第四話 泉に網張る深山の旅籠

1/7 歓迎光臨!

怜乱れいらんよ、お前さん、温泉に興味はないか?」

 突然そんなことを言い出した相棒を振り返り、怜乱は首を傾げた。

「温泉? 別に嫌いじゃないけど。突然どうしたのさ」

「いや、丁度このあたりに温泉宿があるはずなのを思い出してな。お前さんが嫌いじゃないなら、少しばかり顔を出してみようと思ったんだ」

 いい提案だろうと言わんばかりに尻尾を振る相棒に、怜乱は少しばかり視線を巡らせ、首を傾げる仕草を返す。

老狼らおろう、この辺りはそんなに大きい街もないし、街道だって名ばかりの小径こみちだよ。温泉宿なんて手間のかかるものを作っても、わざわざ来る人なんていないと思うけど」

「わはは。もっともな意見だな。俺もそう言ったんだが、兎に角場所が良いからここに宿を建てないとの一点張りでな。勝手にしろと言ったらえらく乗り気でなぁ。もうだいぶ前の話だが、その後どうなったかは見に行ったことがないんだよな」

「偶然近くを通りがかったし、ついでに寄っておこうってこと?」

「そういうことだ。それに、人間はだいたい温泉が好きだろう?

 お前さん、行水はするが澡堂ふろやには行かんから、盗人でも心配してるんじゃないかと思ったんだ。あそこなら滅多なことでは人が足を踏み入れないから、安全だぞ」

 どうやら心配されているらしいと察して、怜乱は決まり悪げに首の後ろに手をやった。

「……いや、別に盗人を心配しているわけじゃないんだけど。……そうか、老狼は『ぼくら』の躯体からだがどういうつくりなのかは知らないのか」

「知らないことはないぞ? 髪が針鼠みたいだったり、肌や白眼に刺青がびっしり入ってたり、身体のどこかが金属だったりするやつだろう? だが、そんなものは妖にだっていくらでもいるじゃないか」

「あー、まぁ、老狼だとそうなるか。でもさ、今まで巡ってきたのって小さい町ばかりだったでしょう。妖も住んでないような集落だと、一目で違う何かだと判るといろいろ面倒くさいんだよね。定住するならともかく、僕みたいな旅人は揉め事の火種になるのはなるべく避けないとね」

「はー。お前さんもいろいろ考えてはいるんだなぁ」

「『は』って何なの、『は』って」

 抗議する怜乱に笑って、老狼は尻尾を振り回した。

「お前さんは全く思考が表に出んからなぁ。ところで、どうする?」

「うーん、まぁ、老狼がせっかく勧めてくれてるんだし。行ってみようかな」

「よしきた。じゃ、先行くぞ」

 上機嫌に尻尾を一振りして、狼は少年を追い越した。


             *  *  *


 ほとんど獣道と化している街道を辿って山奥へと分け入り、さらに横道に入って山を登る。そうしてたどり着いた建物を見て、怜乱は呆れたように眉を上げた。

「……何これ」

「……あー、いや、俺もここまでとは思わなかった」

 ぽかんと建物を見上げた狼が応えて言う。

 深山の幽谷には、いくつもの建物が回廊でつながれながら山肌を這い上がっていた。赤い柱の間に填められた欄間は動植物の彫刻で彩られ、扉や手すりは美しく磨き上げられている。まだ昼間なので火は入っていないものの、軒下には所狭しと灯籠が吊されて、陽が暮れるのを待っていた。

 まるで仙境伝おとぎばなしにでも出てくるような建築物に圧倒されて、二人はしばしその場に立ち尽くした。

「……老狼、ここ、君の知らない間に上位の管理者とかに召し上げられたんじゃない?」

「いや、それはない……と思うんだが」

 しきりに首を捻る狼だったが、答えがわかるわけもない。そんな相棒を尻目に、気を取り直した怜乱は掃き清められた飛び石を踏んで入り口へと向かった。


 歩いて行くと、大門いりぐちの下にうずくまる、何者かの姿が見えた。

 灰茶の髪を低い位置で団子にし、女中のような衣装に身を包んだ十七、八の娘だ。膝の上にほうきを抱え込み、憂鬱そうな顔で時折溜息をついている。

 怜乱はあやかしの気配のする娘の前に立ち、声を掛けた。

「こんにちは、初めまして。小姐おねえさんはこの建物の関係者?」

「……お客様……?!」

 怜乱の声を聞いたとたん、彼女ははじかれたように立ち上がった。

 そばかすの散る頬に笑みを浮かべ、ぱっと両手を広げて歓迎の意を示す。

歓迎光臨ようこそ、深山温泉郷へ! この温泉は、龍穴の上に湧く、とっても珍しい温泉です。妖のお客様はもちろん、人間のお客様も歓迎しておりますので、ささ、どうぞおあがりください!」

