ユーリに見下ろされる肉体を詠歌は他人事のように見下ろしていた。意識はある、現状は理解している。

 けれど、まるで夢を見ているようだった。

 魂と肉体の解離、幽体離脱。あの薬品の効果、だけではないだろう。

 眼下に在る光景は、その存在は、まさに非現実そのものなのだから。


「その後であなたは『猫』と一緒にその恐怖を捧げるの――『アイオド』様に」


 物言わぬ抜け殻となった詠歌に語るユーリ。それを取り巻くロープ状の触手が今の詠歌にははっきりと見えていた。

 透明な粘液が滴たる触手はユーリの手足、顔に舐めるように触れている。鳥肌が立ちそうなその光景に、ユーリは動じない。信奉する神、『アイオド』にその身を委ねているからか、それとも単に見えていないのか。


(『アイオド』……確かそれは、対攻神話プレデター・ロアの古き神の一柱)


 記憶を思考で、触手を視線で辿っていけば、その形容し難い神性へとたどり着く。

 昆虫と同じ、しかしあまりに巨大な一個の複眼。顔にあたる部分が全て眼で埋まっている。そこに意思の光を窺う事は出来ない。

 その巨大な眼を支えるのは、ムカデのような節足、それと違うのは足に当たる部分が全て触手で構成されている事だ。

 ユーリへと伸びる長く太い触手と、振動するように無数の細く短い触手が蠢いている。

 節足動物の特徴を持つ腹面と違い、背面は魚のような鱗に覆われていた。光に乏しいこの廃屋内であっても、鈍い光を放つ鱗が背面全てを覆っていた。

 先日の事件以来、詠歌も『非科学現象証明委員会』の備品(つまりは会長の私物)を読み解き、多少なりとも対攻神話プレデター・ロアに関する知識をつけていた。

 それを引っ張り出せば、『アイオド』に関する記述もあった。

 曰く、魂を狩り立てる者。

 曰く、輝きの追跡者。

 人間とは異なる次元に潜み、人間の魂を狩る事を遊戯とする邪神の一柱。

 『クタニド』のような善神でも『ウルタールの猫』のような因果に関係なく、ただ人を襲う邪神である、と。


(……分からない。『クタニド』ならまだ理解出来た。でもこの『アイオド』に、どうして信仰を捧げるんだ?)


 アイネもサエキも内心はどうであれ、信仰を捧げていた『クタニド』にはそれだけの価値があっただろう。人を救う善神、世界で信仰される神々と同じだった。

 けれど『アイオド』にはそれがない。試練を与える神というわけでもない、ただ悪戯に人を襲うだけの邪神。決して人に味方する神ではないにも関わらず、何故それを信仰するのか。


(アイネの言っていた『審問会』と何か関係があるのか……分からない事が多すぎる)


 詠歌が『アイオド』を前にして冷静な思考を保てていたのは薬品によって魂が肉体から剥がれていたからだろう。もしも自由に動く手足があったなら、ユーリの言うような肉体の恐怖に屈していただろう。

 ユーリの語りに耳を傾けながら、思考に耽るが打開策は見えず、相変わらず教団の内情も見えては来ない。


(このままじゃ僕は、この『アイオド』の餌か玩具になるだけだ。でも何が出来る? 聖剣もない今の僕に)


 触手はユーリだけではない。詠歌を捕らえた鎧にも一際大きな触手が巻き付いている。これが黒騎士を縛り、ユーリへと服従させているのだろう。

 魂が剥き出しとなったからこそ、詠歌は『アイオド』を視認する事が出来た。けれどそれはつまり、『アイオド』の狩場に足を踏み入れたのと同じ事だ。『アイオド』が動き出せば、それを止める術など詠歌にはない。

 対攻神話プレデター・ロアに侵された黒騎士と同じように、魂の全てを奪われるだろう。


(何も出来ない。僕は特別なんかじゃない、特別なのは聖剣だ。今の僕はこうして、アイリスが助けてくれるのを震えて待つしかない)


 肉体と魂は本来、離れる事のない比翼連理。今まで感じた事のない孤独感の中、詠歌に諦めが混じる。


(勇士を名乗っておいて、結局これだ。……やっぱり僕には)


 勇士なんて相応しくない、と一度は出した答えが逆戻りしていく。

 聖剣を失った詠歌には対攻神話プレデター・ロアには敵わない。それは覆らない。

 自らへ失望する最中、『アイオド』が動いた。身動ぎするように体を震わせた。詠歌を獲物と、自らに捧げられた供物だと認識したのだろう。

 床を這いずろうと腹をつけた事で完全に露わになった、その背には。


(アイネ……!?)


