鱗はまるで緑青ろくしょうを吹いた銅器。腹と広げた翼の皮膜だけは空の色に混じる青。背に並ぶ棘は骨を透かしてほの白く、けれど、頭を飾る角だけは血混じりのようにどす黒い。そして見開かれた眼は、死してなお光輝をはなつ、明星みょうじょうのごとき金。見慣れた森の風景にそこだけ見慣れぬ色彩。

 ひと目で、尋常のものではないと知れる。

 アラネイの森のひらけた――こじ開けられた空間に、かくして飛竜は横たわっていた。

 風は凪ぎ、さえずりもすだきの声も聞こえなかった。辺りには墓土のような湿った臭いが漂っていた。死臭だ。エリックは思った。骸の臭いではない。そうではなく、竜の屍から漏れ出た何かが、辺りの生き物を皆くびり殺したゆえの、死臭。

 そんな妄想を抱くほど、あたりは静まりかえっていた。

 エリックは集まった男たちを見た。何人かは今にも笑い出しそうだった。しかし彼らが感じているのが可笑おかしさなどではないことが、エリックにはよくわかった。自分もまたそうであったからだ。恐怖の硬直は笑顔のそれによく似る。

「昼に見ると、改めて怖気おぞけが立つな」

 ジャンが全員の思いを代弁した。二度目だとはいえ、竜の骸を前にして驚嘆する胆力だった。それで呪縛が解かれたように、男たちは握りしめた拳をゆるめた。口々にため息がもれた。

「死んでいるんだよな……」

 男たちの一人が、独白めいて口にした。

「死んだ獣の目は、見ればわかる」

 老猟師は答えたが、彼自身、信じていないような口ぶりでもあった。

 投げ出された四肢や折れた翼は、明かな死の表象だ。だが、巨大な飛竜の身体からは精気がたちのぼって見えた。いまこの瞬間にも起き上がるように思えた。丸太のような前肢が、短刀のような爪が、まさに振り下ろされるかのように。

「昨日と変わった様子は?」

 クリストフが尋ねた。

「いいや」ジャンは辺りを見回す。「獣どもも、寄りついていないようだな」

「そうだろうな……私たちもこの有様だ」

 そう言ってクリストフは苦笑した。追随して、男たちの間からも照れ混じりの笑声が上がる。森の獣たちでさえ、このような怪物は恐ろしがるのだ。ジャンがふり返った。

「どうだ、フレデリック。これでも疑うか」

「まさか。初めからジャン殿の言葉を疑ってなどいませんよ」

 水を向けられたフレデリックが、苦笑しながら歩み出た。

「しかし、まあ、これは……凄まじいものだな」

 彼は骸に近寄るとつぶやいた。あごひげを撫でながら逡巡したのち、好奇心が恐怖にまさったのだろう。死骸の傍らにかがみこんだ。ジャンの方をうかがう。

「触っても?」

「俺の飼い犬じゃない」

「はは、それもそうですな」

 竜の太い頭が、泥の跡の残る地面にのべられている。人間などひと飲みにするだろうそれに、フレデリックは手を触れた。鱗の表面をざっと撫でると「冷たいな」とつぶやく。ジャンとはまた違った意味で、肝の据わった男だ。

「さて、皆。いつまでもほうけていたら、日が暮れてしまう」

 クリストフが声を上げた。その視線が背後へと移動する。

「エディス殿」

 男たちを割って老婆が進み出てきた。黒い僧衣に着替えている。

 エディス。この短軀たんくの老婆がエリックは苦手だった。とりわけ彼女の黒い僧衣が。それは仔細に見れば黒衣ではなかった。元は白い僧衣の表面に、黒い糸でもってびっしりと、小虫がたかるように紋様が縫い取られており、それゆえに遠目には黒衣と映る。おそらくは入植以来伝えられてきた品なのだろう。誰が施したものか、エリックはそこに異常な妄執を感じとり、いつもぞっとするのだ。

 男たちは数歩下がり、エディスに場所を譲った。エリックにとっては場所を空けたというよりも遠巻きにしたといったほうが近かった。クリストフも含め、他の男たちも同様なのではないかと思える。