 一気に言い切った彼女だったが、次の瞬間にはがっくりと肩を落とす。

「……と、言いたいところなんですけれども。今、少々あれこれ立て込んでおりまして。もしかすると、お客様にはご不快な思いをさせてしまうかも知れないんです、ごめんなさい」

「……?」

「どうした柚林ゆうりん。この建物とはえらく正反対のようすじゃないか」

 理由を問おうと口を開き掛けた怜乱の後ろから、ようやく追いついてきた狼の声が被る。

 その声を耳にして、娘はぱっと表情を明るくした。

大神公たーしぇんくー!」

 嬉しそうに声を上げて、胸の前で手を組む彼女だったが、再びしょんぼりと肩を落とす。

「大神公……お待ちしておりました、と申し上げたいところなのですが。わたしの力が及ばないばかりに、おもてなしができそうにありませんのです……」

「どういうことだ? お前さんだってもう百年もここにいるんだ。その辺の小妖こものにつつかれてどうにかなるようなもんでもないだろう」

「そうなんですけれども……」

 口籠もる柚林の言葉を遮って、怜乱が手を上げる。

小姐おねえさん、ちょっとごめんね。老狼らおろう、彼女は?」

「あぁ、紹介がまだだったな。こいつがくだんの知り合いでな。狐狸あなぐまの精で柚林ゆうりんという。柚林、こいつは旅の連れでな、画師えし怜乱れいらんだ」

「……画師?! 大神公たーしぇんくー、画師なんかと一緒にいて大丈夫なんですか?! 何か失敗して封じられでもしたら……!」

 狼の紹介を聞いて、柚林は唐突に慌てだした。

 老狼が封じられたら大変だとあたふたしている彼女の肩を押さえて、狼は落ち着け、と声を掛ける。怜乱もそれに倣った。

「いや、画師ぼくらだって無差別に妖を封じて回ってるわけじゃないよ。老狼なんか人畜無害も良い所だし、君だってここで宿を構えて人を食べてるとかならともかく、そうでないなら何もしないよ」

「ほ、本当ですか……? あの、お願いですから、大神公を封じたりしないでくださいね。きっとですよ」

 必死に顔を覗き込んでくる柚林を、怜乱はとりなす。

「大丈夫だって。それとも、老狼のこと、信用してない?」

「め、滅相もない! 大神公が悪いことをなさるなんて、絶対絶対あり得ないです!!」

「でしょう。だから、君が心配する必要なんてないよ。ところで、柚林さん。立て込んでるって話だったけど、もしかして、熊か何かの妖が営業妨害しに来てたりするのかな」

「! なんでそれを?! は、もしかしてあれですか、あなたが裏で糸とか引いてるんですか……!」

 怜乱が問いかけると、柚林は一瞬ぽかんと目を丸くした。直後、くるると歯をむき出して唸りだした柚林を、老狼が慌てて押さえる。

「いや、あの壁にいくつもついてる爪痕。あの五本傷は熊のものでしょう。妖熊ようゆう連中は妙に執着心が強いのが多いから、そうかなって思ったんだ」

「……! すごい! そうなんです! あなた、なかなかの名探偵ですね……?!」

 首を横に振り壁を示した怜乱の言葉に、柚林は目をきらめかせた。

 そんな彼女の後ろで、狼が肩を竦めて首を振る。どうやら単純な性格は昔からということらしい。

「あー、うん。別に推理も何もしてないけどね?」

「いやいや、ご謙遜なさらず。さすが、歴戦の画師様は違いますね!

 あ、立ち話も何ですから、中でお茶でも飲まれませんか」

 そう言って、柚林は二人の先に立った。

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