 詠歌たちの前から姿を消したアイネ・ウルタールが『アイオド』の背に拘束されていた。腰までが完全に沈み込み、両手は触手によって持ち上げられ、磔にされた聖人のようだった。瞳は開かれているが意識はない。

 精神だけが『アイオド』の領域へと移動した詠歌と違い、アイネは肉体だけが『アイオド』に囚われているのだろう。肉体の恐怖を捧げる為に。

 それを見て、詠歌は悲観と諦観に沈んでいた意識を呼び起こす。

 ――聖剣がなくとも彼が久守詠歌である事に変わりはない。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが唯一選んだ人間である事に変わりはない。


(ああ、もう……無事でいてくれれば良かったのに)


 本当に自分の意思でユーリと共に去ったのなら、ただ再び詠歌たちの敵へと回っただけなら、良かった。

 けれど詠歌と同じ、『アイオド』へと捧げられた供物であるならば。

 詠歌と同じように、助けを待つしか出来ない生贄の身ならば。


(そんな姿を見せられたら、分不相応だろうと何だろうと、助けなくちゃいけないって、そう思うだろう……!)


 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが選んだのは聖剣の使い手ではない。

 剣を取り、手を執ったからこそ、自らの運命の担い手として詠歌を選んだのだ。

 それはアイリスもシグルズも、詠歌を認めた者たちも同じだ。聖剣の輝きに目が眩んだわけではない。

 ただ当たり前に、目の前の人に手を差し出せる者だから。それは尊い事だろう、だが決して珍しい者ではない。

 けれど、当人たちにとってそれは何物にも勝る輝きが映るのだ。


(どうすればいい、僕に何が出来る!?)


 這いずり、徐々に近づく『アイオド』、その体長は肉体から魂が剥がれていなければ見上げる程の長さを持っていた。およそ五メートルほど、触手を含めればその三倍程になるだろう。体を折り曲げている為に天井までは届いていないがそれでも普段なら見上げる高さだ。

 そんな巨体が目の前へと近づいて来る恐怖に抗いながら、詠歌は視線を巡らす。眼下の肉体は虚ろな表情で横たわるだけ、それを眺めるユーリは其処には居ないように『アイオド』の体をすり抜ける。

 肉体から離れ、ただ意識が揺蕩うだけの詠歌には文字通り打つ手がない。だがそれだけで諦められるようなら、アイネを助けようなどとは考えない。


(……聖剣もなしに神に立ち向かおうなんてのが間違いなんだ。なら、何をやっても無駄な足掻きだ。だからこそ、思う存分に足掻ける)


 普段なら考えても決して実行しないだろう事も、今なら出来る。

 手を伸ばすように、或いは水中でもがく様に詠歌は”それ”へと意識を近づけた。

 この場で唯一、詠歌と同じように『アイオド』の領域へと上がれる可能性を持つ者に。


(どっちでもいい、けどあの時感じたものが本心なら、力を貸してくれよ……!)




 ◇◆◇◆




 間違ってはいなかった、と確信を得る。

 賭けには勝った、であれば次は勝負に勝つだけ。

 全てはその為だった。その為に此処まで来たのだ。

 これでようやく始められる。

 奪われた誇りと矜持を取り戻す戦いを。




 ◇◆◇◆




 詠歌の意識に降り掛かる、他者の意識。

 魂のままに触れるというのはそういう事だ。本来であれば見えないはずのものが見え、聞こえないはずのものが聞こえる。

 今、詠歌が感じるのは憤怒、嫌悪、憎悪、恐怖、後悔、無念に殺意。およそ思い浮かぶ限りの負の感情。


(あ、ぐっ……!)


