るようになれば胴体から各部を外していくのだ。

 竜の強力なきんけんを切り裂いて鱗を剥がすのは、岩から苔を削り落とすのにも似た気の遠くなる作業だった。なにより数が膨大である。四肢の付け根をそれぞれ一回り剥がすだけでも相当の時間を要した。太陽が南中に入る前に、男たちは例外なく汗みずくになった。しかし、剥がし落としたそれらがすべて黄金に変わると思えば、なんら労苦にも感じられなかった。昼までには四肢と、次いで、尾と翼とが胴から外された。本来であればジャンが告げたように頭部が最初のはずだったのだが、誰が言うでもなく後回しになっていた。

 結局、頭部を切り離すのは昼食を終えた後になった。男たちはどこかよそよそしく準備を始めた。まずは四肢を斬り落としたのと同じ要領で、八人がかりで持ち上げたくびの下に丸太が差し込まれた。即席の断頭台。そうして頚が固定されると、頸骨けいこつから伸びた棘と棘の間に鉈が振るわれた。六度目でようやく切れ込みが入った。その切れ込みに合わせて、丸太切り用の二人挽き鋸があてがわれた。

 エリックは息を飲んだ。エディスが口の中で何事かをつぶやくのが聞こえた。いつの間にか昼食の片付けを終えた女たちもやってきていて、妻の姿を認めたエリックは手招きしてそばに寄せた。

 雨に濡れた外套のような、重い沈黙が辺りをおおう。

 竜の断頭である。聖人や英雄の口碑こうひにのみうたわれる光景である。

 それは尋常の身で成すにはあまりに重い大業だ。フランクともう一人、二人の挽き手にとってもそうだった。ためらうように動かない彼らを呪縛から解放したのは、クリストフの厳とした一声だった。

「始めろ。私が許す」

  冷静になれば意味の通じない言葉だ。だがそれでも、彼の言葉は正しかった。人は許しを必要とする。それが無意味だと知っていてさえ。そして今がまさしくその時なのだと、エリックにもわかった。

 二人の男は目を合わせると、肩をいからせ、満身の力を込めて鋸を挽いた。ひと挽き、ひと挽き、鋸刃が肉に食い込んで沈む。鋸が往復するたびに、切り口からは固まった血と微塵みじんになった肉と脂の、あかあかとした鋸屑きょせつがしたたり落ちた。丸太の断頭台が徐々に汚れていく。ややあって、鋸屑に白い骨粉が混じりはじめた。切れ味が落ち、新しい鋸が用意された。挽き手も交替してさらに作業が続けられる。

 日が照ってきた。蒸し暑さに、エリックは背中に汗がにじむのを感じた。夏はじめの南中過ぎとは思えないほどに森は静かだった。静寂に満ちた夏の森。数十人の男女に囲まれて鋸を挽く二人の男たち。竜の肉は木材とは抵抗が違うため加減が難しいらしい。滝のような汗にシャツはびっしょりと濡れ、時折、疲労に天を仰ぐ。

 竜殺しの英雄譚というには、あまりに泥臭く、なまぐさい光景だった。

 それからもう一度、鋸と挽き手を替えた。残すところ四半まで鋸刃が達したところで、竜の首は自重で引きちぎれはじめた。肉が糸を引いてのびていく。熟れすぎた果実が枝をたわませるような間を空けて、ついに竜の首は落ちた。衝撃で、赤黒いものが辺りに飛び散った。エリックは頬を手で拭った。こごった血だった。

 それで終わりだった。

 みなが一斉に、忘れていた息を吐き出した。安堵のため息だった。

 死んだのだとエリックは思った。竜はいつだって首を落とされて死ぬものだ。だからその瞬間に竜はようやく死んだのだ。四肢も尾も翼も失って、首と切り離された竜の骸は、座礁して腹を見せた舟によく似ていた。

 あっけなく畏怖や恐怖が拭われた自分自身をかえりみて、ジャンの指示は的確だったのだとエリックは思った。こうなってしまえば、たとえ竜といえど屍体にすぎない。巨大ではあるが、しかしただ巨大であるだけのしかばねだ。そこに脅威はない。

 そうして男たちは各々、あてがわれた部位の鱗を剥がしはじめた。エリックは何人かの男たちと共に、切り離された頭部を任された。頭部といっても、切り離したのは肩のすぐ先だから、かなりの長さのある頚もついてくる。おまけに頚から先の鱗は小さく細かいため、一枚剥がすのにも根気がいった。

「恐ろしいもんですねえ」

 どことなく浮薄ふはくな声色は、共に作業していたフレデリックだった。エリックは顔を上げる。彼がいることを考えると、あえて面倒な仕事を引き受けさせられているのかもしれない。そのくらいの風当たりにはもう慣れていたが。

「なんですか」

「これですよ。ご覧になりますか」

 フレデリックが指しているのは竜のあぎとだった。いぶかしみながら立ち上がる。近寄ると、彼の言わんとすることが理解できた。たしかにそれは恐るべき造形だった。竜には口唇がない。並んだ歯はすべて剥き出しだ。そしてそのどれもが小刀ほどある。