「エリックさん」

 不意に声をかけられ、ふり返ると妻の姿があった。

「ニネット! どうして、大変だったろうに。足は?」

「大丈夫です、この通り」

 スカートの下の腿を叩いて、笑顔を見せる。うっすらかいた汗が、ちいさな顔をかがやかせている。髪をまとめて野良着に着替えると、ほんとうに少女のようだった。

「わざわざ君が来なくとも……」

「皆に手伝いを頼んだのはエリックさんですから。わたしばかり楽をしていては、他の人たちに示しがつかないでしょう」

 言ってからニネットは慌てた顔になる。

「もちろん、エリックさんのことを責めているわけじゃなくて」

 エリックは妻の弁解におだやかに頷き、

「わかっているよ」

「はい……それに、」ニネットは誇らしげに胸を張った。

「わたしはメイヤー家の長女です。村の大事に駆けつけるのは当然ですから」

 たしかに彼女の振る舞いは、自ら語るにふさわしい堂々たるものだった。愛らしい笑顔には陰ひとつも見られない。けれど、そこに含まれる虚勢を見てとれてしまうエリックには、彼女の言葉を笑顔で受け取るのが難しかった。代わりに、彼は妻の背後に視線を移した。十人ほどの女たちが、背嚢はいのうを負って山をのぼって来ていた。

「ぼくも手伝おう」

 そう言ってエリックは女たちの方へ向かう。不自由な身ゆえに荷を免除され、しかし同じ理由で彼女たちを先導して来なければならなかった、ニネットの立場を思った。せめて夫である自分が彼女の不足を埋め合わせてやりたかった。

 しかし認めざるをえない。背後から聞こえ始めた陰鬱な祝詞のりとから、それが象徴する何かから、逃れる理由がほしかったのだということも。

 女たちが全員到着してからも、エディスの儀式は長く続いた。

 祈祷の最中に荷ほどきをするわけにもいかない。仕方なく、エリックは女たちと共に輪に加わった。浮かされたような声を滔々とうとうと響かせる老婆と、信心深く手を合わせる者たちから、彼は密かに目を逸らした。森はまだ濡れたような冷気にみちている。朝靄あさもやは森の下生えにわだかまったまま、初夏の日射しでもいまだ払いきれぬままだ。

 淫祠いんしという言葉が浮かんだのは、公文書の偽造という行為に対する背徳感からばかりではない。事実、エディスやジャンが祈るのは教会の説くところの神ではなかった。その絶対の威光も闇深いアラネイの山懐やまふところまでは届かない。ネージュで奉られるのはいまなお、土着信仰と教会の教義とのいびつなすえたる異形の神だ。

 開明的なクリストフを筆頭とする村人の多くは、エリック同様これを苦々しく思っているようだったが、一息でそれらを払拭するには信仰はあまりに村に根強かった。父が祖父がその父がかしずいてきたものなのだ。今さらになってたやすく棄て去れるはずもない。

 エリックとて、大学で学びはしても神学徒ではない無信仰者だ。ネージュの信仰を否定できるほどの強い思いなどない。しかし考えてしまうのだ。閉ざされた村で無批判に醸成されてきたそれが瓶中で病毒と化していないことを、いったい誰が保証してくれるのかと。

「すごいですね」

 そばに立つニネットがささやいた。

「竜のことかい」

「はい。なんて、おそろしい……」

 竜の背の輪郭が、男たちの頭越しに見えた。エリックはかつて故郷で見たブロンズ像を思い浮かべた。年古としふりた英雄像は、生きた男を溶けた青銅でもって固めたような迫真さがあった。いまそこに横たわる竜も、あの像と同じような悪魔的な精彩を放っていた。

「……だが、死骸だ。狼だろうが、竜であろうが、どんな猛獣だろうと、死んだけだものが人に害をなすことはできない」

 そうやって言い聞かせながらも、エリックは、胸の底に湧いたかすかな疑念を無視することができなかった。たとえ伝承に語られるような生き物といえども、もちろん、死後にまで人にあだなすことはできない。彼らの長いかぎ爪も、冥河めいがをへだてて届くことはない――