 意識が塗り潰され、流されそうになる。吹き荒れる感情に取り込まれそうになりながら、吹き飛ばされそうになりながら、懸命にもがく。


「こんな感情もの、僕も同じだ……!」


 だからこそ、呑まれるわけにはいかない。言葉を持たない剥き出しの感情だけを見ても、本心が分かるわけではないのだから。


「言いたい事があるならはっきり言え!」


 どれだけ激しい負の感情であっても、それに触れても分からない。一体それが何に向けられたものなのか、一体何にそれほど怒っているのか。

 それを知らずに、それに流されるわけにはいかない。


「僕は僕の前で、対攻神話プレデター・ロアなんて訳の分からないものが好き勝手するのが許せない! 気に食わない! だからこうして足掻いてる!」


 魂に触れているのは詠歌も同じ。詠歌がこの狂おしい感情の渦に入り込んだように、詠歌の感情も届くはずだ。

 いや、お互いにお互いの抱く感情を知っているからこそ、互いを選んだ。


「お前もそうなんじゃないのか!? このまま好き勝手使われるのが嫌でッ、僕を連れて来たんじゃないのかよ!」


 そう、それは今、そしてあの時も微かに感じたもの。負の感情の中に含まれていたもの。

 希望と言うにはあまりに淡い、ほんの僅かな期待の感情。

 感情の渦の中心へと辿り着こうと伸ばされた詠歌の手を、ゴツゴツとした何か掴んだ。


「!」


 次の瞬間、感情の渦を突っ切り、その中心へと詠歌のが引きずりこまれる。

 目まぐるしく流れていく感情に呑まれないよう、目を閉じた。

 やがて渦を抜けたその先は、台風の目のように穏やかだった。


「……はぁ」


 外側と違い、そこは静寂に包まれ、詠歌の嘆息が響いて聞こえる。まだ耳の奥でガンガンと残響が鳴り響いて、頭痛がする。


『――然り』


 首を振って残響を追い出すと、鈴の音のような凛とした声が詠歌の耳に届く。

 顔を上げると周囲は意外にも真っ白に染まっていた。中心とはいえ、あれ程の感情の渦の中だ、静寂であってももっと混沌とした景色を想像していただけに、少し意外だった。


なんじの言う通りだ、人間』


 声の主に実体はなかった。それは未だ魂だけの詠歌も同じだが、今ははっきりと自分の手足が認識出来る。

 しかし声の主は首のない人の形を象ってはいたが、紫煙で出来ていた。


『汝の言う対攻神話プレデター・ロアとやらが何であるのか、我は知らぬ。だがそれがあの邪神を指しているのなら、我が抱く感情は汝と同様である』

「そうだよ。あのふざけた見た目をした奴が、対攻神話プレデター・ロアだ」


 まだ立ち上がれそうになく、紫煙を見上げて詠歌が首肯する。まるっきりの考えなしではなかったとはいえ、予想以上に理知的な声に驚く。

 加えて、あくまで声の印象だけでの判断ではあるが、もう一つ驚いた。


「……君、女性だったんだ」


 あの姿から、てっきり男だとばかり詠歌は思っていた。


『見れば分かるだろう』


 いや分からない。思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込む。詠歌が明るくないだけで、実はあの鎧にも女性らしさがあったのかもしれない。どちらにせよ今は煙状なので声以外で性別など分かるはずもないが。


「聞いてたとは思うけど、僕は久守詠歌」


 性別が何であれ、会話が可能なら最低限の挨拶はしておく。人間の常識とはいえ、名乗って失礼という事はないだろう。


『我はリシュライナ。聞いていたぞ、人間』


 自己紹介に応じはしたが、紫煙――リシュライナは詠歌の名を呼ぶつもりはないらしい。果たして彼女が人間をどう見ているのかは分からないが、種族が違う以上、意思疎通が出来るだけでも十分だろう。