 そうして改めて観察してみれば、竜というのは既存の生き物のどれにも似ない。全体としてトカゲや蛇のようではあるが、鱗は魚のようだし、四肢の付き方もよく見ればトカゲとは異なる。爪は鷹、五指を備えた手はおぞましいことに人間に近い。角張った顔貌がんぼうは狼を思い起こさせ、おまけに巨大な帆めいた翼である。さながら猛獣を継ぎ合わせたかのようなその姿は、一語で表しきれるものではない。

「手伝ってもらえませんかね」

 エリックが言葉を失っている間に、フレデリックが頭の反対側に回り込んでいた。

「何を――」言いかけて、彼の仕草を見て理解する。「開けるんですか、口を」

「見てみたいでしょう? ほら、合図で頼みますよ」

 フレデリックの強引なペースに巻き込まれてエリックも力を込めたものの、相当な重量があるようで、二人がかりでもほとんど持ち上がらなかった。だがそこで諦めるフレデリックではなかった。何が彼を駆り立てるのか、近くで作業していた男たちにも無理やり手伝わせ、ついに竜の口を開けてしまった。素早く木材を挿して固定する。

「……すごい臭いだな」

「だから言ったでしょう。やめておいたほうがいいと」

 顔をしかめながらエリックは言った。手伝ってくれた男たちも遠巻きにしている。竜の口腔からあふれ出てきた臭気は、それほど猛烈なものだった。

「言いましたかね。それにしても、なんだろうなこれは。血と肉と、猫の小便をごた混ぜにしたみたいな……うちの屎尿しにょう小屋のほうがまだマシだ。何か面白い物でも見つかるんじゃないかと思ったんだが、そう上手くはいかないな」

「他の議員たちに黙って売れそうな物が、ですか」

「お見通しでしたか」

 ネージュいちの商売人は、実にさまになる笑顔で答えた。だが、それはすぐに消える。

「ですが、わかってらっしゃらないな。かつえているときに他人に施せるのは聖人や英雄だけだ。だから彼らはその名で呼ばれるのでしょう。我々のような俗人は、目の前に皿があれば、食えるうちにそれを平らげてしまうものですよ」

 最後の言葉はエリックというより、周囲に聞かせているふうだった。男たちは後ろめたそうに目を逸らした。彼らの懐が何で膨らんでいるのかエリックには容易に想像がついた。鱗の二三枚があれば、騒動が一息ついた後の個人的な小遣い稼ぎには十分。みな、同じ穴のむじなというわけだ。

 とはいえ、なんの伝手もない村人たちが、竜の鱗などという眉唾物の品を捌けるはずもなく、だとすればたっぷりの手間賃は、目の前のこの男の懐に入ることになる。そこまで見越しての戯れ言なのだ。

「あまり怖い顔をされるな」

 伊達男はからかうように手を広げ、ふたたび笑った。

「そういうんだから、ジャン殿に目をつけられる」

 彼の手がすばやく動いて、上顎を支えていた木材をナイフで切りつける。支えが半ばからへし折れ、竜のあぎとは衝撃と共に閉じた。他の部位を担当している何人かが不審そうにこちらを見たが、それだけだった。

「目をつけられているのはあなたもでしょう」

「ははあ。違いない。さて、作業に戻りましょうか」

 フレデリックはあっさりと言ったが、エリックの気分は晴れなかった。他の男たちが三々五々自らの作業に戻っていき、エリック自身も作業の続きに取りかかっても、それは変わらなかった。

 べつだん、フレデリックとのやり取りを引きずっていはいなかった。ただ、何かが気になった。あのとき頭の隅で、自分は何か重大なことに気づいた。だがそれを取りこぼしてしまった。そんな引っかかりが、エリックのなかでいばらのように育った。彼はそれを振り切るように、作業に没頭した。やがてクリストフの号令で、この日の作業は終了になった。

 村人たちが下山の支度をする中、獣に荒らされるのを防ぐため、骸に見張りを立てるべきだという意見が上がった。けれどいざ自分が水を向けられると、意見を出した者も含めてみな俯くのだった。誰もが竜の骸の隣で夜を明かすのを怖れたのだ。フランクだけは一人でもやると息巻いたが、翌日の解体作業のためには彼の力が必要で、その男を一晩中眠らせずに山に残しておくことは避けるべきだった。そうして骸はそのままにしていくことになった。

 結局、恐怖を克服したというのはひとときの錯覚だったのかもしれない。一団となって歩きはじめた村人たちの中に混じって、エリックは思った。信仰や伝承など理由ではない。ただ、強大な存在が目の前にあるとき、それを畏れずにいられないのは、人間の動かしがたい本性なのだ。

 とりわけ、それを自らの手でしいしてしまった後には。

 エリックは立ち止まり、ふり返った。数人の村人が迷惑そうな顔で彼をよけていった。空には赤みを帯びた金の光が広がり、西の山並みへ太陽がじりじりと沈んでいく。美しくあざやかな夕景だった。

「どうかしましたか?」

 かたわらのニネットが尋ねてくる。

「いや、なんでもないよ」

 エリックは荷を負い直し、下山する村人たちの中にふたたび混じった。

 彼らの背に、空と同じ色の眼がそそがれていた。

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