 

「そうですよね。それに、これがあれば……」

「ああそうだ。この村は救われる。必ず」

 エリックはせっかちに頷いた。口にすればそれが真実だと思えた。自分たちがこれから行うことは間違っていないのだと、信じられるような気がした。

「はい」

 ニネットがエリックの腕にふれた。彼はそれに応えて、小さな手を握り返した。握った手のひらは思いがけずひやりと濡れていて、エリックはニネットの横顔に目をやった。少女のようなかんばせと、熱をもったように強いまなざしとが、ひどく不釣り合いに見えた。けれど、きっとそれが、彼女の口にする誇りなのだとエリックは思った。

 そうやって気の重い儀式が終わり、ようやくエディスが引き下がった。入れ替わりにクリストフが前に出た。あらためて村人たちに、死骸についてけして口外しないように念を押す。村人たちもその重みを理解しているから、異論が出ることはなかった。

「これは神意だ。ネージュのため、子どもらのため、力を合わせよう」

 クリストフの言葉にみなの表情が引き締まった。「それでは始めてくれ」女たちは荷をほどき、炊き出しの準備にかかり、男たちも同じく荷物を下ろしはじめた。村の道具小屋をひっくり返してきたらしく、雑多な道具が次々と取り出された。幾種類もの刃物、斧やのこにハンマー、のみくわや鎌などの農具。鍛冶屋の男はやっとこまで持参している。

 獲物の解体となると、やはり詳しいのは猟師であるジャンだ。ジャンと彼の息子を中心としてエリックたちは集まった。彼の指示は簡潔だった。

「馬と同じでいいだろう。まずは頭、それから脚を外す」

 だが、すぐさま大きな問題がわかった。竜の身体を覆った鱗が、いっさいの刃を通さないのだ。鋭く研いだナイフも、丸太切り用の二人挽き鋸も、ネージュいちの大男――フランクが振るう伐採斧ですら、竜の鱗には傷ひとつつけることができなかった。

 刃こぼれした斧を地面に突き立てると、フランクは痺れた手を振った。肩で息をしながらクリストフに向き直る。

「親爺、どうする。これは無理だぞ」そう言って、彼は竜の頭を足蹴にする。「バケモノだ」

 フレデリックが、都会ふうに生やしたあごひげに手をやりながら言う。

「さすがは神に牙剥いた怪物ですな。絵物語にも真実は含まれていたというわけだ――聖ゲオルギウスの槍も、神の恩寵なしにはこれののどを貫けなかったのですから。フランクで無理なら、ネージュじゃあ他の誰もどうしようもない」

「愉快そうだな。おれに恩寵が与えられていないと言いたいか」

 フランクが突っかかる。一方のフレデリックはどこ吹く風だ。

「まあ、それはそうでしょうなあ。我々は神から縁遠い。それに、恩寵と言うのならば、斧はエディス殿に振るってもらわねばならん、ということになりますからな。この村では、神の愛はあのお方が一手に握られている」

「噛みつくなフランク。フレデリックもだ。無用な不和を起こすな」

 クリストフの一喝に、フランクは不満げに顔を背け、フレデリックは慇懃いんぎんに頭を下げた。二人の折り合いの悪さは以前からで、村おさが気にしたのはどちらかというと、あの老婆のことだと思われた。幸いエディスは女たちの方に行っており、皮肉含みのフレデリックの言葉を聞かれることはなかった。

「だが、困ったのはたしかだな。ジャン、何か案はあるか」

「銃を使えばわからんが……」

「無理だな」

「ああ」とジャンが頷いた。

 仮に猟銃で竜の鱗を貫通できたとしても、エリックたちの目的はあくまで解体なのだ。あなのひとつやふたつ空けたところで用をなさない。当然、できるなら傷をつけずに鱗を剥がしたい。このままでは、それすら達せずに終わりそうだった。

「すこし調べてみても?」

 互いに顔を見回し合う議員たちを見て、エリックは申し出た。ジャンがふり返る。

「当てがあるのか」

「そういうわけではありませんが……詳しく見れば何かわかるのではないかと」

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