「一応確認しておくけど、君自身の意思では僕と敵対……いいや、僕をどうこうしようってつもりはないんだね?」


 言葉を選び直し、リシュライナへと問いかける。今の詠歌を殺す程度、彼女にも容易いはずだ。


『ああ。我には我の目的がある。それを果たす手段として汝を選んだのだ。その程度しか、今の我には許されていなかった』

「その目的って?」


 その問いには沈黙し、逆にリシュライナが詠歌に問う。


『汝の目的は何だ? 我も汝の感情に触れはしたが、確認しておきたい』

「……大層な目的はないよ。アイネを連れ帰りたい、それだけだ」

『それは』


 詠歌が言い切るよりも速く、言葉を被せた。そこが重要なのだと言わんばかりに。


『あの少女を殺してか?』

「有り得ない。……僕には他人の命を背負うなんて出来ないよ」


 だけど、と詠歌は言葉を続ける。このまま綺麗事だけで語るのは簡単だ。だがそれだけで乗り越えられる程、現実は甘くない。だからせめてもの覚悟を口にする。


「神様を殺す覚悟なら、ある」


 既に一度、アイリスの神殺しの片棒を担いでいる。リシュライナたち、人でない者にとってはその方が業が深く映るのかもしれないが、詠歌にとっては何倍もマシだった。


『ならば良し。我と汝の目的は一致している。我もあの神の蛮行は腹に据えかねている』


 紫煙が揺らぎ、人型が崩れて詠歌の方へと流れ始める。周囲を漂いだした紫煙に詠歌は慌てて待ったを掛ける。


「待ってくれ、もし君が自由になったとして、どうするつもりなんだ? 僕や会長、アイリスはどうなる?」

『心配は無用だ。我は我の本分を果たすのみ、汝たちに危害を加える事はない』

「……信じていいんだな?」

『無論』


 その言葉と共に、停滞していた紫煙が一気に詠歌を包み込む。今までと違い、それに触れても感情の渦に晒される事はない。

 覚悟を決め、詠歌は瞳を閉じて紫煙を受け入れる。

 最初に捕らえられた時、この場に至るまでに感じたあの負の感情、その理由はまだ分からない。それでも今は、互いに互いが必要だった。


『聖剣を持つ人間、汝は勇士と呼ばれていたな』

「……それが? 不似合いだって自覚はある」

『然り。勇士と言うならば剣だけではない、鎧が必要だろう。剣の方は留守だが』


 体を包む紫煙が姿を変える。現実の詠歌の肉体を包むものと同じ、黒騎士の鎧へと。


『此度に限り、我が勇士の鎧となろう。が具足、存分にふるうが良い』


 捕らえられた時には感じられなかった鎧の重み。剣道の防具と比べれば明らかに重いが、その重厚な見た目に似合わない軽さ。

 時折、手に吸い付く様にも感じる聖剣と同じく、その重量感が体に馴染む。

 その漆黒の鎧は勇者エインヘリアルには不似合いだが、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの勇士に相応しい輝きを放っていた。


『汝が反逆の意思を持つならば、往け、人間』


 リシュライナの言葉と共に、詠歌の意識が遠退いて行く。剥がれた魂が在るべき体へと戻ろうとしているのだと直感的に感じる。

 最後に自らの手で、ヘルムのバイザーを下ろした。それはリシュライナの心遣いか、或いは詠歌の持つ意思の表れなのか、無骨なグレートヘルムから、騎士の兜、ナイトヘルムへと姿を変えていた。




 ◇◆◇◆




 ビクリ、と詠歌の肉体が痙攣する。それを見下ろすユーリは薬の副作用だと思った。審問会の一人が研究の末に生み出した失敗作、触れ込み通りの効果だけではないだろうと思っていた。詠歌の頭部に紫煙が集い、騎士兜へと変化するまでは。


「え……!?」


 黒騎士の鎧に拘束され、倒れ伏していた詠歌の手が握られる。ユーリの思い通りに動くはずの黒騎士が、彼女の意思に反して動き出す。


「随分長い間、離れてた気がするよ……出来れば二度は経験したくないかな」


 床板を擦り、金属音と共に詠歌は立ち上がった。泥のように重かった手足が自由を取り戻す。兜に包まれているはずの視界は明瞭で、むしろ今までよりも良く見える程だ。

 そう、肉体に戻ってもなお、詠歌の瞳は『アイオド』の異形を捉えていた。


「あなた、どうして……!?」


 困惑するユーリを他所に、詠歌は自分の首筋へと伸びていた『アイオド』の触手を掴み、力任せに引きちぎる。

 未だ折れた指先は痛むが、無視した。


『GOAAAAAAA!』


 初めて聴いた『アイオド』の声はドラム缶を打ち鳴らしたかのような耳障りな音だった。

 千切れ、床に落ちた触手は溶けるように消える。それに目もくれず、詠歌は『アイオド』とユーリを見つめている。


「く、久守詠歌! どうやって……!」

「……君にも言いたい事はあるけれど、後回しだ」


 変わらず全身を『アイオド』の触手に巻き付かれているユーリから視線を外し、『アイオド』の背に囚われたアイネへと視線を向ける。


「まずはアイネを返してもらう」

「何を……! 『猫』は既に神様の御前に捧げられたんです! それを取り戻す事なんて……!」

「だったら引きずり下ろすだけだ……!」


 今もユーリには『アイオド』もアイネの姿が見えていない。だから自身を縛る触手にも気付けない。果たしてその姿が『アイオド』の加護の形なのか、詠歌には分からない。


「リシュ、届くかッ?」

『造作もない……待て、何だその呼び方は!?』


 敵意を露わにし、触手を蠢かせる『アイオド』を前に詠歌は鎧の力を本人に確認する。が、突然の慣れない呼び方にリシュライナが声を上げた。


「今は我慢してくれ!」


 日本人からすれば馴染みのない名前だ。この状況で舌でも噛んだら目も当てられない、と呼び名を縮めた。本人の了承を得ている暇もない。


『ええい、ならばせめてレラと呼べ! それも気に食わんが!』


 不服さを隠そうともせず、渋々提示されたレラの訂正案に頷き、詠歌は床を蹴った。レラの言葉を信じ、全力でではない。しかし床はその脚力に詠歌が跳ぶと同時にメキメキと音を立て、穴を空ける。

 想像以上に軽やかに眼前にまで跳び上がった詠歌に向け、『アイオド』の触手が殺到する。『ウルタールの猫』の時とは違い、迎え撃つのではなく、懐に跳び込む形。たとえ聖剣を携えていたとしてもその全てを斬り落とす事は叶わなかっただろう。


「……!」


 四肢の全てを拘束される事だけは避けようと身構えるが、『アイオド』の触手は鎧に触れた瞬間に弾かれ、詠歌の自由を奪う事はなかった。


『何を呆けている! 汝の体を動かすのは汝の意思だ!』

「っ、ああ!」


 対攻神話プレデター・ロアに呑み込まれたレラの力を過小評価していた。今、詠歌の身を包む鎧は神を相手にしてもその黒曜の輝きを曇らす事はない。

 レラに言われるまでもなく、詠歌は自身の意思で手を伸ばし、はじかれた触手の一本を掴み、縄を張るように引っ張ったそれを足場に、再度跳躍する。生身では決して出来ない芸当だが、先の跳躍の時点でもう躊躇いは消えていた。

 人の身で神を見下ろそうとする詠歌に、『アイオド』はその姿を捉えようと巨大な複眼を上に向ける。


「潰れろ!」


 向けられた複眼に目掛け、詠歌はガンドレットに包まれた右腕を振り下ろす。ぐちゅり、と眼球が潰れる嫌な感触と粘着質な感覚が鎧越しに伝わって来た。


『GAAAAAAAAAAAAAAA!?』

「なに、これ……!?」


 神であり、異形であったとしても眼球を潰されて平気なはずはない。耳障りな悲鳴とユーリの驚愕の声を聞き流し、複眼の中に突っ込まれた右手を支えに、今度こそ詠歌は『アイオド』を飛び越え、その背へと至った。


『どうやら今ので神を引きずり出したようだな。あの少女の瞳にも姿が映っている』

「今は、どうでもいい!」


 がむしゃらに体を振り、背中へと伸びる触手に振り落とされないよう、鱗と鱗の間に手を入れて掴みながら、詠歌はアイネへと近づいていく。


『無手の上、這い回るとは騎士らしからぬが、仕方ない』


 さらに不服そうなレラの声も聞き流し、ようやく詠歌の手がアイネを拘束する触手へと掛かる。それを乱雑に引きちぎり、同時に鱗を蹴る。その勢いでアイネの背に手を回し、抱き抱えながら『アイオド』の背から飛び降りた。

 廃屋内に転がっていた風化した家具の一部を押し潰し、無様ではあるがアイネの体を傷つけないように着地する。

 べっとりと『アイオド』の粘液に濡れたアイネの体を確認し、その胸が上下しているのを見て安堵の溜め息を吐く。


『気を抜くな! 仮にも神がこの程度のはずがない!』


 叱咤するレラの言葉通り、千切れた触手と潰れた眼球から緑色の液体を垂れ流す『アイオド』が咆哮する。断末魔の叫びではなく、詠歌という敵対者に対する怒りの叫びだ。鎧越しでなければ耳を塞ぐ程の絶叫にビリビリと鎧が震える。


「きゃ……!?」


 その叫びに気を取られた間に、詠歌の視界の外で伸びていた『アイオド』の触手がユーリを持ち上げた。


「何をするつもりだ……?」


 まさか神が人間相手に人質を持ち出すとも思えない。確かにそうなれば詠歌は彼女を見捨てる事は出来ない。だがそんな事、『アイオド』が知るはずもない。


『奴に彼女を渡してはならない! 奴はその娘の代わりを求めているのだ!』

「アイネの……? それって……!」


 アイネは『アイオド』の餌として恐怖を捧げていた。粘液に濡れたその姿が証拠だろう。その代わりという事はつまり、今度はユーリを取り込み、餌とするつもりだという事。


「まさか、『アイオド』様……!?」


 触手によって繋がり、『アイオド』を視界に収めたユーリが信じられないという青ざめた顔で自身を持ち上げる『アイオド』を見る。その表情には明らかな怯えが混じっていて、アイネや詠歌に対するような余裕も冷徹さも感じられない。


「ひっ……!」


 見せつけるように目の前で揺れ動く触手にユーリが絶句する。それに向ける瞳には信仰する神への尊敬など混じってはいない。ただ純粋な恐怖と生理的な嫌悪の色に染まっている。


『もう一度跳べ、奴の肉体を引き裂け!』

「……駄目だ!」


 その姿を見て、それでも詠歌はレラの指示に首を振った。


『約束を違えるのか、人間!?』

「アイネを抱えたままだ! 僕だけならまだしも、今のアイネを放っておけない! そういう約束だ……!」


 『アイオド』を放っておくつもりはない。しかしそれはアイネの安全を確保した後だ。かつて『ウルタールの猫』を宿した彼女はもう、ただの人間と変わらない。詠歌のように身を守る鎧もなく、この場に残せばそれを守り切る自信など詠歌にはない。


『此処で奴を止めねば機を逃すぞ! 今しかない、奴から餌を取り上げたこの瞬間しか! 汝はあの少女を見殺しにするのか!』

「それは……!」


 餌として捕えるならすぐに命や魂を奪われるという事はないだろう。確信などない、今知り得る情報からの推測に過ぎない。

 どうすればいい、と自問するまでもなかった。レラに語った言葉に嘘はない。どうせ自分は誰であっても見殺しにする事なんて出来ない。そういう性分なのだ。

 詠歌は自身にはアイリスたちのような芯がないと自嘲する。アイリスを手を執ったのも、アイネを見捨てられないのも、そんなものは当たり前だ。間違いだとは思わない、しかし胸を張って誇るような事でもない。

 だから取るべき行動は自然と絞られる。


「だったらこうすればいいだろ!」


 アイリスならこんな真似はしない、彩華ならきっと別の方法を考え付く。それが出来ない自分への苛立ちから、語気を荒げながら兜を脱ぎ捨てた。


『汝、何を……』


 困惑するレラに答えず、詠歌は意識を取り戻した時から感じていた衝動に身を、魂を任せた。


『まさか汝……!』


 詠歌が何をしようとしているのか、レラが気付く。それに気付く事が出来たのは鎧の内側の騒めきを感じたからだ。


「約束だ、嘘にしないでくれよ……!」


 その言葉を最後に、詠歌の魂は肉体を離れていく。視点は高くなり、意識は浮上していく。

 詠歌の体内に残ったあの薬品の効果によるものだった。未完成のその効力は永続的に続くものではないが、この短時間で消えるものでもない。

 鎧に身を包んだ後も魂は肉体から剥がれ落ちようとしていた。それを留めていたのはレラの力だ。肉体の枠から外れようとする魂ごと、詠歌を鎧によって閉じる。そうする事で薬品に対抗していた。

 だが兜が外れた事で魂はそこから一気に噴出する。人の目には見えないそれを追いかけ、鎧の内から紫煙が溢れたが、詠歌の最後の言葉を聞いて、内部へと戻っていく。


「……」


 鎧の中に残されたのは物言わぬ詠歌の肉体だけ。何事かを呟くように口が動き、やがて閉じた。完全に魂が離れた証だった。


『承知……!』


 レラには詠歌の魂が見えている。魂だけでは物に触れる事も、意思を伝える事も出来ない。だがその代わりに叶う事がある。

 取り込まれようとしていたユーリを擦り抜け、詠歌は自ら『アイオド』の触手に触れた。

 予期せぬ攻撃を受けた『アイオド』にとって、代わる餌の確保は最優先なのだろう。非力であっても暴れ、抵抗するユーリを放し、自ら飛び込んで来た詠歌へと触手を殺到させる。

 すぐに詠歌の姿は触手の海に消え、レラの目にも映らなくなった。


『共に来い!』


 アイネと『アイオド』から解放されたユーリを両脇に抱え、レラは詠歌以上の力で跳躍する。『アイオド』を悠々と越え、天井を突き破る程に高く。

 一度だけ眼下の『アイオド』のおぞましい異形を見下ろし、勢いを殺す事無く彼方へと消えた。

 街にはいつのまにか陽が沈み、夜の帳が下りようとしていた。

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